歴歩

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鎌倉市・常楽寺 阿弥陀如来坐像台座内部に墨書 鎌倉時代前期、定慶作

2012年02月18日 | Weblog
 鎌倉時代の「御成敗式目」(貞永式目)の制定で知られる3代執権・北条泰時(1183-1242)が創建した、鎌倉市大船の粟船山・常楽寺(注1)の本尊・阿弥陀三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年(1242)六月十二日」の墨書が確認された。
 泰時の出家(仁治3年5月9日)の33日後、死(仁治3年6月15日)の3日前にあたる。
 三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来座像は像高70cm、左右の観音・勢至菩薩像は同85cm前後。 作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(注2)の作とみられるという。
 これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)が調査したところ、阿弥陀如来座像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した(注3)。 17日、市の文化財に指定された。
[参考:読売新聞、神奈川新聞]

(注1) 吾妻鏡に常楽寺に関することが下記のように記されている。
 ■嘉禎三年(1237)十二月大十三日庚寅。。右京兆(右京権大夫の唐名、北条泰時)爲室家(安保実員の女)母尼追福。於彼山内墳墓之傍。被建一梵宇(後の常楽寺)。今日有供養儀。導師莊嚴房律師行勇。匠作(修理権大夫の唐名、北条時房)。遠江守(北条朝時)令聽聞給。
 ■寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。故前武州禪室(北条泰時)周闋(2周忌)御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛(北条經時時)并武衞(北条時頼)參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
(注2) この時代、何人かの定慶がいるが、記事には、その定慶が特定して書かれていない。興福寺専属の仏師であり、運慶の父・康慶の弟子とみられる定慶ではなく、肥後(別当)定慶のことかもしれない。
 近年、鎌倉明王院本堂の五大明王中、不動明王像が、嘉禎4年(1235年)4代将軍藤原頼経(1218-1256)の発願により肥後定慶が制作したものとわかった。
 また、常楽寺の阿弥陀三尊像を作った年(1242年)に、肥後定慶は石龕寺(兵庫県)の金剛力士像(阿形・吽形)を制作している。阿形像内に「仁治三年三月二十一日始、四月十三日木造畢」、吽形像内に「仁治三年三月二十一日始、卯月(4月)十一日木造畢」、両像ともに「大仏師南方派肥後法橋定慶生年五十九」と墨書されている。[参考:日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第一期総目録 中央公論美術出版(2003/05)] 常楽寺の阿弥陀三尊像とは制作時期が近い。
(注3)墨書された文字が全て発表されていないのが残念である。

北条泰時、極楽往生の願い…阿弥陀像に墨書(読売新聞) - goo ニュース

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 2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「(泉州別当)定慶」作の墨書名発見
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