22日県埋蔵文化財センターが、南国市大(おおそね)乙の関遺跡で、古代の県内最大級の潅漑用水路「関の大溝」が見つかったことを発表した。
関の大溝は、香長平野に流れる下田川から引き込んだほぼ南北に延びるU字型の用水路で、幅約5m、深さ約1m、長さ約12mだが、同平野で開墾された一辺が約110mの条里制の水田を前提とすれば、長さは約100m以上あった可能性がある。
溝底の出土土器から、大溝が利用されていたのは奈良時代後半(8世紀後半)から平安時代前半(10世紀ごろ)と推定される。
約500m西には、倉庫群があった西野々遺跡があり、律令制が崩壊し始めた10世紀前半以降に消滅。関の大溝も同時期以降は、水田耕作を放棄して溝の上に粘土層などが堆積し、用水路としての利用は廃止されていた。
同センターは「香長平野には土佐国衙や土佐国府跡があるが、すべて10世紀前半以降には生活の痕跡がなくなっている。今回は、米の生産に関しても同様な現象が裏付けられ、律令体制の崩壊と動乱や疫病の時期を経て、鎌倉時代へ向かう変遷がうかがいしれる発見となった」と話す。
同時代は、紀貫之が土佐国府に国司として赴任しており、同センターでは「律令制が確立したころに造られた大規模な公的用水路。律令制の盛衰が、生産現場で分かる貴重な資料」と話している。
24日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:高知新聞、産経新聞]
関の大溝は、香長平野に流れる下田川から引き込んだほぼ南北に延びるU字型の用水路で、幅約5m、深さ約1m、長さ約12mだが、同平野で開墾された一辺が約110mの条里制の水田を前提とすれば、長さは約100m以上あった可能性がある。
溝底の出土土器から、大溝が利用されていたのは奈良時代後半(8世紀後半)から平安時代前半(10世紀ごろ)と推定される。
約500m西には、倉庫群があった西野々遺跡があり、律令制が崩壊し始めた10世紀前半以降に消滅。関の大溝も同時期以降は、水田耕作を放棄して溝の上に粘土層などが堆積し、用水路としての利用は廃止されていた。
同センターは「香長平野には土佐国衙や土佐国府跡があるが、すべて10世紀前半以降には生活の痕跡がなくなっている。今回は、米の生産に関しても同様な現象が裏付けられ、律令体制の崩壊と動乱や疫病の時期を経て、鎌倉時代へ向かう変遷がうかがいしれる発見となった」と話す。
同時代は、紀貫之が土佐国府に国司として赴任しており、同センターでは「律令制が確立したころに造られた大規模な公的用水路。律令制の盛衰が、生産現場で分かる貴重な資料」と話している。
24日午前10時から現地説明会が開かれる。
[参考:高知新聞、産経新聞]