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富山湾岸社会主義の歴史遺産の正と負

2017年08月05日 | Weblog

歴史的には、富山湾岸には、農地にも恵まれない、漁業権にも恵まれない貧困層に属する民衆がいた。加賀藩の藩政は、「十村」役の担う豪農層に任された。宗教的には、浄土真宗が主流である。ほんのわずか、日蓮宗の集落もあった。

富山湾岸に社会主義の拠点が生まれたのは、滑川である。情報のルートは売薬さんたちである。大正デモクラシーの拠点が、滑川にあった。富山県史の近代の下巻を書くとき、滑川市立図書館の史料提供を求めたが拒絶された。富山湾岸の社会主義運動は、湾岸の町の図書館、郷土史家に色濃く残されている。実は、富山市立図書館もそうである。今は変わったが、富山湾岸の社会主義が正しかったかどうか、史料まで焼却するべきでないので、保管を提案した。富山は、保守王国ではなかった。

全ては、米騒動の時代にさかのぼる。下新川には、旧の労働省につながる人脈が、今でも強い。法政大学の大原社会問題研究所とのつながりも深い。日本の社会主義運動のルーツは、最初は、アメリカの組合主義派のキリスト教運動に起源がある。それは、中国の孫文でも同じである。アメリカ留学をしてきた新島譲、京都の同志社大学も、富山湾岸の社会主義運動に関係している。アメリカかぶれと、社会主義とが結合し、大正デモクラシーが、日本の社会主義の本流を形成する。

そのなかで、ロシア共産党の展開した極東のコミンテルンに繋がる勢力が、共産党であり、労農党である。労農党の影響力が強いのは、新潟大学である。富山湾岸の社会主義の運動は、労農系が強い。ロシアの支部にならず、独自路線を歩んだ。日本共産党は、コミンテルンの日本支部で、ロシアの利益を代弁して、天皇制絶対権力との武装革命を志向し、ソ連軍、アメリカ軍、中共軍をすべて解放軍として歓迎した。戦前は、ごく少数の秘密組織であった。だから、農地解放、地主制度廃止を唱える富山湾岸社会主義運動は、とやまの最大の政治勢力であった。富山の在地の新聞メディアは、その歴史遺産を背負っている。

厳格に、富山湾岸社会主義運動を評価できるのは、人権、福祉、貧民救済、障がい者支援の水準が、富山県が優れていることである。富山人のアイデンティティの形成に大きく寄与してきたことである。彼らに無いのは、地域経済の成長戦略である。企業の納税、雇用、調達の3点での役割を極端に低く評価し、実業家を金持ちとして排除する精神構造である。アダム・スミスの「諸国民の富」の第一編の結論は、製造業の実業家の計画性、視野の広さが、地域の経済発展の基礎となると論じている。それが、正しい市民論である。富山大学では、湾岸社会主義運動の運動家たちを「市民」と想定し、そういう「市民」を育てると宣言している。これは、「市民運動」を名乗る湾岸社会主義運動である。経済学的には、成功している企業家こそが、市民のリーダーである。市民権と人権を混同してはいけない。

 

 

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