歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大阪市・難波京/北河堀町所在遺跡 7~8世紀の大規模建物跡が見つかる

2012年12月19日 | Weblog
 大阪文化財研究所が19日、大阪市天王寺区の難波京跡(北河堀町所在遺跡)(注2)で、7〜8世紀の大規模な建物跡5棟が見つかったと発表した。 (注2)四天王寺から南へ500m、JR天王寺駅から北へ250mの場所。
 格式の高い1棟(南北約18m、東西約10m)(注2)を囲むように他の4棟が東西南北を軸に規則的に配置され、2500㎡以上の広大な敷地を有していた。位の高い貴族の邸宅か役所だったとみられる。
(注2)6間×3間で、全周に庇付き
 現地説明会が、22日(土)13時00分から開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、大阪市HP]

過去の関連ニュース・情報
 難波京

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京畿義王市・円通寺は世宗妃・昭憲王后の願刹

2012年12月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 京畿道義王市(注1)清渓洞清渓山の中腹に跡だけが残った円通寺(원통사)という寺(注2)は、朝鮮第4代世宗(1397-1450)の昭憲王后沈氏(1395-1446)が発願して重創した朝鮮王室の願刹であった。
(注1)2007年に儀旺市から義王市に改称
(注2)ソウルの南にあり、漢江を越えて約15kmの距離。清渓山(標高618m)の中腹、南西斜面にある。
 水原大博物館は11日、義王文化院の依頼で行った円通寺址の調査過程で、このような事実を裏付ける決定的な文献記録と考古学遺物を同時に発見したと発表した。
 文献記録は、朝鮮前期代の文臣であり世祖時代の高僧・慧覚尊者信眉(1403-1480)の弟である金守温(1409-1481)文集の『拭疣集』で、昭憲王后が発願して重創し、それを再び彼女の末の息子・永膺大君(1434-67)がより一層大きく重創した事実を記録した『円通菴重創記』である。
 この重創期によれば、円通寺は昭憲王后が君主世宗の萬壽無彊(ばんじゅむきょう)を祈願して内需司に命を下して、洪煕乙巳(注3)、すなわち、世宗7年(1425)に僧侶海幢を代表に選んで重創したという。 この時、南向の仏殿(注4)を中心にその両側(東西)に禅堂と僧堂を建てた。
(注3)洪熙(こうき)の年号は、明朝第4代洪熙皇帝(1378-1425)の在位期間1424-1425に当るもの。
(注4)1425年に重創する前の建物はこの仏堂があるが、他には不明。
 その後、世宗11年(1429)に応真殿を建てたこと、さらに、昭憲王后死後には世宗と王后の間の8番目息子であり首陽大君世祖(1417-1468)の弟である永膺大君(1434-1467)が、龍門寺住持出身である大禅師戒眼を招聘して寺刹容貌を大々的に一新して世祖8年(1462) 8月には落成式を記念して大規模法会を開いたことなどが記されている。 これからみて、円通寺は昭憲王后の願刹に間違いないとしている。

 考古遺物としては、「洪煕」という年代を刻んだ瓦が発見された。「洪熙」は1425年の1年だけ使用された中国明国年号であり、この年はまさに金守溫の円通庵重創記で記している昭憲王后が円通庵を創建し始めたその年である。 2001年に世宗大博物館が円通寺址の地表調査を実施したことがあり、この時、「洪○」という銘文瓦が収集されたが、今回の調査で「洪煕」という字だったことが確認された。

 王室願刹として繁栄した円通庵が朝鮮中期以後に編纂された『新東国輿地勝覧』(1530編纂)では円通寺の名前が見られないことから、これ以前のある時期に廃寺になったとみられると推定される。
[参考:: 聨合ニュースほか]
 備考:記事の内容に腑に落ちない部分もあり、また、円通菴重創記の原文がわからないので、推定をまじえてまとめてみた。

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佐世保市・福井洞窟 旧石器時代終末の地層から炉跡が見つかる

2012年12月19日 | Weblog
 佐世保市教委は18日、同市吉井町福井の国指定史跡「福井洞窟」で、同じ洞窟を旧石器~縄文の複数の時代で生活の場として繰り返し利用した様子がうかがえる痕跡を発見したと発表した。
 洞窟開口部付近で地表から深さ4mの旧石器時代終末(約1万8千~1万6千年前)より古い地層から、1・5m×2mの範囲で人為的に並べられたとみられる砂岩の大小の石が敷き詰められた「石敷き」が見つかった。
 旧石器時代終末の地層(地表から深さ2〜3・5m)からは、細石刃や石核などの石器や炉の跡が出土した。 石器を製作していたとみられる。 炉の跡は3基見つかり、最大で約75cm×約67cm。 最も古いとみられる1カ所は直径約50cmの円形で、焦げたり赤く変色した土や石が残っていた。 近くから、炭化物や石器を製作した際の細かい破片も多数見つかった。
 縄文時代草創期(約1万6千~1万4千年前)の石器や土器、同早期(約9千~7千年前)の黒曜石の剥片も見つかった。
 一般向けの現地説明会が22日(土)開かれる。
[参考:共同通信、西日本新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.10.13 佐世保市・直谷岩陰遺跡 土器と細石器を同時発見 

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