IT業務でも、時間制の定型労働がある。サーバーの保守管理は、常態を維持することが目的である。反対に、成果単位の知識労働がある。ITでは、プログラマーの作業である。伝統的な業務の企業でも、企業内の定型労働と成果単位の労働がある。
実は、楽な面では、定型労働は時間への奉仕者であるから、時間という神に守られる。成果単位の知識労働は、大学教員がそうであるが、労働時間に限りがない。研究は、寝ても頭脳演算している。僕には、その習慣があるから、労働時間という概念はない。研究が天職であると自覚すると、24時間、その目的に向かっている。今も、休みはない。ワークがライフと同心円になっている。
労働の性質の違いに応じて、労働契約の概念を多元化する方向へと進んでいる。しかし、日本の場合、定型労働を経験しない正社員は存在しない。どこかで、社内教育として経験させられている。ルートセールスの経験なくして、企画営業はできない。
こうした諸問題につき、労働組合が能動的で、可変的で、長期に維持できる制度を設計できないで、やたら、政策官庁の思いつきに振り回されているのが現状である。
労働における時間概念は、ロボットの活用により、定型労働が置き替えられるとすれば、あとは経営学の関する学習時間を労働時間に外に置くか、内に置くかできまる。業務研修は、時間内。大事な、ワークをライフに高める自己研鑽は、労働ではないから、ライフに属する。つまり、そこには定年もない「職能型知識体系」があるからだ。時間制の定型労働と、成果単位の知識労働を対比し、残業代を論争しているようでは情けない。欧米の学説には当てはまらない精神文化が、日本にはある。それは、「和」を保つことで得られる安心感である。残業代と「和」を保つ経費の自己負担との微妙な兼ね合いがある。
日本の「働き方改革」は、政治の課題とすること、それ自体が疑問である。企業の営業の自主権に属する次元、公法の領域からの労働研究には、マネジメント科学を主体とせず、外野席からの批評に基軸がある。最近、政治が労働に介入しすぎる。自由主義に反する行為である。伸びる企業、潰れる企業、それは市場原理で淘汰される。日本に企業には、微妙な「和」への調整機能がある。平素から「働き方」改革はなされている。