カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

トレンタ

2011年03月17日 | 大阪
「非日常的現実の中。」

ドルチェをプラスするかどうか、その事に気を取られていた妻は、差し引き意識していなかった、その前菜のバリエーションの豊富な事に、ひどく驚いた様子だ。
小魚のフライ、それにマリネは兎も角、他はあまり見かけない料理が3種類、ワン・プレートに計5種類もの品数が、眼にも華々しい。
餅とパンの間のような団子状の物体、烏賊飯のような形態の詰め物、そして、チューブ・パスタは、何年か前、旅行先、ローマの街の食堂で戴いて以来、日本では初めてお眼にかかる種類のパスタで、何ならこればかりを、一皿戴いてもいいというくらいに、旨く、懐かしい。

その懐かしさは、良い意味で日本的ではない料理の風味、それも然る事ながら、粗い造りの壁の塗装、一歩毎に軋む音が聞こえてきそうな、褐色の板張りの床の、どこか男性的な野性味、しかし実は、隅々まで意識の行き届いた、額の絵のセンス、窓際の籠に、一見無造作に山盛りにされた、ワインのコルク、ぴかぴかに磨かれ、艶かしく輝くグラスの女性的な肌理細やかさなど、周りの無骨さが、細部の繊細さを一際引き立てる風情、まさに昔訪れた、イタリア本国に漂う、ある種性的な生命感を感じさせる、そんな有機的な雰囲気を思い起こさせてくれるものだったからに、他ならない。

明るい昼間、他に客は、ひとりも居ない。
現地語の程好く長閑な歌謡曲、そんな微かなBGM以外、他に何も耳に聞こえてこないその事が、さらにその異国情緒的妄想に拍車をかける。
パスタ、そしてピザのランチ・セットを、ひとつづつ、先ずはパスタが食卓に届き、予想もしなかった大きさの、豚の角煮に、単純に驚く。
それを小皿に取り分け、ふたりで分け合っても、充分な量、そして、細やかな風味の前菜を上回る、そのダイナミックな美味しさ。
世に、物足りないラグー・ソースも少なくはないけれど、このソースは非の打ちどころがない。
そのシェフの嗜好、おそらく、かなり、個人的にも相性が良いようだ。

だが、こんなに美味しい料理なのに、他に客が、ひとりも居ない事、それを意識すると、それはとても不自然で、しかし実際、店が空いているそのおかげで、居心地はすこぶる良く、良い意味でも悪い意味でも、その感覚は、非日常的な事、この上ない。
ともすれば、それは人に、現実逃避を促す、特にこんな時節には。

パスタが終わり、ピザを待つ暫しの間、首をもたげる不安を振り払い、気を取り直して、再び、ゆっくりと店内を見回してみても、まさかここが、いつも当たり前にあるような、日常的な日本であり、現実であるとは、ちょっと思えない、雰囲気としての静けさ、ひと気のなさ、小さく聴こえる音楽、それ故の静寂、同じ空間を共有する妻も、そんな違和感を感じているらしい。

いよいよやって来たピザは、素晴らしく見栄えのする、充分な大きさの、赤く華やかな、円形の物体。
熱いうちにと、気持ちは逸る。
しかし、とろとろの具が落ちてしまわないようにと、気を付けて、ゆっくりと口に運ぶ。
土台はふんわり、ほくほく、モツァレラは、もぎゅもぎゅと、クラッシュされたトマトは新鮮で、瑞々しさを失わず、窯で焦げた小麦粉、その炭の香ばしさと合いまりつつも、尚4種の風味、全てが主張し合い、しかし不思議とお互いを潰してしまう事もなく、絡み合って感じられる、それは、とても特別な味わいだ。

もうこれで100%満足している事は、ふたりともに間違いないが、さらにプラスしたドルチェがやって来る。
盛られた4種は、またしても色鮮やかで、形状、そしてその温度も様々、特にティラミスが秀逸だとの、妻の弁。

そして最後に数種の飲み物の中からカプチーノを選ぶ。
それは、ランチ・セットの基本メニューの内で、ドルチェを注文した人にだけではなく、ふたりともに付いてくる事が判明し、気前のいいサービスに、さらに驚く。

どこか白昼夢の中であったような店内から、食事を終えて、一歩外に踏み出す。
心なしか、店前の生活道路からは、閑散とした印象を受ける。
そう、今は皆、心の片隅に不安を抱え、楽しむ為の余裕も失われ、いつ大きな揺れに襲われるのかと気が気でなく、その日常生活全てが、どこか薄ら寒い。
立場をわきまえず、作家的発言で顰蹙を買い、陳謝した政治家の言葉が、頭を過ぎる。
彼が間違っていたとしたら、それは日本人だけではなく、人類全てに対する天罰であるという点であって、そんな心当たり、自分にはないと言い切れる人間など、居る筈もない。
言うまでもなく、こんな時こそ自分を省みなければならない、そんな事など、皆、心の奥底ではわかっている。

出歩く人が居ないというわけではない、しかし、どこかひと気のないように感じられる路上とは打って変わって、その後、立ち寄った巨大ホーム・センターでは、おそらくは普段の平日にはないであろう人出があり、しかし混雑するでもなく、どこか粛々と、何事かの備えを蓄えようとする、多くの人たち。
その表情、それは、たとえ穏やかではあっても、やはり寒々しい。

今しばらくは続くであろう、非日常的な、居た堪れないこんな空気は、残りの人生、出来れば2度と味わいたくはない。
だが、トレンタの与えてくれるような、別の意味での非日常性こそ、辛く苦しく、悲しい知らせばかりの伝わってくる、こんな時節などではなく、もっと穏やかな幸せを感じられるようになったその時にこそ、改めて存分に味わいたいものだと、心の底から、思い、願う。


コメントを投稿