歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

発掘された日本列島2008 太子塚古墳 馬の埴輪

2008年08月25日 | Weblog
 太子塚古墳は群馬県高崎市にある、古墳時代中期末(5世紀末)築造、全長24mの帆立貝式古墳。
 馬形埴輪は5世紀中から6世紀前半に現れるという。
 太子塚古墳の飾り馬の埴輪は、飾りも細かく描かれているし、ひときわ可愛らしいのが特徴。
 切り揃えたたてがみ、そして、かなりの馬具が認められる。鏡板付き轡、面繫(おもがい)、辻金具、手綱、胸繫、馬鐸、前輪、鞍、後輪、輪鐙、障泥(あおり)、尻繫、鈴杏葉などである。
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発掘された日本列島2008 寺福童遺跡 銅戈

2008年08月24日 | Weblog
 福岡県小郡市寺福童の寺福童(てらふくどう)遺跡では、2004年7月に弥生時代の銅戈9本(全長40cm)が見つかった。
 当時の人達が銅戈を繰り返し埋め直す祭祀を行っていたとみられることが昨年の調査で分かった。
 銅戈は五穀豊穣を祈る農耕の儀式に使われていたとみられる。
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発掘された日本列島2008 広田遺跡 貝製品

2008年08月24日 | Weblog
 広田遺跡は、種子島にある弥生時代後期から古墳時代にかけての埋葬跡の遺跡で、人骨や貝符・貝輪などたくさんの貝製品が出土しました。かつて、「山」字彫刻の貝符出土が話題になりました。
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発掘された日本列島2008 桜馬場遺跡 巴形銅器

2008年08月24日 | Weblog
 江戸東京博物館で開催されている、「発掘された日本列島2008」に、22日やっと行ってきました。この展示会は、昨年の出土品が直接見れる、そして、フラッシュなしであれば撮影できるというところによさを感じています。
 太子塚古墳の埴輪以外は照明が暗く、撮影は難しいのですが、それでも呼吸を止めて出来る限りブレが出ないようにして撮りました。
 それらを何回かに分けて紹介します。

 今回は、桜馬場遺跡(唐津市)出土の巴形銅器です。
 この遺跡からは、巴形銅器が全部で5点出土されています。
 1944   3点出土(重要文化財・昭和32年2月19日指定)
 2007.11 1点(直径5・5cm)および1944年に出土した3点のうち1点の破損部分の破片が出土。
 2008.6  1点(直径5・6cm、高さ2・6cm)が出土(5点目)参考:前出

 展示会場には2点が展示されていましたが、1点は鉤が2/3以上欠けた物で、これは2007.11出土した物。もう一点は、完成品で鉤がやや太いことから、2008.6出土の物なのでしょうか。(確認はできていません)
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高知県南国市 関遺跡 奈良時代の灌漑用水路発見

2008年08月23日 | Weblog
 22日県埋蔵文化財センターが、南国市大(おおそね)乙の関遺跡で、古代の県内最大級の潅漑用水路「関の大溝」が見つかったことを発表した。
 関の大溝は、香長平野に流れる下田川から引き込んだほぼ南北に延びるU字型の用水路で、幅約5m、深さ約1m、長さ約12mだが、同平野で開墾された一辺が約110mの条里制の水田を前提とすれば、長さは約100m以上あった可能性がある。
 溝底の出土土器から、大溝が利用されていたのは奈良時代後半(8世紀後半)から平安時代前半(10世紀ごろ)と推定される。
 約500m西には、倉庫群があった西野々遺跡があり、律令制が崩壊し始めた10世紀前半以降に消滅。関の大溝も同時期以降は、水田耕作を放棄して溝の上に粘土層などが堆積し、用水路としての利用は廃止されていた。
 同センターは「香長平野には土佐国衙や土佐国府跡があるが、すべて10世紀前半以降には生活の痕跡がなくなっている。今回は、米の生産に関しても同様な現象が裏付けられ、律令体制の崩壊と動乱や疫病の時期を経て、鎌倉時代へ向かう変遷がうかがいしれる発見となった」と話す。
 同時代は、紀貫之が土佐国府に国司として赴任しており、同センターでは「律令制が確立したころに造られた大規模な公的用水路。律令制の盛衰が、生産現場で分かる貴重な資料」と話している。
 24日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:高知新聞、産経新聞]
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京都府向日市 野田遺跡 長岡京北側に新たな条坊道路跡を発見

