富山マネジメント・アカデミー

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思い込みの恐さ、必要な科学的根拠

2016年01月01日 | Weblog

TMA講師の自戒:2016.1.1念頭にあたり、自戒の念を記しておきたい。大学で、中国の歴史を専攻した。そのうえで、中国近代史、とりわけ孫文の研究に取り組んだ。孫文を理解するのは、彼の知識の源である読書の軌跡をたどれば、その読後感を確かめていくと、基本的なことが分かる。こうして、孫文研究の新しい研究方法を確立した。その精華は、武上真理子さんが立派な博士論文として京都大学に提出、のちに学術書籍として公刊された。孫文は、アカデミズムでいうサイエンスにも接点はあるが、そのサイエンスが民衆の生活改善に寄与できる社会工学的なエンジニアリングの世界に属していた。彼はもともと外科医であり、産婦人科医として、大英帝国の医師免許を有していた。香港の西医書院において、医師の試験に合格することが、彼の最終学歴であった。使用された言語は、英語である。教授者たちは、イギリスの国教会系の宣教師の団体から派遣されていた。彼に決定的な影響を与えたのが、カントリー教授とその夫人である。孫文は立派な中華人のクリスチャンであった。洗礼を受けたのは、アメリカ系の公理宗とよばれたコングリゲーショナル派の教会と牧師である。孫文が公衆衛生学に深い関心を示し、貧民街でセツルメント活動をする医学生のとき、彼が中国人社会をまるごと公衆衛生学的に全面改良する可能性を内在する人物であると見抜いたのは、カントリー教授である。そして、香港中国人の指導者であり、西医書院の院長であった何啓である。中国社会を内科的な手法で改善する道、つまり平和的な説得により人々の脳裏を変えていく道を教えた。クリスチャンとして当然の布教活動のスタイルである。孫文は、基本は、そのような活動スタイルを貫き、最後は、ロシア革命を成功させたレーニン・スターリンらの論客が派遣したコミンテルンの描いた中国社会変革図を拒み、民生主義という孫文の思考を貫いた。

彼は夫人が妊娠し、出産する神秘の場を経験している。その時、内科的な方法ではなく、外科的な方法の一時的な救命法も知っている。孫文が香港で革命団体を結成したとき、素朴にも悪の根源である清王朝の軍隊を軍事的に崩壊させるため、いきなり革命軍を組織することを決意し、カントリー教授の紹介で、香港にいた梅屋庄吉という写真館を営む人物にあい、その縁で在香港の日本領事館に、日本政府からの武器援助を申し出ている。その情報は、不思議なことに原敬に達した。ここで、僕は思い込みの恐さを知った。というのは、当時の写真館の役割である。梅屋庄吉は、純粋の民間人の実業家であると思い込んでいた。書かれた梅屋庄吉と孫文の関係の著作、論文は、すべて民間実業家と思い込んでいた。当時、日本国の陸軍参謀本部では、隣国の大清帝国を南方から領土を削り、南中国の漢民族国家を創る構想を持っていた。他方で、朝鮮半島から中国東北へ植民地を広げる構想を推進し、日清戦争を準備し、その別働の作戦として南中国での漢民族による清朝からの独立を目指す軍事作戦を準備していた。そのためには、陸軍では現地の知識を得るため、太平天国の戦史を研究する将校を派遣し、各地の写真を収集していた。つまり、写真屋さんは表向きは肖像写真を営利としたが、実は軍事情報として、まず作戦予定地の地図と写真が欠かせないわけである。こうして、悪くいうと、孫文は日本陸軍の南方工作に利用されていたといえる。

最近、台湾の民進党系の研究者により、孫文は日本軍の協力者であるというレッテルが貼られ、台湾でも孫文の権威は完全に地に落ちた。しかし、孫文が日本軍との親密な関係を解消し、コミンテルンとの提携を模索するが、それを秘密裏に中継したのも、日本軍の情報工作であるといえる。なぜ、孫文の容共政策を日本陸軍の参謀本部の一部が容認したのかといえば、孫文・桂太郎の会談に秘密がある。彼らの共通認識として、大英帝国(資本主義の牙城)のためのパックス・ブリタニカの時代を終わらせるには、ロシアの力を利用し、反英帝国の世界戦争に利用しようとしたからである。日露戦争の当時、レーニンも秘かに日本の情報将校に通じていた。では。孫文に何の価値もないのか?それは、彼が残した著作がある。一般には、三民主義が有名であるが、一冊の英文の図書がある。日本語では、中国の国際的発展という題名で、中国語版では「実業計画」として公刊された。政治思想家として、中国経済の国際的なリンク、特にアメリカの実業界と中国経済との資本取引の自由が人類の経済の基本問題であると指摘している。日本軍の特務軍事と協力した孫文であったが、パックス・ブリタニカの時代を終わらせ、アメリカ、ロシアとの協調において、来るべき世界戦争を想定し、それを事前に避ける内科療法として、アメリカが中国への資本投資を行い有効需要を生み出す必要を説いた英文著作は、後にイギリスのケインズ派に評価され、大英帝国が親日外交を辞め、親中国外交に転換する、有力な蒋介石支援に踏み切る素地となった。有名なカイロ会談に蒋介石が招請され、それがもとで国連の常任理事国の一角を占めることにつながった。

ここでもう一つの思い込みの恐さを知る。日本陸軍の世界史的な役割につき、従軍慰安婦の問題で全称否定しそうになる。そうではなく、第一次世界大戦の終結までの日本陸軍が、パックス・ブリタニカの時代(第一次国際金本位制度)戦争における勝利は肯定するべきである。孫文と日本とは、よきパートナーであったことは誇るべきことである。問題は、第一次大戦の終結からのちの世界史の変動に対し、日本の針路は大きく誤り、中国は国連の常任理事国の一角を占めるまでに成長した。それは、孫文が、そして蒋介石がクリスチャンであった、この事実に由来する。孫文が日本陸軍のスパイだとする台湾の民進党の世界観の狭量には賛成できない。

 


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