(7)
ウイリアム・サローヤンは、アルメニアから来た移民の子として、カリフォーニア州フレズノで生まれた。
兄弟姉妹4人と父母の6人家族だったが、父親は、サローヤンが、1歳半の時に死んでしまった。
母親は、英語をよく理解しなかったこともあり、生活は楽でなく、4人の子供をすべて、孤児院に預けた。
母親は、女工として働いて、5年後になんとか、子供たちを引き取ることができた。
サローヤンは、他の子供と同様、幼い時から働いた。
「人間喜劇」に出てくるホーマーは、サローヤンの幼少時代の姿、そのものだといわれる。
母も、マッコウレー夫人、そのもので、心根の優しい人であったようだ。
「人間喜劇」は、たくさんの小話が集まって出来上がった、いわば、サローヤンの生きざまを映し出した世界であるように思える。 出てくる人たちは、必ずしも、成功した人たちではないし、経済的にも恵まれてはいないが、精いっぱい生きているのである。
電信技士をしているグローガンさんは、さまざまな人たちから送られてくる電信を見る立場にいて、町の人たちの希望、絶望、愛、出会い、別離など知ってしまう。
「今から帰るよ!」
「キスに愛をこめて!」
「さようなら!」とか、簡単な電文であっても、そこには人生の縮図がある。とうぜん、暗い側面を予感させるが、サローヤンは、ことさら、明るい面だけを見ようと努力していて、読む人たちをも、そのように誘っているように見えるのだ。
一つには、カリフォーニアの、明るい陽光が関係しているかもしれない。のどかな田舎の風景に囲まれ彼の世界は、こよなく明るいのである。
この作品に流れるものは、人間の善意である。
彼は、苦しいこと、悲しいことからも、ひたすら、明るい側面に目を向け続けている。
特に、少年たちの生きざま、さり気ない言葉使い、ふるまいを通して、彼らが、常に、明るく、たくましく生きている姿を描きつづけたようにおもえるのだ。
ある面、トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの世界に共通するように思われる。
彼らの、天衣無縫で、無謀ともおもえる世界とは、少し違って、サローヤンの世界は、同じ、少年たちでありながら、もっと現実的で、庶民の生活感、哀感がただよってくるのである。
彼らの生きる世界は、自分たちのためというより、常に、他のひとたちを想いやる心やさしい世界がある。
読む人の心をなぐさめるのは、この点かもしれない。
公立図書館で、司書が、二人の子供がうろうろしているのを見て、
「何を探しているの?」
「本です!」
「どんな本なの?」
「全部です!」
「一体、どういうおつもりなの?」
「見るだけです」
「見るだけ、というのは、どうゆう事?」
「見ては、いけませんか?」
「法律に違反するというわけではありませんが」
「こちらの人は誰?」
「彼は、ユリシーズです」
「彼は、文字が読めないのです!」
司書は、ここまで話してきて、どうやら事情が分かったようで、
「私も、60年間、本を読んできたが、たいして変わりはないわね!」「どうぞ!見たいだけ見てちょうだい!」
司書のギャラガーさんも善意の人である。人の不幸につけこむようなことをしない。
おそらく、マッコウレー夫人が、サローヤンの善意の世界を教えてくれる。
ライオネル少年が、
「ぼくがバカだから、みんなが嫌うの!」と言うと、
「あなたは、この近所でいちばんいい子供ですよ!」
「だけど、他の人たちに、腹を立ててはいけないよ!あの人たちも、いい子供なのだから!」と言うところがある。
このマッコウレー夫人の言葉が、サローヤンの作品に流れるテーマであるように思われる。
マーカスが、最後にホーマー宛てに出した手紙に、
「人間が、僕の敵になるなどとはあり得ない、僕には敵はいないのだ!」
彼には、最後まで、自分と同じ人間を敵には見ることができないでいたのである。