歴歩

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茨城県 十王堂遺跡 縄文中期から中世にわたる複合遺跡と判明

2008年08月20日 | Weblog
 県教育財団は19日、日立市末広町で実施していた「十王堂遺跡」の発掘調査結果をまとめた。
 遺跡はこれまで、縄文時代を中心とした集落跡が確認されていたが、今回の調査で、縄文時代中期から鎌倉・室町時代の中世にわたる複合遺跡であることや、遺構などから広範囲に及ぶことが分かった。
 同遺跡は市立大久保中学校の南側に位置し、発掘現場は東西に約100m、幅4-8m。
 財団によると、東側は主に縄文時代の遺物を含んだ層で、谷になった低地の西側は弥生中期の土坑など墓域があった。小高い台地上の中央部からは縄文時代の石囲いの炉や、平安時代の竪穴住居跡、室町時代後半の井戸などが確認された。
特に、縄文時代の土偶と中世の和鏡の出土は、県内遺跡では貴重な発掘となった。
 遺跡は縄文時代後期のものとみられていたが、縄文時代中・後期の竪穴住居跡12軒やフラスコ状土坑7基がみつかり、大規模集落であったことが確認された。
出土した(妊婦をかたどった)土偶は、一部が欠けていたが全体像が推定されるという。
 また、縄文時代後期から弥生時代中期のものとみられる木柱が出土した。木柱は直径約40cmで、土坑の底付近から見つかった。木柱は腐ってしまう場合が多いが、地下水につかっていたため腐らずに残った貴重な資料だという。
 弥生中期の土抗墓からは、装飾品の壺や62片に砕かれた管玉が発見された。管玉は呪術者や首長など身分の高い人が威信財として身に着ける装身具だが、意図的に管玉を砕いて埋葬するケースは県内では初めて。同様の埋葬方法は福島県の岩代国宮崎遺跡や群馬県の岩櫃山遺跡などで確認されている。
 同財団の斎藤貴史主任調査員は「生前に死者が使っていたものを砕くことで、魂も一緒にあの世にいくという風に考えたのではないか。」としている。県北地方での墓制を考える重要な資料となった。
 鎌倉・室町時代の旧表土中からは、和鏡の「住吉鏡(すみよしきょう)」が発掘された。帆掛け舟や鳥居、鶴亀の文様が施され、海の神を祭った御正体として使われたものとみられ、住吉信仰との関連が明らかにうかがえる。海に近い土地柄を反映している。
 そのほかに、平安時代の竪穴住居、中世の井戸跡などの遺構が見つかった。
 県教育財団は二十三日午前十時三十分から、発掘調査の現場を一般公開する。
 問い合わせは同財団日立事務所TEL0294(35)9344
[参考:茨城新聞、東京新聞、読売新聞、毎日新聞]
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岡山・瀬戸内市 世界最大の登り窯「寒風新大窯」 完成

2008年08月20日 | Weblog
 長さ85m、幅6mという巨大な登り窯「寒風(さぶかぜ)新大窯」が、岡山県瀬戸内市牛窓町長浜に完成し19日、火入れ式が行われた。国の史跡「寒風古窯跡群」の近く。備前焼の“ルーツ”といわれる備前須恵器発祥の地に、類を見ない大窯が誕生した。
 備前焼作家、森陶岳さん(71)一門が、平成12年の着工から8年がかりで築窯してきた半地下構造の直炎式登り窯。古備前を焼いた国史跡「伊部南大窯跡」(備前市伊部)をはるかにしのぐスケールとなっている。すべて日本最大級で、窯内の高さは3メートルもあり「中でコンサートも開催できるほど」という。
 火入れ式の神事は森さんら一門120人以上が参列するなか、厳かに営まれ、午前10時半すぎ、森さんがしめ縄の飾られた大窯の入り口に点火して、窯に魂を入れた。
 中世から近世にかけ全国を席巻した古備前の魅力にとりつかれ、その神髄に迫らんと大窯づくりに取り組んできた森さん。火入れ式のあと「今はホッとしている。これからは未知の世界だ。(備前焼に必要な)1000度以上に温度があがるかどうか。焼成温度が確認できれば、一門の作品の制作にかかる」と語った。
 参列した瀬戸内市の立岡脩二市長は「新窯は釈尊の涅槃図を思わせる。神が宿ったようだ。陶芸源泉の地に、歴史的な、記念すべき大窯が誕生した」とあいさつした。 (産経新聞)
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掛け軸:西郷隆盛の手跡に酷似 毎日書道展審査会員が写真鑑定

2008年08月20日 | Weblog
 湯沢市のM氏が所蔵する掛け軸の書について、毎日書道展審査会員の下田耿禾(こうか)さん=横手市=が毎日新聞の依頼で写真鑑定したところ、西郷隆盛(1828 – 1877)の手跡に酷似していることが分かったと毎日新聞が報じた。
 掛け軸は縦2・1m、横60cm。「権倒一世之知勇 開拓萬古之心胸」の14文字がしたためられ、右肩に「獄中仁恵及毛公」、左下に「藤隆盛印」「南洲」の印がある。
 左回りの印の頭文字が「西郷」でなく「藤」となっているのは、名門・藤原家の家系を名乗った――とも推察されるという。南洲は隆盛の号。下田さんは「強い字で、県外の研究家にも聞いて判読した。西郷隆盛が獄に入ったとき、壮大な心境をうたったものかもしれない。コピー(模写)かどうか分からないので自信はないが、直筆だと思う」と話した。
 一方、M氏は「掛け軸は戦後、亡くなった母から『お前が持っていなさい』と託された。しかし、誰の書か意味も分からず、ずっと気になっていた」と喜びを語った。
[参考:毎日新聞]

