ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

「芸術のための音楽」と「人生のための音楽」(『四月は君の嘘』を読んで)

2016-09-06 23:53:03 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


昨日の熱いライブレポートからの引き継ぎということで、少し気が引き締まりますね。
今回は漫画を読んだ感想を書こうかと思います。

今日、友人から『四月は君の嘘』という漫画を又借りして読んでみました。
物語の詳細を説明すると長くなるのですっとばしますが、ざっくりいうと、トラウマによりピアノ演奏ができなくなってしまった少年が、ある少女との出会いをきっかけに音楽を演奏することの喜びを取り戻していく、というようなお話です。
他にも、故人となった母親との関係とか、幼馴染とのゴニョゴニョとかいろいろあるんですが、まぁ、ここでは省きます。

私は友人に紹介されるまで知りませんでしたが、2014年にテレビアニメが放送され、最近では実写映画も制作されているとのことで、結構世間では知られているのかもしれませんね。
それから、私は3巻までしか読んでいないので、お話の結末をまだ知りません。
そのうえで、ここまでの感想を簡単にまとめたいと思います。

音楽系の漫画とかフィクション作品でよくテーマになるのが、「芸術のための音楽」なのか「人生のための音楽」なのかという対立項です。
もっと即物的に言い換えれば、「コンクールための音楽」対「喜びのための音楽」と捉えても良いかと思います。
要するに、客観的な基準にもとづいて“採点”される音楽を志向するのか、そんなものはまったく無視して、ただ聴く人を楽しませたり共感を呼び起こすための音楽を志向するのか、という二つの姿勢の在り方が音楽には(というか、芸術一般に)考えられるわけで、本作品においても、その二つの在り方がテーマになっています。

相当異端ながら、まがりなりにも音楽をやっている身からすると、そういう対立項は経験的にもうなずけるものですね。
例えば《幼女ペロペロ》なんかはニコ動や祭宴などの場では受け入れられても、コンクールでやったら審査員が泡を吹いて卒倒してしまうことでしょう。
音楽表現の評価というのは、「何をやるのか」(曲目や技術などの中立的な側面)と同時に、「いつどこでやるのか」(状況や聴衆などの文脈的な側面)にも左右されます。
「芸術のための音楽」を志向していない我々の演奏は、そのような音楽が求められる場では一笑に付されてしまうに違いありません。

話を物語に戻しましょう。
『四月は君の嘘』の主人公は、母親によってまさに「コンクールのための音楽」をスパルタ的に叩き込まれて育ち、あるトラウマ的体験によって、その演奏すらも困難になってしまいます。
しかし、そんな主人公のまえに、ただひたすら天真爛漫に「喜びのための音楽」を追求する少女が現れます。
こんな出会いをしたら、主人公が心動かされないはずがありませんよね。
実際、そんな少女に主人公は恋にも似た憧れを抱きます。
なんといいますか、チョロいもんです。

ここで思うんですけど、「芸術のための音楽」と「人生のための音楽」という対立が出てきたときに、前者は伝統とか格式とかいったものに凝り固まっていて、後者はそういったしがらみから自由なものとして描かれ、前者を志向する男キャラが後者を志向する女キャラの演奏を聴いて

「なんて自由な演奏をするんだ…」

とかなんとかいったセリフを吐いて、よくわからんうちに恋に落ちる、みたいな展開になりがちな気がするんですが(※個人的な見解が入っております)、本当のところそう単純な話なんですかね?
「芸術のための音楽」を志向する人にも、それなりの矜持と創意工夫があるんじゃないでしょうか?

例えば、古楽の分野。
古楽というのは、まごうことなき伝統を重んじるジャンルであり、「芸術のための音楽」と評価して差し支えないと思いますが、一方で現代を生きる我々にとっては非常に新しく、創意工夫に満ちたジャンルです。
つまり、「芸術のための音楽」であることと“古臭い”とか“守旧的”とかであることとは本来別のことのはずなのに、フィクションの世界だとそれがステレオタイプ的に結び付けられてしまっているような気がするのです。
これでは、コンクールその他の「芸術のための音楽」を志向する機会に向けて創意工夫をこらし、真面目に音楽をやっている人が却って誤解されてしまいような事態にも陥りかねません。

ここまでの話を簡単にまとめると、「芸術のための音楽」と「人生のための音楽」という対立があったときに、そのどちらかを悪者にする必要はないんじゃないか、ということです。
音楽の価値とか評価とかいうと、なにか人智を越えた至上の音楽的/芸術的価値みたいなものを想起しがちですが、音楽の価値というものは文脈的な側面と切り離して考えることは不可能なので、音楽の超越的な価値みたいなものを追い求めることにあまり意味はないじゃないか、と思うのです。

ただし、断っておきたいのは、私は別に『四月は君の嘘』を批判する気持ちはまったくないし、まだ3巻までしか読んでないので続きがめちゃくちゃ気になっているということです。
ここでいいたかったのは、音楽の姿勢とかジャンルによって優劣をつけるのは、人種によって人間の優劣をつけるのと同じくらいアホらしいので、そういう誤解はしないようにしたいなぁということで、『四月は君の嘘』は私が勝手にダシに使っているだけです。


少し長くなってきたので、これくらいにしておきましょう。
みなさんは、普段どんな音楽と接していらっしゃるでしょうか。
《幼女ペロペロ》みたいな頭のおかしい音楽ばかりきいていると、某シュビドゥヴァーズのような「バカのための音楽」的思考に陥ってしまうので、十分にご注意ください。

それでは!

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