歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

木津川市・文廻池遺跡 須弥山を表す三彩陶器が出土

2008年08月12日 | Weblog
 京都府木津川市の文廻(ぶんまわし)池遺跡(現在、馬場南遺跡)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。
 今回見つかった陶板の中には縦約15cm、横20cmの大きなものもあり、波や流れる水、雲など、須弥山特有の文様が描かれていた。大きな陶板は今のところ数点、小片は数十点。
 組み立てると高さ数mの須弥山の工芸品になるとみられるが、仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。
 三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
 現場は平城宮跡の北東約5km。約5千㎡の住宅予定地を京都府教委などが調査している。土器や瓦から、奈良時代・8世紀中頃~後半の仏教施設や儀礼場の跡とみられる。近くでは、高句麗系とみられる飛鳥時代・7世紀初めの最古級の高麗寺跡(国史跡)があり、聖武天皇が都を置いた恭仁京(740~44年)の宮殿跡もある。
 同じ場所から、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡や「神尾寺」と書かれた墨書土器も出土している。
 現地を訪れた考古学者は「三彩は、代表的な寺院跡からでも数点見つかるかどうかだ。驚いている。平城宮と同じ瓦も見つかり、かかわりが考えられる」と話している。

〈須弥山〉インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
[参考:朝日新聞]

備考
①三彩陶器/須弥山模様
 須弥山模様の三彩陶器は、松阪市伊勢寺町の伊勢寺廃寺でも出土されている。
 三彩陶器は小さい壺などが一般的であるが、須弥山を具現化したものか、あるいは仏像の台座ではないかと考えられている。時期も8世紀中頃から後半。奈良三彩らしい。
②神尾寺
 墨書土器に書かれた神尾寺を近辺で見つけるのは難しい。長岡京跡をさらに越えて150km先の亀岡市にある、金輪寺(きんりんじ)の裏山にあった神尾山城は別名神尾寺城とも本目城ともいう。天正年間(1573-1592)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったというが、この本目城とは神尾山城を指すと推定されている。当時神尾山は本目庄の中にあったからである。金輪寺は山号を神尾山といい、天台宗として延暦2年(783)に西願上人により創建され、一時衰退するが、寛治年間(1087~1093)に明恵上人により再興され、堂宇が建ち並び隆盛を極めたという。今は本山修験宗に属する。
 創建時期の783年頃、あるいは正式名がまだ決まっていなかったそれ以前の段階では神尾寺と称したのではないだろうか、それとも別の近い場所に神尾寺と呼んだ寺院があったのであろうか。


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東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か

2008年08月12日 | Weblog
 奈良市東大寺南大門の石造獅子一双(重要文化財、鎌倉時代)の石材が、同時期の石像群がある中国浙江省寧波郊外で産出される「梅園石(ばいえんせき)」で造られた可能性が高いことが、研究者らでつくる「中日石造物研究会」(代表、藤澤典彦大阪大谷大教授)の調査で判明し、同研究会が9日、同市内で開いたシンポジウムで発表した。
 東大寺は、治承4年(1180)の平重衡軍の兵により焼き打ちされた。鎌倉時代に入って、重源上人(1121~1206年)の指揮の下同寺の復興がされる。その復興を伝える「東大寺造立供養記」では、「建久7(1196)年に宋人・字六郎など4人が、中門の石獅子、堂内石脇士、四天王石などを造る。石像は日本の石では造り難いので、中国で買い求めて日本に運んだ。」と記述がある。これを裏づける成果となった。
 この時に製作された石像のうち、現存するのは石獅子のみである。他は永禄10年(1567)の兵火で失われてしまい、石獅子も中門から南大門に移動されたと考えられている。
 石造獅子は東西一対で、像高は東方像1・8m、西方像1・6m。高さ1・4mの台座に置かれている。
 同会は、うち1人の出身地とされる寧波の郊外に南宋時代などの石像群があることに着目し、現地を調査。メンバーで奈良県大和郡山市教委の山川均主任は、重源が中国に渡った際に石像群を見て制作に携わった石工らを招いたと考えた。石造獅子の詳細な石材鑑定を実施した結果、石材は凝灰岩で、粒子や形状などが寧波の郊外で産出される梅園石と違いがないことが判明。鑑定した服部仁・元通産省地質調査所地質部長は「石獅子の原石は梅園石によく似た岩質の凝灰岩」と結論づけた。
 山川主任は「鑑定によって仮説が裏付けられた。石造獅子など国内石造物の源流は寧波周辺にあったと考えられる」と話した。
 研究会によると、寧波郊外の東銭湖(とうせんこ)周辺には、東大寺の石獅子と似た石像が残っている。重源は東大寺復興の勧進をする前の1167年に寧波郊外を訪れた記録があり、現地の石造物が強く印象に残ったことから、東大寺復興の際に石工を呼び寄せたと考えられるという。
[参考:毎日新聞、産経新聞、読売新聞]