2008年08月21日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターが21日、長岡京跡(784-794年)の北側の野田遺跡(森本町野田)で、碁盤目状に区画する条坊道路跡が新たに見つかったことを発表した。
 都がさらに北に広がっていたことがほぼ確実となり、長岡京の成立や構造を解明する貴重な遺構といえそうだ。
 今回の調査では、これまで長岡京の北端とされてきた北京極大路からさらに約120m北の地点で、約9m幅の南北に走る2本の溝が見つかった。この溝は条坊道路跡(東二坊坊間西小路)とみられ、溝の外側からは掘っ立て柱の建物跡や井戸跡なども見つかった。
 平成17年の調査でも、北京極大路から約800m北の修理式遺跡(寺戸町修理式)から側溝を持つ幅24mの道路跡を確認。前年にその東側でも道路跡が見つかっていた。今回の調査で、長岡京全体がさらに北に広がっていたことが裏付けられた。
 これまでは都の一番北側に政治の中枢機関が集中する「宮城」があったとされていたが、同センターは「平城京をモデルとして最初に宮の中心部を決めたが、南は桂川が流れ、都を広げることができなかったため、北側に拡大させたのではないか」と話している。平城京や平安京とは異なった構造をとっていた可能性があるという。
 現地説明会は野田遺跡で23日午前10時から。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
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妙高市・西俣円墳群 金色の太刀出土

2008年08月21日 | Weblog
 妙高市教育委員会は、同市北条の西俣古墳群で、平安時代の遺構の下から横穴式石室(全長10m)を持つ古墳時代後期(600~650年ごろ)の円墳(径15m)が確認され、副葬品として金メッキが施された長さ約90cmの「金銅装圭頭(こんどうそうけいとう)太刀」が見つかったことを発表した。
 同じ刀は同市の谷内林古墳でも見つかっており、県内で2例目。今回発見した刀はほぼ全形をとどめ、きわめて保存状態がいいという。
 石室からは、他にも矢尻などの鉄製品約50点、耳飾りやガラスの小玉など約20点も見つかっており、大きな政治勢力が存在したことを示している。
 古墳時代後期の妙高市周辺は従来、古墳が密集する関川左岸の斐太地区が政治の中心と考えられていたという。
 しかし、今回、対岸地区で大量の副葬品を有する大規模古墳が確認されたことで、市教委担当者は「7世紀後半段階で、この地区に斐太とは別の大きな政治勢力が存在したことが明らかになった。この時代の歴史の定説を見直す契機になる貴重な発見」と話している。
 同市教委は23日午前10時から現地で説明会を開く。
[参考:読売新聞]
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寒河江市・上の寺遺跡 発掘調査説明会開催予定

2008年08月21日 | Weblog
財団法人山形県埋蔵文化財センターより、標題の開催予定が発表されています。

『上の寺遺跡(第2次)』の発掘調査説明会
日 時  :平成20年9月6日(土) 午後1時30分~3時
場 所  :集合場所:上の寺遺跡調査事務所(旧醍醐小学校跡)
説明会場:調査事務所及び上の寺遺跡(第2次)
成 果
 現在、慈恩寺には国の重要文化財の十二神将など多くの優れた仏像があります。上の寺遺跡は、鎌倉時代から室町時代にかけて十二神将などを納めていた薬師寺、聞持院(もんじいん)という寺院があった一帯に広がる遺跡です。
今回の調査では、柱穴や土坑、溝などの遺構が数多く見つかりました。また、中国産の磁器や、瀬戸美濃産の陶器、石塔など鎌倉時代から室町時代頃の出土品があります。
 今回の調査によって中世の慈恩寺を検討するうえで貴重な資料を得ることができました。         
[財団法人山形県埋蔵文化財センターHPより]

 前回、第1次発掘調査では、板碑、宝篋印塔、五輪塔が出土。ほかに、礎石を持つ建物跡、土抗、焼土、青磁、越前焼など、中世以前・中世・近世(16世紀末~18世紀)にかけての遺物がそれぞれ出土している。
[「上の寺遺跡発掘調査説明資料」 財団法人山形県埋蔵文化財センター]

