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6月28日(日)のつぶやき

2015年06月29日 01時43分15秒 | キリスト教

◆しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

2015年06月28日 17時09分12秒 | 聖書

(出エジプト七・一二)

この事件は、神の御手のわざが、それに反対するすべてのものに確実な勝利を得るという、教訓に富む象徴である。神の原則が心の中に投ぜられる時はいつでも、たとえ悪魔が偽りを作り無数の敵を作り出しても、神が働いておられる以上は、すべての敵をのみこむ。もし神の恵みが人をとらえるならば、この世の呪術師はその杖を投げ捨てる。その一つ一つはへびのようにずる賢く、有害であるが、アロンの杖は彼らの杖をのみこむ。十字架の不思議な引力は人の心に訴え、人の心をとらえる。すると、偽りに満ちたこの地上のためにのみ生きていた人が、高い世界に目を注ぎ、大空高く翼を張って駆けるようになる。恵みが勝利を得る時、世俗的な人も、やがて来る世界を求めるようになる。
同様の事実は信者の生涯においても認められる。私たちの信仰は、どれほど多くの敵に会わなければならないことであろう。私たちの古い数々の罪――悪魔はそれらを私たちの前に投げた。するとそれらはへびに変わった。なんと数の多かったことであろう! ああ、しかしイエスの十字架はそれらをすべて滅ぼす。キリストへの信仰は、私たちのすべての罪をただちに殺す。すると、悪魔はさらに一群のへびを放つ。それは、この世の試み、誘惑、不信仰である。しかしイエスへの信仰は、それらをものともせず、すべて征服する。
同様の原則は、神のための忠実な奉仕の中にも輝く。イエスに対する燃えるような愛によって困難は克服され、犠牲は楽しみとなり、苦しみは名誉となる。
信仰は、このように心を焼き尽くすほどの熱情であるのだが、信仰を告白しながらも、その実、信者でない人が多くいる。なぜなら、彼らがもっているものは、このテストに耐えることができないからである。読者よ。この点において自分を省みよ。アロンの杖は、天来の力をもつことを実証した。あなたの信仰も同様だろうか。もしキリストが何かであるのならば、キリストはすべてでなければならない。おお、イエスにある愛と信仰があなたを支配する熱情となるまでは、心を安んじてはならない。

 


「私の兄弟たち。

2015年06月28日 17時08分22秒 | 聖書

さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)

私達は、個人的年間計画を作る。
1年間の月々の予定を書き込む。
しかし、そこに「試練」の予定は入っていない。
試練は必ず臨むのに、頭にはまるで無いかのようだ。
祈る時はどうだろう。
試練を祈り求める必要はないが、だいたいにおいて「守り」「祝福」「助け」に終始する。
しかし、自らの成長の事を考えると、肯定的なもの、順境だけなら、人間は弱いので神から離れてしまう。
順境の時は、人は神を求めない。
人間には頑なな罪の性質があり、甘いものではない。
「おのおの、自分かってな道に向かって行」きがちだ。
逆境は苦しく、辛いが、人はそこでこそ成長する。
一番神に近かったのはいつだろう。
試練の時ではなかったか。私達は良きものを与えて下さいと祈る。
私達は、良いものとは必ず順境を想像しているが、神にとっては逆境が、その時の良いものかも知れない。
いずれにせよ、その時々に、神から来たものは順境であれ、逆境であれ良いものだ。
しばしば試練は良いものとは決して思えない。
どちらであれ、「感謝して受け取ることができるようにして下さい」が祈りとされたい。
結果的に、私達を更に神に近づけるものが、良いものなのだから。
ネガティブな事は悪との私達の価値観が問題であり、改める必要があるかも知れない。
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病にあれば一歩一歩の歩みに神様を頼り、人間関係で悩む時には口から出す一言一言が祈り心だ。
そして御手に導かれて過ごせた事を心から感謝する。
振り返ると一番神様の近くにいる時だ。


◆怒りをおそくする者

2015年06月28日 11時03分45秒 | 聖書

怒りをおそくする者は勇士にまさり、
自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(箴言一六32)

