大和郡山市の平城京南方遺跡で、平城京内を南北に走る「朱雀大路」が、京の南部にある東西方向の大通り「九条大路」で終わり、平城京の範囲(京域)が九条までだった可能性を示す溝跡が奈良県立橿原考古学研究所の発掘で23日までに見つかった。
京域をめぐっては江戸時代以降、九条までとするのが通説だった。しかし、平成17~19年(2005-2007)の大和郡山市教委と元興寺文化財研究所の調査で、さらに南で「十条」とみられる区画跡が見つかり、朱雀大路とともに十条まで整備されていた可能性が浮上し、論争が起きた。
朱雀大路を基準として碁盤の目状に整備されていた京域を決定づける重大な発見としている。
[参考:共同通信、産経新聞]
京域をめぐっては江戸時代以降、九条までとするのが通説だった。しかし、平成17~19年(2005-2007)の大和郡山市教委と元興寺文化財研究所の調査で、さらに南で「十条」とみられる区画跡が見つかり、朱雀大路とともに十条まで整備されていた可能性が浮上し、論争が起きた。
朱雀大路を基準として碁盤の目状に整備されていた京域を決定づける重大な発見としている。
[参考:共同通信、産経新聞]