大津市埋蔵文化財調査センターは15日、大津宮(667~672年)と関わりが深い国史跡「南滋賀廃寺」(大津市南志賀3丁目)近くの畑から「錦寺」と「箆(へら)」で刻まれた9世紀末ごろの土器片が出土し、南滋賀廃寺の寺名が続日本紀に記されている『錦部(にしこり)寺』だった可能性が高まったと発表した。
土器片は昨年5月、南滋賀廃寺の東約250mの畑で農作業中の男性が、多数の須恵器や瓦などとともに見つけた。 緑釉陶器(浅い杯か深めの碗)の底部とみられ、縦7cm、横6・5cm。外側に太文字で「錦寺」と刻まれていた。平安京に製品を供給していた京都の窯のものとみられる。
同廃寺は大津宮中枢部の真北約400mに創建され、廃都後も平安時代末期(12世紀後半)まで存続したらしい。 宮の規模や構造を考える上でも貴重な遺跡とされるが、寺名は不明で、地名などから通称で呼ばれてきた。
「続日本紀」には、藤原仲麻呂の乱(764年)で官軍に協力した見返りに恩賞を与える近江国の寺の一つとして「錦部」が記されている(注1)。土器片は、この寺が同廃寺とする説を裏付ける初の物証で、同廃寺は少なくとも奈良時代後半(8世紀半ば)~平安時代前半(9世紀末)まで「錦部寺」と呼ばれていたとみられるという。
南滋賀廃寺は渡来系の豪族、錦部村主(にしごりのすぐり)一族が建てた氏寺だった可能性が強まったとしている。
土器片は16日~3月15日、大津市埋蔵文化財調査センター(同市滋賀里1丁目)で公開される。土日休館
[参考:毎日新聞、読売新聞、京都新聞、朝日新聞]
(注1)続日本紀 天平神護二年(776)9月6日己未条に
賜助官軍近江國僧沙弥。及錦部蒿園二寺檀越。諸寺奴等物。各有差。
過去の関連ニュース・情報
2010.5.20南滋賀遺跡 大壁造り建物跡出土
土器片は昨年5月、南滋賀廃寺の東約250mの畑で農作業中の男性が、多数の須恵器や瓦などとともに見つけた。 緑釉陶器(浅い杯か深めの碗)の底部とみられ、縦7cm、横6・5cm。外側に太文字で「錦寺」と刻まれていた。平安京に製品を供給していた京都の窯のものとみられる。
同廃寺は大津宮中枢部の真北約400mに創建され、廃都後も平安時代末期(12世紀後半)まで存続したらしい。 宮の規模や構造を考える上でも貴重な遺跡とされるが、寺名は不明で、地名などから通称で呼ばれてきた。
「続日本紀」には、藤原仲麻呂の乱(764年)で官軍に協力した見返りに恩賞を与える近江国の寺の一つとして「錦部」が記されている(注1)。土器片は、この寺が同廃寺とする説を裏付ける初の物証で、同廃寺は少なくとも奈良時代後半(8世紀半ば)~平安時代前半(9世紀末)まで「錦部寺」と呼ばれていたとみられるという。
南滋賀廃寺は渡来系の豪族、錦部村主(にしごりのすぐり)一族が建てた氏寺だった可能性が強まったとしている。
土器片は16日~3月15日、大津市埋蔵文化財調査センター(同市滋賀里1丁目)で公開される。土日休館
[参考:毎日新聞、読売新聞、京都新聞、朝日新聞]
(注1)続日本紀 天平神護二年(776)9月6日己未条に
賜助官軍近江國僧沙弥。及錦部蒿園二寺檀越。諸寺奴等物。各有差。
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