富山マネジメント・アカデミー

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なぜ、富山湾岸社会主義がうまれたのか?

2017年08月31日 | Weblog

滑川の平井某が社会主義者になったのには、背景がある。売薬業の青年たちが営業の傍ら、社会主義宣伝物を富山へ持ち帰ってきた。当初は、立憲青年党のような大正デモクラシー運動からスタートした。その歴史資料は、滑川の市立図書館にある。富山県には、英文の「共産党宣言」の日本語への翻訳が、富山で行われたという伝説がある。これは、富山藩校が明治2年に英語学校を開いたためである。その後、富山の蓮町に富山高等学校が開設され、その「英語教育」水準は、全国でも屈指の存在だという。ともあれ、富山の英語教育は、富山湾岸社会主義に影響を及ぼしている。船橋村は、川筋では滑川、水橋に近いが、富山湾岸社会主義とは一線を画していた。この違いは、強調しておいてよい。

今では、信じられないが、富山市から県東部は、戦後の労働運動の聖地であった。魚津の日本カーバイトの労働組合の書記は、吉本隆明であった。彼は、青年期には魚津で思考を鍛えていた。不二越の労組の有力な活動家から自律し、田中精密、石金精機など、関連企業がうまれ、これら零細企業が成長し、ソーシャリズムからマネジメントへと時代が変動した。

富山湾岸社会主義がなぜ生まれたのか?根源は、浜辺の集落の生業の貧しさである。冬季には、漁業がしにくい。明治維新は、同時に、富山においては、北海道移民の始まりである。富山の米騒動には、特色がある。それは、魚津町にも滑川町にも、飢饉に備えた義倉米の制度があった。そのファンドからの緊急の支援を要請する行動である。打ちこわしではない。貧困からの離脱、それは産業を起こす、企業を起こすことである。不二越を核として、「町工場」として、機械工業が県東部に生まれた。その後、労働運動か、ビジネスの起業か、歴史は、後者に栄冠を与えた。

なぜ、日本の労働運動は破産したのか?それは、ソ連共産党、中国共産党の対日工作の資金を基本金としていたからである。それが、次第に暴露されたからだ。しかし、それに連座した人脈は、過去を暴露されたくない。だからこそ、富山湾岸社会主義は、80歳の高齢層に秘密の共有という病的な宿根をもっている。表情が暗い。

 

 

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