あなたは怒りっぽいでしょうか。
自分の感情のコントロールができないで「怒る」ことと、正しい愛の心をもって、条理にかなったきびしいことばで「叱る」こととは違います。怒り方にもタイプがあります。かんしゃく持ちの爆発型もあるし、ねちねち怒る人もいます。
いずれにしても怒る人は、人の上に立てませんし、責任をもって事に当たることに不向きです。怒る人は、他人のした仕事の責任をとることもせず、他人にやる気を起こさせて、この人とならやるぞと人を動かすこともできません。ですから、家庭も職場も治めることができないでしょう。
すぐ怒る人は、自分の心が支配できない人です。反対に、自分の心を治める人は、「町を攻め取る者にまさる」といわれています。その置かれた立場は、たとえ大将でなくても、社長でなくても、人生のいろいろの場面でのリーダーになれるのです。
付け焼き刃や修養などでは、この心のコントロールはできません。昔から「山中の賊は治めやすく、心中の賊は治めにくい」といいます。中国人もインド人も西欧人も、皆このことを認めているようです。
聖書は、「内住のキリストこそ奥義」と述べています。へりくだって心をからっぽにして、その心の王座に、限りなく謙遜で柔和で愛のある真の王者、キリストに入って治めていただくことです。自分の意志を強くしてもだめでしょう。ものすごいワンマンの親分を、それより強いワンマンのやくざの親分が追い出して座っても、変わりがありません。心の中に神を迎えなければなりません。くだけた心に、信仰によってキリストを迎え入れることこそ、怒りをおそくする奥の手でしょう。怒りをおそくできる人こそ、真の人生の勇者です。

 


◆イエスから目を離さないでいなさい。

2015年06月28日 11時02分35秒 | 聖書

(ヘブル一二・二)

私たちの目を自分からイエスに移させるのは、聖霊の不断の働きである。サタンの働きはその正反対である。サタンは、常にキリストを見させず、私たち自身を見させようとするからだ。そしてこうほのめかす。「おまえの罪は、ゆるされるにはあまりにも大きい。おまえは信仰を全然もっていない。悔い改めがなっていない。長続きするはずがない。神の子としての喜びもない。ただ気まぐれにキリストにすがりついているにすぎない」と。これらはすべて私たち自身についての考えであり、私たちは自分の内を見ることによっては、決して慰めや確信を見いだすことはない。
しかし聖霊は、私たちの目を私たち自身から全く移される。主は私たちが無であり、「キリストがすべてである」ことを告げられる。だから次のことを覚えよ。あなたが救われるのは、あなたがキリストをとらえていることによってではない。キリストがあなたをお救いになったのである。あなたが救われるのは、キリストのうちにあるあなたの喜びによるのではない。キリストがあなたを救われたのである。またあなたが救われるのは、キリストへの信仰によるのでさえない。それは手段ではあるが、あなたを救うのはキリストの御血といさおしなのである。キリストをとらえているあなたの手を見ず、希望の源泉であるイエスを見よ。あなたの信仰を見ず、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離すな。
私たちは自らの祈り、行為、感情を見ることによっては、決して幸福を見いだすことはない。たましいに平安を与えるのは私たちではなく、イエスである。ただちにサタンを征服し、神との平和を得たいと望むならば、「イエスから目を離さない」以外に道はない。あなたの目を単純にイエスに注ぎ、主の死、苦難、いさおし、栄光、とりなしをあなたの心にあざやかにせよ。
朝目が覚める時イエスを見つめ、夜休む時もイエスを見つめよ。おお、あなたの希望や恐れで、イエスとの間を隔てないようにせよ。しっかりとイエスについて行け。主は決してあなたを裏切られることはない。

 


第2列王記19章20-28節

2015年06月28日 11時01分09秒 | 聖書

19:27 「あなたがすわるのも、出て行くのも、入るのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。
19:28 あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。」



 ヒゼキヤの祈りの言葉をお聞きくださった主は、預言者イザヤを彼の元に遣わしてくださいました。

そして、彼の伝える言葉を通して、主がアッシリヤの王をどのように扱われるかということを知らせました。

 主は語られました。

王よ、あなたは自分の力で多くの国を滅ぼし、破壊してきたと。

しかしながら、あなたは知らないのか。

そのように成さしめたのはこの私であることを、と告げられたのです。

主がそのことを大昔からご計画し、またそれを果たしたのだと告げられたのです。

 イスラエルの神こそ、世界のすべての歴史を支配し、ご自分の思うところの思いとご計画に従ってことを成されている、そのような方であると告げたのです。


2コリント11章29節(エゼキエル45章)

2015年06月28日 10時59分05秒 | 聖書

★だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

■O:今日のコラム
シャローム!

