座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ローマ人への手紙3章26節(エレミヤ32章)

2015年03月31日 06時55分00秒 | 聖書

★それは、今の時にご自身の義を現すためであり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

■O:今日のコラム
今日の聖書箇所の中には、律法によっては、かえって罪の意識が生じると書かれています。ローマ7章10節によると、律法によって、私たちの罪が明らかにされ、私たちを死に導くものだと書かれています。イザヤ書の中に、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」と書かれています。私たちも多かれ少なかれ、そのような体験をするのではないでしょうか?行いによって義を得ようとするなら、私たちは自分にはそれが到底無理であることを認めざる得ません。

パウロは、ローマ7章の中で、律法が良いものであり、自分がそれをしたい思いは、あるがそれをする力がないことを認めて、こう告白している。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし、そのすぐ後の節で、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝しますと言っています。つまり、パウロがキリストの中に、その解決を見出したのだということが分かります。
ガラテヤ3章24節に書かれている通りに、「こうして、律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました。」ということを悟るのです。イエス様が道であり、真理であり、いのちであることを感謝します。この方によってのみ、私たちは、大胆に父のもとに近づいて行くことができるのです。


■A:考えてみよう
自分の中に行いによって義と認められようとする部分はないだろうか?ただ、全ての中に、キリストを見上げ、キリストの中にある安息、解決を受け取って行こう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月30日(月)のつぶやき | トップ | 第2列王記4章8-17節 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

聖書」カテゴリの最新記事