 西郷隆盛の先祖は肥後の菊池家の一族・家臣で、江戸時代の元禄の頃、薩摩・島津家の家臣になる。さらに遡ると、藤原北家流・藤原則隆(菊池氏の祖)から4代後の菊池(西郷)隆房に行きわたる。

 南州とは、西郷隆盛が罪人として沖永良部島に流されていた時に、文筆活動で使った名(号)である。そのため、時期も特定できる可能性がある。
文久二年 1862 8月 西郷吉之助 沖ノ永良部島での遠島生活に入る
元治元年 1864 1月 島津久光 西郷吉之助赦免に同意
           2月 西郷吉之助 沖永良部島より鹿児島に戻る 
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本宮市 庚申壇古墳 発掘調査現地説明会

2008年08月20日 | Weblog
 福島大学考古学研究室は、この8月11日から9月7日まで庚申壇古墳の発掘調査を行い、9月6日に現地説明会を開催すると、今月11日に発表している。
 庚申壇古墳は、本宮市と大玉村を分ける丘陵上に築造されている前方後円墳で、天王壇古墳や金山古墳、二子塚古墳などと共に七ツ坦古墳群を構成している。庚申壇古墳は形や埴輪から5世紀前半にまで遡り、七ツ坦古墳群の中で最も古い時代の古墳である可能性がある。
 今年4月に墳頂部埋葬施設の確認調査を実施しており、今回はその成果にもとづいて埋葬施設の発掘調査を行うとのこと。
 場所: 本宮市本宮字竹花所在 庚申壇古墳
 現地説明会: 9月6日(土) ※小雨決行      
[参考:福島大学考古研究室]

これまでの経緯
①庚申檀古墳案内板説明内容より
 本宮市指定史跡 庚申檀古墳
 規模・後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m
 位置・福島県安達郡本宮市字竹花
 この付近は、多くの古墳があって七ツ坦とも言われていたが、現在は庚申檀・金山・天王檀・二子塚の4つの古墳が残っている。
 この古墳は、竹花丘陵西端に、築造したもので、墳頂に庚申塔がまつられているところからこの名がつけられている。
 古墳は前方部の低い前方後円墳と考えられているが、前方部は削平されて一部のみが現存している築造されたときは、全長50m以上の規模を有していたと考えられる。
 墳丘には葺き石が残存しており周辺には埴輪片が散見され、埴輪を樹立した古墳であったことがわかる。
 築造年代は、古墳の前方部が低平なこと、円筒埴輪が、大きく、焼成に甘さが見られるものが存すること、埴輪片に二次調整の横ハケが見られることなどから、同じ古墳群にある南ノ内の天王檀古墳(5世紀後半頃)より古く、5世紀前半まで遡る可能性がある。昭和61年7月 本宮市教育委員会

②1988年に実調査が行われている。前述の説明版の昭和61年は1986年であるから、こちらが新しい。
 前方後円墳。丘陵上標高230m、台地からの比高3m。前方部1段・後円部2段、墳長45m以上。後円径32m・高4.7m・頂径8m、前方長13m以上・高2m以上、くびれ幅9.5m、葺石あり、前方部は先端部が失われている。
遺物:埴輪(円筒埴輪+朝顔形埴輪III式)+土師器。

③測量説明会 2007年03月26日 
 福島大考古学研究室は25日、庚申壇古墳の測量調査説明会を開き、墳形や墳丘規模などを明らかにした。学生や関係者ら約30人が参加。
 調査によると、庚申壇古墳は周辺にある天王壇、金山、二子塚各古墳などを含めた七ツ坦古墳群の1つで、見つかった埴輪片からみて、東北では古墳が少ない5世紀の古墳時代中期前半期に作られた可能性があり、古墳群の中でも早い時期のものとみている。採集された遺物は埴輪12点、土師器2点、縄文土器1点。
[参考:KFB福島放送]
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西本願寺御影堂 50年ぶりの厨子の修復を終える/京都

2008年08月20日 | Weblog
 修復工事中の世界最大級の木造建築、西本願寺御影堂(京都市下京区)で、宗祖・親鸞聖人の真影を安置する厨子の修復が終わり、19日、報道関係者に披露されたことが報じられている。
 厨子は主にヒノキを使用した「宝形造り」で、高さ4.7m、奥行き1.5m、屋根部分の最大幅は4.2m、1636(寛永13)年の御影堂創建と同時につくられたと推定される。
 全体的に金箔を張り直して金メッキの金具を洗浄。扉の両脇にあしらったキクの花など彫刻部分は補彩され、黄金の輝きが再現された。
 来年4月1日に真影を厨子に戻す動座法要を営み、その後公開される。
[参考:共同通信、産経ニュース、サンスポ、読売新聞、日経新聞]
 備考:産経ニュースが6枚の写真を載せている。
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