 今回の第2次発掘調査は4月21日から行われており、今までに縄文時代の石器・土器、宝篋印塔および相輪部、中国製碁笥(ごけ)底の磁器皿(16世紀)、緑色釉薬の陶器、天目茶碗、古瀬戸の平碗、コの字形(実際は四角と推定できる)に並んだ大きな柱穴跡などが見つかっている。
[上の寺遺跡第2次発掘調査速報・財団法人山形県埋蔵文化財センター]
 上記については、全て財団法人山形県埋蔵文化財センターのホームページより得られます。

慈恩寺(じおんじ)
 山形県寒河江市大字慈恩寺。瑞宝山慈恩寺。慈恩宗の本山。本尊は弥勒菩薩。
 724年(神亀元年)行基がこの地を選び、746年(天平18年)、聖武天皇の勅命で菩提僊那(婆羅門僧正 704 – 760))が開基したと伝えられる。古くは天台宗・真言宗の二宗兼学の寺として、また出羽三山とともに修験道の寺としても栄えた。
 江戸時代には幕府から2,812余石の御朱印を受けて、最上院(天台宗)・花蔵院・宝蔵院(ともに真言宗)を中心として多くの子院を有し、東北に置ける天台宗・真言宗の中心的な寺院であった。第二次大戦後独立し、現在は慈恩宗を称している。
 境内には、本堂(国指定重要文化財)、三重塔、薬師堂、仁王門などが立ち並ぶ。
 平安、鎌倉時代に作られた阿弥陀如来像や十二神将をはじめとする仏像群は、ほとんどが国重要文化財に指定されている。
 慈恩寺のある山は瑞宝山と呼ぶのであろうか。山頂は標高271mでそれほど高くはない。寺院は標高180m位の所に建てられている。背後(北)に連なる山々、その中で古くは出羽三山のひとつであった葉山(標高1462m)は瑞宝山(慈恩寺)と一つの峰として、葉山を慈恩寺の奥の院だとする説が通じている。
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茨城県 十王堂遺跡 縄文中期から中世にわたる複合遺跡と判明

2008年08月20日 | Weblog
 県教育財団は19日、日立市末広町で実施していた「十王堂遺跡」の発掘調査結果をまとめた。
 遺跡はこれまで、縄文時代を中心とした集落跡が確認されていたが、今回の調査で、縄文時代中期から鎌倉・室町時代の中世にわたる複合遺跡であることや、遺構などから広範囲に及ぶことが分かった。
 同遺跡は市立大久保中学校の南側に位置し、発掘現場は東西に約100m、幅4-8m。
 財団によると、東側は主に縄文時代の遺物を含んだ層で、谷になった低地の西側は弥生中期の土坑など墓域があった。小高い台地上の中央部からは縄文時代の石囲いの炉や、平安時代の竪穴住居跡、室町時代後半の井戸などが確認された。
特に、縄文時代の土偶と中世の和鏡の出土は、県内遺跡では貴重な発掘となった。
 遺跡は縄文時代後期のものとみられていたが、縄文時代中・後期の竪穴住居跡12軒やフラスコ状土坑7基がみつかり、大規模集落であったことが確認された。
出土した(妊婦をかたどった)土偶は、一部が欠けていたが全体像が推定されるという。
 また、縄文時代後期から弥生時代中期のものとみられる木柱が出土した。木柱は直径約40cmで、土坑の底付近から見つかった。木柱は腐ってしまう場合が多いが、地下水につかっていたため腐らずに残った貴重な資料だという。
 弥生中期の土抗墓からは、装飾品の壺や62片に砕かれた管玉が発見された。管玉は呪術者や首長など身分の高い人が威信財として身に着ける装身具だが、意図的に管玉を砕いて埋葬するケースは県内では初めて。同様の埋葬方法は福島県の岩代国宮崎遺跡や群馬県の岩櫃山遺跡などで確認されている。
 同財団の斎藤貴史主任調査員は「生前に死者が使っていたものを砕くことで、魂も一緒にあの世にいくという風に考えたのではないか。」としている。県北地方での墓制を考える重要な資料となった。
 鎌倉・室町時代の旧表土中からは、和鏡の「住吉鏡(すみよしきょう)」が発掘された。帆掛け舟や鳥居、鶴亀の文様が施され、海の神を祭った御正体として使われたものとみられ、住吉信仰との関連が明らかにうかがえる。海に近い土地柄を反映している。
 そのほかに、平安時代の竪穴住居、中世の井戸跡などの遺構が見つかった。
 県教育財団は二十三日午前十時三十分から、発掘調査の現場を一般公開する。
 問い合わせは同財団日立事務所TEL0294(35)9344
[参考:茨城新聞、東京新聞、読売新聞、毎日新聞]
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岡山・瀬戸内市 世界最大の登り窯「寒風新大窯」 完成

