歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

旧前田侯爵邸(駒場)

2008年08月28日 | Weblog
 昨日、目黒区駒場にある旧前田侯爵邸洋館に行きました。
 もともと、前田公爵邸は本郷にありましたが、東京大学の建設が進行する過程で、大正15年に東京大学と前田家との間で土地交換が行われたそうです。それが駒場であり、昭和4年に前田邸が完成しました。

写真の説明
 左:旧前田侯爵邸洋館 チューダ・ゴシックの建物 右上:ゴシックにつきものの怪獣・グリフィン(ライオンに羽が生えたもの)
 右下:大きな十二支がついた石燈籠。おそらく本郷から持ってきたもので、公園に3つ残っている。

現地案内板より
 旧加賀藩主の系譜をひく前田家の本邸として、昭和4年(1929)5月に竣工した建物である。
 設計者は東京帝国大学教授塚本靖であったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。
 建物の規模は地上3階、地下1階。建築面積は1,129.4平方メートル。
 鉄筋コンクリート造で、外壁はスクラッチタイルを貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅板葺きである。
 前田侯爵邸は昭和20年(1945)9月、連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎として使われていたが、昭和42年(1967)4月、東京都近代文学博物館に衣替えし一般に公開された。
 この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。
 内部の改造は少なく竣工時の雰囲気を良く留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物である。
 平成4年3月31日 建設               東京都教育委員会

[関連年表]
大正15年 東京大学と前田家との間で土地交換が行われ、本郷から駒場に移ることになる。
昭和 4年 駒場に前田邸が完成
昭和19年 邸内の一部を譲り受け、中島飛行機製作所の本社が疎開
昭和20年9月 連合軍に接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となる。
昭和26年4月 極東総司令官リッジウェイの官邸として使用される。
昭和28年 富士産業(旧中島飛行機製作所)の所有
昭和31年 和館及び一部の土地が国の所有となる。
昭和32年 連合国軍による接収が解除となった。
昭和38年 旧前田邸に公園を建設することが決定
昭和39年 洋館を東京都が富士産業から買収。
昭和40年 国有地については、東京都に無償貸与され、都はさらに民有地を買い足し。
昭和42年4月 洋館をそのまま利用した都立近代文学博物館と、和館に隣接して新築された財団法人日本近代文学館とが、同時に開館した。
昭和42年7月 旧前田邸は東京都立駒場公園として生まれ変わる。
昭和50年 公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至る。
平成03年 東京都有形文化財(建物)に指定
平成14年 博物館としての使命を終えた。

[参考:[駒場の歴史と建築」藤森照信(東京大学生産技術研究所教授)]
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牧之原市 白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる 

2008年08月28日 | Weblog
 牧之原市教委は同市静波の白百合遺跡で、弥生時代後期の掘立柱の建物が複数建っていたとみられる海浜集落跡が見つかったことを発表した。
周辺は当時海岸に近い砂地で、このような海岸べりの集落跡は浜松市の伊場遺跡で見つかっているが、天竜川以東の県内では初めてという。
 遺跡は牧之原市役所榛原庁舎から北へ約100mの畑地で、広さ約600㎡。
 集落跡は地表から約1mの深さの砂地で見つかった。縦3m、横4mのいずれも高床式倉庫など掘立柱の建物とみられる4棟の跡があり、それぞれに4-6本の柱を建てたような穴(直径40-50cm、深さ30-60cm)が残っていた。集落外には砂地を人工的に区画したような大溝も作られていた。
 周辺からは食料や水を入れた壺、煮炊きに使ったとみられる甕、食べ物を盛り付けた高坏の土器が約200点出土した。
 海岸線に近い砂の堤防か砂丘につくられた集落で、県内での発見例はほとんどない。これまで砂丘は人が住みにくいと考えられていたが、古代人の土木技術の高さがうかがえ、海浜集落の実態を解明する上で貴重な発見と話している。
 市教委では30日午前10時30分と午後1時30分から、現地説明会を開く。
[参考:中日新聞]

 白百合遺跡は現在の海岸線からは西に1kmの地点で標高は3.4m。
 伊場遺跡(浜松市)は現在の海岸線からは北に3.2kmの地点で、標高は約2.5m。

 白百合遺跡のすぐ東そばには由緒ある服織部(はとりべ)神社がある。祭神は麻立比古命と 天八千千比売命。
 境内の案内板によると、
服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されている。安政元年の大地震直後建立、明治六年三月郷社に列せられた。
(略)
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