 この石造獅子の製作者は、中国・明州(明時代より寧波)の出身者、伊行末である可能性が高い。
伊行末年表
建久7年(1196) 宋人字六郎(伊行末のことか)東大寺の中門獅子、堂内石脇士、四天王石を造る。
 「東大寺造立供養記」 中門獅々。堂内石脇士。同四天像。宋人字六郎等四人造之。若日本国石難造。遣価直於大唐所買来也。運賃雑用等凡三千余石也。
延応2年(1240) 大蔵寺(宇陀市)石造十三重層塔を造る。層塔銘文:(略)延応二年庚子二月四日造□了 大工 大唐銘州伊行末
 これより以前に般若寺十三重石塔の造立に着手。
建長5年(1253) 般若寺十三重石塔 「(建)長五年癸丑卯月八日奉篭之」の墨書
建長6年(1254) 東大寺法華堂(三月堂)石灯籠銘: 敬白 奉施入石灯籠一基 右志者為果宿願所 奉施入之状如何 建長六年 伊権守行末 
建長7年(1255) のど地蔵(奈良市月ヶ瀬大字桃香野字野堂)銘: 當来導師弥勒仏建長七年(伝 伊行末作)
正元2年(1260)死去。
弘長元年(1261)伊行末の嫡男行吉が、父の一周忌にあたり卒塔婆2基を、1基は父の菩提を弔い、別の1基は存命の母の善行のために建立した。銘文: 先考宋人行末者異朝明州住人也 来日域経蔵月即大仏殿石壇四面回廊諸堂垣場荒無□□悉毀弧為□□□□□発吾朝□陳和卿為鋳金銅大仏以明州伊行末為衆殿□石壇故也土匪直也口者也則於東大寺霊地辺土中得石修造正元二年七月十一日安然逝去彼嫡男伊行吉志□元年建立一丈六尺石卒塔婆
 北塔:「孝養父母心 功徳最大一 是心発起者 成就自然智」
    「當来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 常徳無量楽」
 南塔:「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為薬」
    「於一切 不生懈怠心 十方大菩薩 愍衆故行道」
[参考:「狛犬紀行」黒田寿郎(文芸社)ほか]
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佐久市 西近津遺跡群 現地見学会 9/7

2008年08月12日 | Weblog
平成18年度から発掘が進められている西近津遺跡群の見学会の開催のお知らせ。
 日 時: 平成20年9月7日(日) 午前10時から午後3時まで
      全体説明 1回目:10時30分~11時30分  2回目:13時30分~14時30分
 場 所: 佐久市長土呂 中部横断道建設用地内 西近津遺跡群
 古墳時代から奈良時代の豪族邸宅の可能性がある大型建物跡、奈良時代から平安時代の佐久郡大井郷を推定させる「大井」と記された土器、その他陶製の円面硯が出土。
[参考:長野県埋蔵文化財センター]

西近津遺跡群の主な出土履歴
2006.12.初 弥生時代としては国内最大級の竪穴住居跡(縦18m、横9.5mの長方形)が出土
2007.8末  9世紀末~10世紀初めの竪穴住居跡から平安時代の銅印(「釦子私印」)出土
2007.10.29 「郡」の字が刻まれた須恵器(8世紀末)が出土

 西近津遺跡の近隣の周防畑遺跡群では、平安時代の墨書土器、灰釉陶器、川原寺式軒丸瓦の瓦当、礎石をもつ掘立柱建物跡が出土。また、北東700mの近津神社周辺からは古代瓦が採集されており、この辺りは古代の寺院や郡衙の推定地である。
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