カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

原パン工房

2011年01月16日 | 大阪
「自由な世界。」

小奇麗なパン屋に、可愛い売り子がいる、そういう雰囲気作り、それはそれで、そのお店なりの主義の具現化、主張である、そう言えるのかも知れません。
しかし、見栄えや外見を重視する事、イメージ作り、それは、パンそのものの出来とは、全く関係がない。
故に、それ自体が、仕事として、浮ついている。
と、そこまでカタイコトを言うつもりは、ありません。
ただ、こういう朴訥を絵に描いたようなお店、それを目の当たりにすると、外観、内装、従業員まで含めた、トータル・イメージを意図的に演出する、その手のお店というのが、少々軟弱に思える、そういう嫌いは、なくはない、相対的に、いくらかそう見えるというのは、仕方のないことでしょう。

ギラギラ、ネトネトした、客に対する媚びはなく、ガツガツ、ジトジトした商売っ気もない。
ただ、わかり難いこの立地まで、わざわざ足を運び、このお店を訪れた人に対する親切、それだけの意味合いで、パンを販売している。
というよりも、分けてあげている、おそらくそういうニュアンスが、実際でしょう。

鉄道の高架下、電車の通る騒音、それが為に、賃貸料が安いとされるその立地は、工房という名の通り、パンの工場であって、いわゆる小売店としての、いくらかの色気のある雰囲気、そういうものは、ほとんどありません。
しかしそれが、反って素朴で真面目な印象を与え、それは例えば、金持ちと貧乏人との差がハッキリしていて、望ましい訳ではない、そんな立地で、それでも頑張って仕事している、そのような、昔のヨーロッパの田舎の風景を描く、宮崎駿の映画に出てきそうな、そういう類の風情を湛えていて、ワクワクするような、それでいてホッとするような、誰しもが子供の頃に感じたであろう、それ故の自由、パワー、そして、反骨精神、さらに、その先にあるであろう未来、気のせいかもしれませんが、そういうものを感じさせます。

小売店としては少な過ぎる、その日、その時によって、あったり、なかったりするパンの種類、そこに、不満を感じる、それは、全くのお門違いです。
在れば分けてもらえる、無くても当然、何なら、お金などという、世知辛く、味気ないもので、お代を払うというのではなく、自分の作った何かと交換するのが本来である、この現代において、そのような錯覚さえ起こさせる、そもそも、そうする事こそが、実は自然な行為であるという事を思い出させてくれる、それが、このお店の持つ風情です。

例えば、たま木亭のように、パンという枠を超えたパン、そういう訳ではありません。
シュクレのような、社会に牙を剥く、剥き出しの何かを思わせる、強烈な印象のパンというのでもありません。
コティアコティのように、惣菜との絶妙のバランスを口中にて紡ぎ出すパン、そういう訳でもなく、プチメックやビオブロートのように、確固としたある種のイメージを具現化したパン、そういう訳でもありません。
地味で朴訥な仕事の続きに生み出される、特に個性的な訳でもない、ひたすらに素朴なパン。

あえて、そこそこ突出した印象を抱いたものはと言えば、何種類かあるラスク、それが、どれも美味しかった。
美味しいからといって食べ過ぎて、最近少々食傷気味の、ホホエミのキャラメル・ラスク、そこまで個性的という訳ではないけれど、ちょっと雑で、しかし、どこか懐かしい風味の、ホドホドに歯応えのあるラスク。
おそらくは、その種類でさえも、時の移ろい、成り行きに連れて、あるがままに、変化して行くのでしょう、このお店の在り様のように。


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