数多くの木簡の発見によって、かなり当時の平城京がわかってきました。これからも過去の文化遺産は、新発見がある度に変更されながら、進んでいくことでしょう。
このジオラマは、奈良の市役所に展示されているもので、今後、さらに変更するものがあるかもしれません。
当時の役所で生計を立てる人は7000人を数えたと言います。
律令制度は、個人の土地所有を禁じていた。すべては国家のものでした。そして、自分の邸宅は決められたところに住みました。
木簡や出土品から誰の屋敷かが判明してきました。木札に氏名が書いてあり、木札の色で住んだ人の役所の中での位階が判ります。
三位以上の位の人は紫色の服を着ます。三位未満の人は赤の服です。従五位未満の官吏の服。そして一般の役人の服などは青です。
住居の名前のある木札も、位階の色に合せてあります。
人々の生活。これも役所直属の工場ですね。
位階による住み分けでも、長屋王のように、それが一等地だったとしても、屋敷を囲まれ、非業の死を迎えた人もいました。最も小さい役人の家でも400㎡ですね。
それに土地が個人の所有じゃないというのは初めてしりました
まさに都の町中に400平方㍍の敷地。
下級役人でもうらやましい程ですね。
しかし、日の出と共に出勤はつらい
事だったと思います。
家並みは今で言う、公共団地でしょうか。これらの場所の大部分が江戸時代までは田畑であったと言います。そして、その畦道に当たるところが、当時の土塀の跡として残っていたそうです。
明治になって、国の保存を訴えて、今の姿を残した奈良の偉人もいます。
どこを掘っても、建物の柱の跡が出るそうです。
生活の様子は、ピンからキリまで、豊かもあれば、貧もあったことが、記録にありますね。
政争の渦巻く修羅場もあったことでしょうね。
「北の平城京」
と言っていいかもしれません。(笑
当時の町並み再現のジオラマの写真で、全体の1割くらいでしょうか。