ローマ12:5

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

一人ひとりが各器官で、なくてはならない存在です。


人の弱さを見る時私たちはさまざまな思いになりますが、自分も同じようにどこかしら弱さがあるということを覚えます。


足の小指をぶつけたらとても痛いのと同じように、誰かがつまずくのであれば激しく心が痛むといってます。



■A:考えてみよう
ヨハネ13:34

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。


お互いの弱さを認め、そこを指摘するのではなく、愛によって神の家族がたてあがっていきますように。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月27日(土)のつぶやき

2015年06月28日 01時42分34秒 | キリスト教

◆おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。

2015年06月27日 16時38分59秒 | 聖書

(Ⅰコリント七・二〇)

ある人々は愚かな考えを抱く。彼らは神のために生きる唯一の道が、伝道者、宣教師、婦人伝道者になることであると言う。ああ、もしそうだったら、どんなに多くの人々が、いと高きお方をあがめる機会をもたないことになるであろう。愛する者よ。私たちに神の栄光をたたえさせるものは、職務ではなく熱心であり、地位ではなく恵みなのである。靴屋の店で、信仰深い職人が道具をせっせと動かしながら救い主の愛を歌うとき、神は最も確実にあがめられる。多くの大聖堂の聖職者席で、職業的宗教家が貧弱な職務を果たすのに比べれば、はるかによく神はあがめられている。貧しい無学な運送屋が馬をかりながら神を賛美し、あるいは道ばたで仲間に神を語るとき、イエスの御名は、高名な神学者が国中を巡回してボアネルゲのように福音を大声で叫ぶときと同様にあがめられる。私たちがそれぞれの職業にあって主に仕えることによって、神はあがめられる。
愛する友よ。自分の職業を離れることで、義務を放棄しないように注意せよ。また仕事に励んでいるとき、あなたの職業を辱しめないように注意せよ。自分のことを重視しすぎてはならないが、あなたの職業を軽んじてはならない。すべての合法的職業は、福音により、最も尊い目的のためにきよめて用いられる。聖書を開いてみよ。そこで、最も卑しいとされる種類の労働が、最も勇敢な信仰の行為、輝かしい聖潔の生涯を送った人々と結びついているのを見いだすであろう。
だからあなたの職業に失望してはならない。神があなたに与えられる地位や仕事がどのようなものであれ、神があなたを他に召しておられることを確信するのでなければ、そこにとどまれ。あなたは、現在ある所で、力の限り最高度に神をあがめることを、第一の関心事とせよ。あなたの現在の持ち場を神への賛美で満たせ。神がもし他の場所であなたを必要とされるならば、それをあなたに示されるであろう。
今夜、煩わしい野心を捨て平和な満足を心に得よ。

 


「供え物をささげようとしているとき、

2015年06月27日 16時38分10秒 | 聖書

もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら…まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5:23)

ある人が、対人関係において大失敗をした。
友人を傷つけてしまったのだ。
自らの自己中心の罪のゆえの事だった。
御霊に示され、故意である事が否めなかった。
周辺の人々にも嫌な思いをさせ、すべて自らが引き起こした事だった。
御霊は語りかけられ、その罪の恐ろしさを示され、自らの罪を認めて、謝罪するよう言われた。
自分の愚かさ、失態を認め、謝る事はプライドが傷つく事であり、恥ずかしい、どうしても出来ない事であった。
自我は謝りたくないが、御霊は迫られた。
促され、逃れる事ができず、傷つけた相手、嫌な思いをさせた一人一人に謝る決心をした。
赦してもらえなくても、仕方の無い事だった。
思いきって謝罪した時、当の相手は気持ち良く赦してくれた。
他の人々も同様だった。赦される事の喜びと平安に心が満ち満ちた。
天にも上るような何にも代えられない喜びであった。
もし、赦しを拒否されたら、その人々との交わりも断たれ、その人々の交わりから出なくてはならなかった。
傷つけた自分自身も傷を持ったままだったろう。
神は謝罪を大いに祝福され、その当人とは無二の親友になってしまった。
あなたも、謝るべき相手が思い浮かぶだろうか。
御霊が示しておられたら、実行しよう。
大きな祝福を経験する。
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罪が示され、正直に謝るその言葉は素直に相手に響くのではないだろうか。
罪のないイエス様が私達の罪のために十字架にかかって下さった。
なおさら私達も和解を求めて行きたい。