2008年08月20日 | Weblog
 長さ85m、幅6mという巨大な登り窯「寒風(さぶかぜ)新大窯」が、岡山県瀬戸内市牛窓町長浜に完成し19日、火入れ式が行われた。国の史跡「寒風古窯跡群」の近く。備前焼の“ルーツ”といわれる備前須恵器発祥の地に、類を見ない大窯が誕生した。
 備前焼作家、森陶岳さん(71)一門が、平成12年の着工から8年がかりで築窯してきた半地下構造の直炎式登り窯。古備前を焼いた国史跡「伊部南大窯跡」(備前市伊部)をはるかにしのぐスケールとなっている。すべて日本最大級で、窯内の高さは3メートルもあり「中でコンサートも開催できるほど」という。
 火入れ式の神事は森さんら一門120人以上が参列するなか、厳かに営まれ、午前10時半すぎ、森さんがしめ縄の飾られた大窯の入り口に点火して、窯に魂を入れた。
 中世から近世にかけ全国を席巻した古備前の魅力にとりつかれ、その神髄に迫らんと大窯づくりに取り組んできた森さん。火入れ式のあと「今はホッとしている。これからは未知の世界だ。(備前焼に必要な)1000度以上に温度があがるかどうか。焼成温度が確認できれば、一門の作品の制作にかかる」と語った。
 参列した瀬戸内市の立岡脩二市長は「新窯は釈尊の涅槃図を思わせる。神が宿ったようだ。陶芸源泉の地に、歴史的な、記念すべき大窯が誕生した」とあいさつした。 (産経新聞)
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掛け軸:西郷隆盛の手跡に酷似 毎日書道展審査会員が写真鑑定

2008年08月20日 | Weblog
 湯沢市のM氏が所蔵する掛け軸の書について、毎日書道展審査会員の下田耿禾(こうか)さん=横手市=が毎日新聞の依頼で写真鑑定したところ、西郷隆盛(1828 – 1877)の手跡に酷似していることが分かったと毎日新聞が報じた。
 掛け軸は縦2・1m、横60cm。「権倒一世之知勇 開拓萬古之心胸」の14文字がしたためられ、右肩に「獄中仁恵及毛公」、左下に「藤隆盛印」「南洲」の印がある。
 左回りの印の頭文字が「西郷」でなく「藤」となっているのは、名門・藤原家の家系を名乗った――とも推察されるという。南洲は隆盛の号。下田さんは「強い字で、県外の研究家にも聞いて判読した。西郷隆盛が獄に入ったとき、壮大な心境をうたったものかもしれない。コピー(模写)かどうか分からないので自信はないが、直筆だと思う」と話した。
 一方、M氏は「掛け軸は戦後、亡くなった母から『お前が持っていなさい』と託された。しかし、誰の書か意味も分からず、ずっと気になっていた」と喜びを語った。
[参考:毎日新聞]

 西郷隆盛の先祖は肥後の菊池家の一族・家臣で、江戸時代の元禄の頃、薩摩・島津家の家臣になる。さらに遡ると、藤原北家流・藤原則隆(菊池氏の祖)から4代後の菊池(西郷)隆房に行きわたる。

 南州とは、西郷隆盛が罪人として沖永良部島に流されていた時に、文筆活動で使った名(号)である。そのため、時期も特定できる可能性がある。
文久二年 1862 8月 西郷吉之助 沖ノ永良部島での遠島生活に入る
元治元年 1864 1月 島津久光 西郷吉之助赦免に同意
           2月 西郷吉之助 沖永良部島より鹿児島に戻る 
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本宮市 庚申壇古墳 発掘調査現地説明会

2008年08月20日 | Weblog
 福島大学考古学研究室は、この8月11日から9月7日まで庚申壇古墳の発掘調査を行い、9月6日に現地説明会を開催すると、今月11日に発表している。
 庚申壇古墳は、本宮市と大玉村を分ける丘陵上に築造されている前方後円墳で、天王壇古墳や金山古墳、二子塚古墳などと共に七ツ坦古墳群を構成している。庚申壇古墳は形や埴輪から5世紀前半にまで遡り、七ツ坦古墳群の中で最も古い時代の古墳である可能性がある。
 今年4月に墳頂部埋葬施設の確認調査を実施しており、今回はその成果にもとづいて埋葬施設の発掘調査を行うとのこと。
 場所: 本宮市本宮字竹花所在 庚申壇古墳
 現地説明会: 9月6日(土) ※小雨決行      
[参考:福島大学考古研究室]

