TMA講師代表の専門研究:中国国民党・中国共産党の歴史、創業者は、前者は孫文、後者は陳独秀とされる。本当は、後者は蔡元培が創立した光復会の流れに、孫文の信奉者とが合流した組織で、国民党と初期の共産党は、革命党として同じ政党だった。
さて、「論語」を深く読むと、孔子は軍国主義という国家戦略に忠実な思想家だとわかる。国家は、礼の制度により正義が価値の源泉となる。民衆が国家のために戦士として生命をかけて戦える忠義の人材をいかに要請するのか・孔子は、武官ではなく、文官を育成し、軍国主義を実現しようとした。これが、孔子の初期の思想である。そこから、礼の制度論から「法治主義」が生まれ、この学派は「荀子」に繋がっていく。強い国でないと、民衆に優しい国になれない、という元気のある理論といえる。
孔子は晩年にむけ、「民衆に優しい国」こそ「強い国」になれるという民本主義に傾く。その流れが「孟子」である。
この理論は、1500年ものちに北宋・南宋の王朝で、ある種の実験がなされた。宋代の学問は、孔子の礼の学問から「大学」と「中庸」を取り出し、「論語」の入り口として、「論語」の読後には、「孟子」を推奨している。特に朱熹は、官僚としての実務の義務を避け、学者としての名声を重んじた。
その結果、漢民族国家である宋王朝は、北宋時代は遼と金に領土を奪われた。南宋は、中国の北半分を失った「半分の中国王朝」であった。最後のモンゴル大帝国に滅ぼされる。結果として、「孟子」を重視した政治思想は、破たんした。だから、現代の中国共産党は、「荀子」型を選び、強国思想を前に出した。どうして、「荀子」型が「民衆に優しい国」になれるのか?「孟子」の民本主義の方が正しいのではないか?このように思われる。ところが、「荀子」は、性悪説をとるから、悪に染まりやすい人間も、本質的に善の人間も、国家への貢献におうじた報奨や爵位を制度化した。善悪二分法を避け、文官優位、武官劣位の差別を設けないで、国家への貢献に応じ、民衆の社会的な身分を上昇させる制度を設計した。上流階級になれる道筋を構築した。それが、貴族主義の社会においては、「民衆に優しい国」、富める国に導いた。そのため、北方の遊牧騎馬民族に勝てる漢民族の国家が生まれた。秦と漢は、荀子型の国家である。ところが、豪族が中心の社会となると、やはり弱い民衆が社会の底辺で救済を求めるようになる。それで、漢時代には「孟子」学が復興してくる。「孔子」⇒「荀子」⇒「孟子」⇒「孔子2」⇒「荀子2」⇒「孟子2」⇒・・・・と、中国は階段を登っている。そして、21世紀、ようやく最底辺の貧農が生存を保証され、教育の機会を保障されようとしている。中共中央の強国思想には、民衆に優しい政策の土台がある、といえる。