今日の聖人の記念日

2015年06月27日 07時13分49秒 | キリスト教

聖チリロ(アレキサンドリア)司教教会博士

?-444年

 エジプトのアレキサンドリアに生まれた。380年にアレキサンドリアの司教となり、412年には、総大司教となった。当時の異説や異教の間違いを論破するために多くの本を著わし、説教をした。特に、当時広まっていたネストリウスの異端に対する反論は、チリロの名を歴史に残すこととなった。ネストリウスは、マリアを神の母「テオトコス」でなく、人間キリストの母「クリストトコス」にすぎないとする異説を広めていた。そのため教皇は、ネストリウスを破門し、問題の解決をチリロに任せた。怒ったネストリウスは、皇帝に適正な判断をしてくれるように訴えた。この調停のために431年にエフェソ公会議が召集され、チリロは教皇代理として出席した。同会議で、ネストリウスの異説は破門され、聖母マリアは神の母であることが決議された。

 しかしチリロは、ネストリウスが皇帝にざんげんしたことによって逮捕され、投獄された。そして釈放された後も、ネストリウスの異端と戦った。チリロは、東ローマ教会の4人の教父の1人とされている。また、彼は「聖母マリアの神学博士」と呼ばれている。


◆しらがは光栄の冠

2015年06月27日 07時12分21秒 | 聖書

しらがは光栄の冠、
それは正義の道に見いだされる。   (箴言一六31)

日本の社会は、ものすごい勢いで老齢化していきます。国をあげて幸福に老いるというか、幸福な老人になることが課題ではないでしょうか。社会福祉も、もちろん大切です。しかし、私たち一人一人の生き方にかかわる根本問題として、このことをとらえなければなりません。
「しらがは光栄の冠」といえるような老い方が確かにあります。ところが、大方はどうでしょう。年をとると、力を失います。今まで自分の力でやり抜いたのができなくなります。今までの地位や権力の座をほかの人にゆずりわたし、今まで受けてきた尊敬や興味や関心を失ってしまいます。人の世話にならなければ、どうすることもできません。生きがいを見失い、豊かな平安もゆとりもなくなります。ただ食い気だけの生き物になりさがっていきます。失う、そして果てるのです。
しかし、栄光に満ちた老年もあります。それは、若い時から自分の肉の力や知恵で得て、つかんで、ためこんできたのでなく、神の知恵・神の力で生き、与え続け、仕え続けてきて迎えた老年です。そんな老年には、豊かに備えられたものがあります。
第一に、老年になっても生きる目的や生きがいを、神がいつでも与えてくださいます。第二に、神に与えられた生きる目的が分かると、老年で寝たきりになっても、人に喜ばれ神に仕える仕事が与えられるものです。第三に、神と人の愛を受け、満足することができます。第四に、最後に神の愛と輝きの胸のもとに帰る望みに満ちています。
今、あなたの心はどうでしょうか。神は見ておられます。輝かしい老年への道・正義の道を歩んでいるでしょうか。

 


◆ただ、

2015年06月27日 07時11分18秒 | 聖書

決して遠くへ行ってはならない。(出エジプト八・二八)