これまでの経緯
①庚申檀古墳案内板説明内容より
 本宮市指定史跡 庚申檀古墳
 規模・後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m
 位置・福島県安達郡本宮市字竹花
 この付近は、多くの古墳があって七ツ坦とも言われていたが、現在は庚申檀・金山・天王檀・二子塚の4つの古墳が残っている。
 この古墳は、竹花丘陵西端に、築造したもので、墳頂に庚申塔がまつられているところからこの名がつけられている。
 古墳は前方部の低い前方後円墳と考えられているが、前方部は削平されて一部のみが現存している築造されたときは、全長50m以上の規模を有していたと考えられる。
 墳丘には葺き石が残存しており周辺には埴輪片が散見され、埴輪を樹立した古墳であったことがわかる。
 築造年代は、古墳の前方部が低平なこと、円筒埴輪が、大きく、焼成に甘さが見られるものが存すること、埴輪片に二次調整の横ハケが見られることなどから、同じ古墳群にある南ノ内の天王檀古墳(5世紀後半頃)より古く、5世紀前半まで遡る可能性がある。昭和61年7月 本宮市教育委員会

②1988年に実調査が行われている。前述の説明版の昭和61年は1986年であるから、こちらが新しい。
 前方後円墳。丘陵上標高230m、台地からの比高3m。前方部1段・後円部2段、墳長45m以上。後円径32m・高4.7m・頂径8m、前方長13m以上・高2m以上、くびれ幅9.5m、葺石あり、前方部は先端部が失われている。
遺物:埴輪(円筒埴輪+朝顔形埴輪III式)+土師器。

③測量説明会 2007年03月26日 
 福島大考古学研究室は25日、庚申壇古墳の測量調査説明会を開き、墳形や墳丘規模などを明らかにした。学生や関係者ら約30人が参加。
 調査によると、庚申壇古墳は周辺にある天王壇、金山、二子塚各古墳などを含めた七ツ坦古墳群の1つで、見つかった埴輪片からみて、東北では古墳が少ない5世紀の古墳時代中期前半期に作られた可能性があり、古墳群の中でも早い時期のものとみている。採集された遺物は埴輪12点、土師器2点、縄文土器1点。
[参考:KFB福島放送]
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西本願寺御影堂 50年ぶりの厨子の修復を終える/京都

2008年08月20日 | Weblog
 修復工事中の世界最大級の木造建築、西本願寺御影堂(京都市下京区)で、宗祖・親鸞聖人の真影を安置する厨子の修復が終わり、19日、報道関係者に披露されたことが報じられている。
 厨子は主にヒノキを使用した「宝形造り」で、高さ4.7m、奥行き1.5m、屋根部分の最大幅は4.2m、1636(寛永13)年の御影堂創建と同時につくられたと推定される。
 全体的に金箔を張り直して金メッキの金具を洗浄。扉の両脇にあしらったキクの花など彫刻部分は補彩され、黄金の輝きが再現された。
 来年4月1日に真影を厨子に戻す動座法要を営み、その後公開される。
[参考:共同通信、産経ニュース、サンスポ、読売新聞、日経新聞]
 備考:産経ニュースが6枚の写真を載せている。
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平戸市・殉教遺跡の発掘開始 隠れキリシタンの歴史実証へ

2008年08月19日 | Weblog
 18日市教委は、隠れキリシタンの殉教遺跡が残るとされる「生月・平戸の文化的景観」地域で、殉教遺構や教会跡があることを実証するための初の発掘調査を始めたことを発表した。
[参考:西日本新聞]

主な関連年表
1551年(天文20年) ザビエル来島の翌年に、日本最初の教会が平戸に建てられた。
1559年 日本初のキリシタン殉教者が現れる。
1587年 豊臣秀吉の切支丹禁教令発布で平戸の殉教者は激増する。
1566年(永禄九年)「おろくにん様」が処刑される。
1613年(慶長18年)徳川家康の禁教令により更に禁圧が強めらた。
1635年(寛永12年)70数人が捕らえられ、根獅子の海岸において処刑をされた。これらの遺体をキリシタン資料館(平戸市)裏の林に葬り「うしわきさま」と称している。

