カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

道頓堀 今井 本店

2011年03月04日 | 大阪
「神も悪魔も、インド人も、きっと。」

人には属性というものがあり、しかしそれを、単に生まれだけで判断する事、それは明らかな差別、言うまでもなく、愚の骨頂ではあるけれど、それが、経験、環境、つまり育ちによって形成されて行くものであるという、その事実に関しては、その人物の成り立ち、それを冷静に、公平に、そして出来る限り客観的に見て、尚且つ、否定する事は、誰の場合であったとしても、出来はしない。
そして否応なく、人間というものには、そういう類の属性があるという事、それはつまり、馴れ親しんだ何らかに対する偏向、偏りこそが、その人となりの、あらゆる部分を形成しているという事に他ならず、多少の個人差はあれども、何によらず、人間の抱く全ての価値観とは、他の何かと比べて成り立つもの、相対的なものであるという事と、同義である。
そして更に、全ての価値観というからには、個人の味覚というものも、その例に漏れず、それつまり、世の中の誰にとっても絶対的に旨いと感じられるもの、あらゆる人間にとっての味覚の頂点などというものは、存在しようがないという結論に、否応なく達してしまうと、そういう訳である。

カゲロウは、思い起こす。
以前、知り合ったインド人に、日本の食べ物は美味しいですか?と訊ねたところ、いや、あまり・・・と、口ごもり、不躾に、不味いとまでは言わないものの、その表情は、言葉以上に、彼その人の真意を物語っていたという実際があった。
その後も遠回しに、何が食べられて何が食べられないのか、それとなく探りを入れていると、どうやら、出汁の効いた料理、出汁そのものの風味を身体が受け付けない、そのような傾向がある事が、おぼろげながら判明してきた、そのような気がした。
ちなみにそのインド人が、日本の食べ物で、無理なく美味しいと感じた物のひとつ、それは、「かきのたね」だそうである。
意外とインド本国では、「かきのたね」が、一部地域で受け入れられている、それは事実のようであり、その味覚的傾向というのも、何となく、わかるような気もする。
だがしかし、日本の誇る、出汁の文化、その風味というのは、彼の属性に従って、決定的に不可な訳である。

だから自分が、京都という、突出した出汁の文化の中で育ち、今となってはほぼ明らかであると思われる、最上級の部類の出汁を、日常的に味わっているのであろう事に、カゲロウ自身、疑いを持ってはいないのではあるが、同時にその文化というのは、別の属性を自身の中に抱く人々にとっては、むしろ味覚的に嫌悪する風味である場合もあり得るという、その厳然たる事実も、重々認識すべきであるという事は、いち人間として、当然、必須である。
インド人ならずとも、カゲロウの価値観を揺るがす現実、カゲロウにとっては、味覚的に理解を超えた料理に舌鼓を打つ人々の姿というのは、日々日常的に、世界のどこかの食卓に存在する、それは当然の事で、実際に短期間でも異文化の中に身を置き、そのような光景を幾らか眼にすれば、やはり、世界は相対的なものなのだという思いは、より強くなる。

だがしかし、絶対的な何かの存在というのは、人間にとって捨てきれぬ願いであり、救いとなり得る夢である。
それさえ掴めば、全てがわかる、そういう希望、拠り所を、人が心から完全に拭い去るという事は、なかなかに出来る事ではない。
そして、その欠片かと思えるようなものを、此処、大阪の有名店、今井で掴んだような気がした事は、カゲロウにとっては思いもよらない、しかし、破格に嬉しい出来事でもあった。

カゲロウの舌に馴染んだ、普段戴く京都風の出汁、それと比較すると、明らかに、甘い出汁。
だがそこには、有無を言わせぬ何かがある。
これが、絶対というものなのかも知れない、カゲロウは、禁忌に触れるが如くに、そう思う。
やさしく甘い、ふくよかな母性、いや、それをも超えた、祖父母的な落ち着きをも感じさせる、懐の深い出汁。
しかしながら、自らの属性に絶対的な自信を持ってしまい、それは勘違いであるという客観的認識すら持てない人間ならば、その甘さに批判を加える事必至であろう、その甘さは、実は真実、他との比較、それすら許さない。
どこか漂う余裕すら感じさせる風情、そして風味。
自分の慣れ親しんだ、京都で戴く出汁の効いた料理とは、また違う。
そして例えば、東京、浅草で嘗て啜った、大きな海老天の載った蕎麦などは、驚く程に味なかったのであるが、そんな論外の出汁とも勿論違う、この今井の出汁は、カゲロウにとって馴染みがない、にもかかわらず、論外などとは、口が裂けても言い得ない何かがある。

ひとつの観光地とはいえ、日本の中心である、浅草の有名店で温蕎麦を啜り、大きく期待を裏切られて以来、やはり出汁料理というのは、京都ならでは、その十八番なのかも知れないと、心のどこかで、我が事のように自惚れていたカゲロウの胸に、喜びさえも内包するかのような嫉妬心を抱かせてくれた、大阪、道頓堀の、そんなお出汁、それが今井の、何の変哲もないようにしか見えない、一杯の、きつねうどんであった。