これは、暴君パロの口から発せられたずる賢いことばである。パロは、もしあわれな奴隷の境遇にあるイスラエル人が、エジプトから出て行かなければならないとすれば、あまり遠くへは行かせないようにしようと思った。すなわち、その武力の届かない所、そのスパイたちの目の及ばない所へは行かせまいとしたのである。同様に、世の人々は、私たちが旗色を鮮明にすることを好まず、もっと寛大であり、厳格すぎないようにと言うのである。
この世に対して死に、キリストと共に葬られることは、世の人に嘲笑される経験である。だから、この教えはすべて無視され、軽蔑さえされる。この世の知恵は妥協の道を勧め、何ごとも「ほどほどにせよ」と言う。この世の意見によれば、純潔であることは望ましいが、あまり厳しすぎてはならない。真実であることはもちろん良いことであるに違いないが、過ちを厳しく非難するのはいけないと言う。この世は言う。「信仰深いことはよいことだ。でもにぎやかな社交を拒んではいけない。時にはダンス・パーティーにも行き、クリスマスの時に劇場へ行くぐらいのことはさしつかえない。流行をけなしたり、世の人たちが皆していることに、声を大きくして反対して何になるのか」と。多くの信仰告白者は、このずる賢いことばにつり込まれて、永遠の滅亡に陥る。
もし私たちがすべてを打ち捨てて主に従いたいと思うならば、ただちに孤立の荒野に行き、肉の世のエジプトを後にしなければならない。この世の格言を捨て、この世の快楽、この世の宗教を捨て、主がそのきよめられた民を召された場所へ、遠く旅立たなければならない。町が火炎に包まれる時、私たちの家は町から遠く離れていればいるほどよい。疫病がはやる時、その地から遠く離れていればいるほどよい。毒蛇からは遠く離れていればいるほど安全である。そして世の俗習からは、離れていればいるほどよいのである。すべての真の信者に向かって、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とのラッパを吹き鳴らせ。

 


第2列王記19章14-19節

2015年06月27日 07時09分34秒 | 聖書

19:15 ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。」



 ヒゼキヤはアッシリヤの王からの手紙を読んだ時、主の宮に上りました。

彼の心の内には、主に対する信頼と、この主により頼む以外に、自分の思いを置くところはありませんでした。

この主のみによりすがり、このお方にのみより頼もうと思ったのです。

彼は主に祈りました。

耳を開いて自分の祈りを聞いてください。

目を開いて敵が語った言葉を聞いてください、と祈ったのです。

 彼は信仰の人でした。

ですから、自分で敵に対する何かの方策を考える前に、まず主により頼み、主に祈り、また主の助けを願って、主の宮に行ったのです。

私たちも困難が起こったら、まず祈りの場に進み出ましょう。


2コリント10章17~18節

2015年06月27日 07時07分18秒 | 聖書

★誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。

■O:今日のコラム
現代はインターネットや情報を用いて幾らでも自分を有名にする事が出来る時代です。人格の成熟度合いや御霊の実を結んでいるか、主との関係の深みや御言葉に基づく誠実な歩みをしているか、を抜きにして情報だけが先行し、有名になり働きが増えると言う事が有り得るのです。

しかし、私達がフォーカスをあてるべき重要な点は自分がどれだけ人に知られ、有名で認められているか?と言う事よりも、自分がどれだけ主に知られ、主に認められているか?と言う事です。

パウロは「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」と言っています。

少年ダビデは荒野で羊を飼う中で主の御心にかなう者となり、主は預言者サムエルに対してしょダビデを次のイスラエルの王として推薦しました。

イエス様は御霊に導かれて荒野に行き、40日間の断食をし悪魔の誘惑に打ち勝ちました。その後、御霊の力を帯びてガリラヤに帰られると、主イエスの評判は回り一帯にくまなく広まりました。

主からの推薦を受ける者は、霊的な領域においても、人々に対しても神の国の影響力を及ぼす者となります。

人々から見える部分以上に、誰も注目し無い毎日の生活の中で天の父なる神に忠実になる事を追い求め続けましょう。言葉においても態度においても、生活の全ての領域で主の御心にかない、主に推薦される者となる事を共に目指そうではありませんか。

■A:考えてみよう
主の御心にかなう者となる為に、主の御言葉を蓄えましょう。今日、詩篇を5章、箴言を1章、その他にも、御言葉を音読して主の約束を心に留めましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。