 ちなみに、東京都千代田区の東京駅八重洲北口遺跡(現在の東京駅八重洲北口を出て左側の一角)から墓跡が確認され、墓には長方形の木棺と土坑墓が見られ、仰臥伸展葬で埋葬されていた。このうち1基から、メダイ・ロザリオの玉といったキリスト経関連の遺物が出土した。遺物の時期は16世紀末~17世紀ごく初頭とみられるとのこと。
 少なくとも江戸にも、この時期までにはキリスト教が布教された証しである。
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足利市 機神山山頂古墳 葺石施した2段墳丘

2008年08月19日 | Weblog
 市教委は18日、織姫神社がある機神山(はたがみやま)山頂古墳の第1次発掘調査結果を発表した。
 葺石が施された2段築成の前方後円墳で、葺石は石室がある南側正面だけでなく北側も丁寧に造られた本格的な古墳であることが確認された。
 調査の結果、2段目の墳丘は全長36m、高さ4m以上あった。斜面にはチャートの割り石を積んだ葺石が施され、傾斜は45度から60度と急だった。墳丘1段目には葺石はなく、全体に山すその斜面を削り出してテラスおよび1段目墳丘を造っていた。葺石は墳丘の崩落を防止したり、見栄えを良くしたりするために造られたらしい。
 また北側中央のくびれ部テラス部分からは、円筒埴輪がほぼそのままの形で南北に2基並んで据えられて出土した。また他の調査個所からは馬、太刀、楯、翳(さしば)などの埴輪片約千点が出土したが、これらはもともと墳頂に並んでいたものが転落したものらしい。
 同古墳は古墳時代後期(六世紀後半)に造られたと見られ、明治26年(1893)に行われた調査では石室から鏡、馬具、勾玉などの副葬品や埴輪などが出土。昭和48年(1973)に市指定史跡になった。今回は墳丘の斜面など7カ所に溝を掘るなどして規模や形状を本格的に調べた。
 市教委は「小首長クラスの古墳のため、周囲から見られることをかなり意識して造られたのでは」と説明している。
 機神山から両崖山にかけての標高53mから118m、東西500m、南北600mの範囲の尾根上と斜面に26基の古墳が点在、機神山古墳群と呼ばれている。
同市内には、約1300の古墳が残っており、今回調査を行った機神山山頂古墳は、墳頂部の標高が118mと古墳群のなかでも最も高い場所に位置し、市街地全体を見渡せることなどから、古墳群のなかでも有力な首長の墓であったと考えられるとしている。
 同古墳は普段は立ち入り禁止となっているが、市教委は23日午前十時から正午までの間、現地説明会を開き一般に公開する。
[参考:下野新聞、産経新聞、読売新聞、東京新聞]

<機神山山頂古墳の位置関係>
 東400mに足利市役所、南1kmに利根川、東南1kmに足利館、鑁阿寺、北東5kmに先の大日如来坐像で話題になった樺埼寺がある。

<現地説明板より>
 機神山の頂部を占める本墳は後円部を東、前方部を西に向けて築造された前方後円墳である。紛糾の全長は約36m、後円部径と前方部幅はともに約19m、高さとともに約3mで、見事な二子塚形である。
 本墳の埋葬施設である横穴式石室は、奥壁、両側壁、天井石すべてに割石(硅岩)をもって胴張袖無型に構築上し、後円部の南に開口するが、石室内には(被葬遺体の副うように)直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、勾玉、小玉や馬具(杏葉1、轡1)、須恵器などが納められ、また封土(墳丘)には人物、馬、鳥、家、靫、楯などの形象埴輪や円筒埴輪が樹てられていた。
 山頂に盛土した本墳は山腹に群在する古墳群(主に小型円墳)の主墳であれば、領民が挙(こぞ)Tってつくったものにちがいない。眼下にいろがるおのれの支配じを睥睨(へいげい)し権威を誇示するようであるが、また黄泉の国から領民たちを見守る姿でもある。本墳はおよそ六世紀代にこの地一円を治めた支配者の奥津城(墳墓)であろう。
(昭和53年6月 市重要文化財指定) 昭和61年7月  (財)足利市民文化財団、足利市教育委員会
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