マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

心やさしい人たち

2010-05-15 18:15:57 | 日記

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 ウイリアム・サローヤンは、アルメニアから来た移民の子として、カリフォーニア州フレズノで生まれた。
 兄弟姉妹4人と父母の6人家族だったが、父親は、サローヤンが、1歳半の時に死んでしまった。
 母親は、英語をよく理解しなかったこともあり、生活は楽でなく、4人の子供をすべて、孤児院に預けた。
 母親は、女工として働いて、5年後になんとか、子供たちを引き取ることができた。

 サローヤンは、他の子供と同様、幼い時から働いた。
 「人間喜劇」に出てくるホーマーは、サローヤンの幼少時代の姿、そのものだといわれる。
 母も、マッコウレー夫人、そのもので、心根の優しい人であったようだ。

 「人間喜劇」は、たくさんの小話が集まって出来上がった、いわば、サローヤンの生きざまを映し出した世界であるように思える。 出てくる人たちは、必ずしも、成功した人たちではないし、経済的にも恵まれてはいないが、精いっぱい生きているのである。
 電信技士をしているグローガンさんは、さまざまな人たちから送られてくる電信を見る立場にいて、町の人たちの希望、絶望、愛、出会い、別離など知ってしまう。
 「今から帰るよ!」
 「キスに愛をこめて!」
 「さようなら!」とか、簡単な電文であっても、そこには人生の縮図がある。とうぜん、暗い側面を予感させるが、サローヤンは、ことさら、明るい面だけを見ようと努力していて、読む人たちをも、そのように誘っているように見えるのだ。
 一つには、カリフォーニアの、明るい陽光が関係しているかもしれない。のどかな田舎の風景に囲まれ彼の世界は、こよなく明るいのである。
 
 この作品に流れるものは、人間の善意である。
 彼は、苦しいこと、悲しいことからも、ひたすら、明るい側面に目を向け続けている。
 特に、少年たちの生きざま、さり気ない言葉使い、ふるまいを通して、彼らが、常に、明るく、たくましく生きている姿を描きつづけたようにおもえるのだ。
 ある面、トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの世界に共通するように思われる。
 彼らの、天衣無縫で、無謀ともおもえる世界とは、少し違って、サローヤンの世界は、同じ、少年たちでありながら、もっと現実的で、庶民の生活感、哀感がただよってくるのである。
 彼らの生きる世界は、自分たちのためというより、常に、他のひとたちを想いやる心やさしい世界がある。
 読む人の心をなぐさめるのは、この点かもしれない。

  公立図書館で、司書が、二人の子供がうろうろしているのを見て、
 「何を探しているの?」
 「本です!」
 「どんな本なの?」
 「全部です!」
 「一体、どういうおつもりなの?」
 「見るだけです」

 「見るだけ、というのは、どうゆう事?」
 「見ては、いけませんか?」
 「法律に違反するというわけではありませんが」
 「こちらの人は誰?」
 「彼は、ユリシーズです」
 「彼は、文字が読めないのです!」

 司書は、ここまで話してきて、どうやら事情が分かったようで、
 「私も、60年間、本を読んできたが、たいして変わりはないわね!」「どうぞ!見たいだけ見てちょうだい!」
 
 司書のギャラガーさんも善意の人である。人の不幸につけこむようなことをしない。

 おそらく、マッコウレー夫人が、サローヤンの善意の世界を教えてくれる。
 ライオネル少年が、
 「ぼくがバカだから、みんなが嫌うの!」と言うと、
 「あなたは、この近所でいちばんいい子供ですよ!」
 「だけど、他の人たちに、腹を立ててはいけないよ!あの人たちも、いい子供なのだから!」と言うところがある。

 このマッコウレー夫人の言葉が、サローヤンの作品に流れるテーマであるように思われる。
 マーカスが、最後にホーマー宛てに出した手紙に、
 「人間が、僕の敵になるなどとはあり得ない、僕には敵はいないのだ!」
 彼には、最後まで、自分と同じ人間を敵には見ることができないでいたのである。