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井波律子さん、手抜き工事の第2弾

2017年01月06日 | Weblog

「論語」の第2の難読箇所は、雍也篇の第10章、冉伯牛の臨死の場面で、駆け付けた孔子が、伯牛の手を執り、叫ぶ言葉の翻訳である。井波さんは、訓読では、「曰く、之を亡ぼせり。命なるかな。」とする。そして、口語訳では、「もうおしまいだ。天命というほかない」とする。解説では、訓読、口語訳につき、「不明な点がある」と認めても、大事な中国で流布している楊伯峻が中華書局から公刊した「論語訳注」の参照をネグレクトしている。

そこでは、原文の<亡之>の「之」の解釈に 新釈を打ち出している。楊伯峻は、この「 之」は、代名詞でもなく、「亡」の目的語ではないと主張している。彼は主要文字が「論語」では、どのような意味で使用されているか、丁寧に分析している。そこから、「亡」は「無」と同義で、「亡!」すなわち「無かれ」と理解する。孔子が伯牛の手を握り、「もうおしまいだ」と言ったのではない。

そこで、小生は、王引之の「経伝釈詞」を参照する。 『書経』では、「之」の用例として、「之」=「若」(ごとし)とある。楊伯峻さんは、それを知っての注釈だった。そこから、⇒「亡(無)、之(若)命矣夫。 無からん、天命のごとくとするかと口語訳できる。つまり、結論として、< あってはならない(死んではいかん)、天命のごとくするか、この人にこの病あることを、この人にこの病あることを。>と孔子が、伯牛の意識回復のために、しっかりと叫ぶ場面である。

だから、井波さんが、単なる本屋さんのチームとして、商品生産されているなら、「完訳論語」は、平気で店頭に並べるがよい。しかし、最低限、吉川幸次郎先生が没後に出された貴重な業績を見落としてのは、学者としてはお粗末すぎる。楊伯峻にもミスはあるが、「亡!、之(若)命矣夫」という学説は、傾聴に値する。まして、「古漢語常用字典」商務印書館を参照すれば、「亡」は一文字で、「無」と同義だと分かる。漢代にも用例がある。「論語」の成立のプロセスで、漢代の文献の用例も大事である。漢代では、「亡」一文字で、「無かれ」と同義だと容易に理解できていた。程樹徳を参照すると、楊伯峻の新説が成立することが分かる。井波さんは、きちんと読んでいない。なお、程樹徳は、伯牛の病が、ライ病、ハンセン氏病でないという考証に熱中している。それでも、孔子のセリフは、この病気で亡くなる道はあってはならない、と「亡」を正確に理解している。

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