カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

とんかつやまと

2012年01月15日 | 兵庫
「諸手を挙げるに、吝かでない。」

思いの外しっかりと熱の通った大粒の牡蠣の身は、これまでに経験したことがない程にその旨味が凝縮されたものだった。

その牡蠣肉エキスの味覚的結晶とでもいうべきものは、正直、ああこれが牡蠣本来の旨味、その美味しさだったのかと初めて思い知らされた、そのような感覚さえカゲロウにもたらすもので、己の経験不足を自ら晒すかのようで気恥ずかしいのではあるけれど、これを褒めずして何を褒めるのかと思わずにはおれない、それ程である。
こんなに旨い料理を戴いたのだから、たとえ己の恥を忍んででも、これまで食べた中でもこの御店、やまとの牡蠣フライはイチバンだったと公言し、諸手を挙げて誉めそやすことすら、カゲロウは吝かでない。

それでもやはり、牡蠣は生の旨味を味わってこそなどとのたまう向きというのは、おそらくは、珈琲はブラックでなければならないというような保守的な人物像と、イメージの中でおおよそ被ってくるのであるが、そういう狭量こそ、実は牡蠣の発散する魅力も、珈琲の内包する魔力も、実際その三分の一すら理解できていない、そんな類の人物に過ぎないのであろうとカゲロウは確信し、気の毒にすら思うのである。

インスタントではない珈琲で淹れたカフェ・オ・レ、それこそが、それなりのブラック珈琲そのもの以上の贅沢品なのであり、生でも行ける牡蠣に、あえて強く熱を通してこそ、それ以上の何かが生まれることもある、それはそういうものなのである。

例えれば、冬の運動場の霜柱ようなイメージの、太いながらも繊細な繊維を感じる、それ程に熱の通った牡蠣の身のしっかりした肉感というのは、やはりここまで火を通した結果でしか得られないものなのであり、そうでなくては、時には生臭ささえ感じさせるその水気を飛ばし切ることは、おそらくできないのであろう。
比較的、長い時間を我慢して、じっくりと熱を通してその結果、やっと、これなら生牡蠣でいいのではないかというような、中途半端な状態の牡蠣フライとは段違いの旨味が凝縮された、このやまとの牡蠣フライが日の目を見るというわけである。

とりあえず旬のものだからと、近年その季節になれば何度かは戴くようにしている牡蠣ではあったが、実際好物なのかと己に問うてみれば、自分自身を納得させる程の言葉はなくしてしまっている自分がいることに、正直気付かざるを得ない。
だから、時期半ばにしてまだ率先して御店に足が向かないという状況ではあったのだが、このやまとの牡蠣フライのお陰で、やっと何の躊躇もなく牡蠣は美味しい食べ物であると納得が行った、今更ながらカゲロウはそんな心持ちである。

さて、この牡蠣フライの旨さというのが、実際、旬であることに大いに左右されてしまうような移ろいやすい味わいで、既に来月であれば同じ様には味わえない、そのようなものであるのかどうか、それは経験不足ゆえ知る由もないのではあるけれど、少なくともこの御店の定番であるとんかつに関しては、その牡蠣フライの出来と比例して、これまで戴いたとんかつの中でも最上級の部類に入る逸品であったことは、実際あえて言うまでもないことではある。

とんかつやまととんかつ / みなと元町駅花隈駅西元町駅
昼総合点★★★★ 4.0



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