硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「風立ちぬ」 君さりし後 24

2014-08-31 07:43:46 | 日記
翌朝、静まり返ったホテルの食堂で朝食をとりながら新聞を開くと、この混乱のさなかにも新聞が機能している事に安心を覚えた。そして、東久邇宮内閣が誕生し新たな国作りが始まった事に希望を抱きつつも、同時に英霊の無言の凱旋が始まっている事を知り心が痛んだ。

次郎はゆっくりと出発の支度を済ませ、想い出の高原ホテルを去ると、奈穂子が過ごしたサナトリウムへと向かった。

鉄道を乗り継ぎ、小渕沢駅から再び中央線に乗ると、空が一層近くなり、次第に八ヶ岳の姿もはっきりと見えてきた。
小さな駅舎の富士見駅に降り立つと、高原療養所のしるしの付いたハッピを着た、歳をとった小使いの男が、次郎を迎えに来ていた。次郎一人だけが列車から降り、改札に向かうと、その男が、

「堀越さんですね。」

と、声をかけてきた。次郎は、

「はい。堀越です。よろしくお願います。」

と、言って一礼をすると男は「こちらへ」と言って、駅前に止めてあった自動車へ案内した。自動車に乗り込むと男は黙ってエンジンをかけ、古びた小さな家が一列に立ち並んだ村の方向に向けて、緩やかな登り道を走りだした。
奈穂子はどんな気持ちでこの景色を見ていたのだろうかと次郎が考えていると、小使い男が気を利かしてか、場を紛らわすかのように話しかけてきた。

「今日も暑いですなぁ。堀越さんは、此処は初めてですかな。」

「ええ。初めて訪れます。」

「そうですか・・・。此処は何もないですが、空気が美味いから身体にはとてもいい。きっと良くなるはずだ。」

次郎はその言葉に微笑み、ミラー越しに「そうですね。」と返事をした。

雑木林の向こう側に赤い屋根が見えると、男は「あの赤い屋根が療養所です。」と、言った。

サナトリウムにつくと、簡単な診療を受けた後、病棟の2階の6畳ほど部屋の一室に案内された。板張りの床に、真っ白に塗られた椅子と卓とベッドと、小使いが先に運んでおいてくれた次郎のカバンがぽつんと置いてある光景は淋しさを感じたが、バルコニーに目をやると、先ほど通り抜けてきた村と畑の向こうに南アルプスとそれに連なる山々の姿が見えて気分が和らいだ。次郎は空気を入れ換えようと窓を開けると、さわやかな風が吹いてきて白いカーテンをふわりと揺らし、次郎の身体を抜けてゆくと、次郎は不意に浮かんだ言葉をつぶやいた。

「風が立った。・・・生きる努力をせねばならぬ。」

「風立ちぬ」 君さりし後 23

2014-08-31 07:35:48 | 日記
翌日、次郎は再び荷物をまとめ家を出た。母と加代は笑顔で見送ると、次郎も明るく振舞い「行って参ります。」と言って、いつまでも見送る二人に何度も振り返り手を振った。
朝靄立ち込める藤岡駅から朝一番の汽車に乗り、高崎で乗り換えると奈穂子が眠る軽井沢へ向かう汽車に乗った。
奈穂子は生前、次郎と再会を果たしたあの軽井沢村で永遠の眠りにつきたいと願っていて、それを聞いていた里見氏も奈穂子の最期の願いをかなえてやりたいとその亡骸を軽井沢の教会の墓地に安置した。

軽井沢村に到着すると、次郎は奈穂子と再会したあの高原のホテルに向かった。
駅前の家並みを抜け、ホテルに向かう細い一本道を歩いてゆく。相変わらずの暑さであったが、高原の木々の影に入ると高原独特のひんやりした風を感じた。森を抜けると奈穂子が写生していた小高い丘が見えてきた。此処も戦火を免れ、あの頃と変わらぬ姿を残していて安心と懐かしさを感じた。
ホテルにつくとロビーでは多くの外国人が出発の準備を始めていた。どうしたのかコンシェルジュに話を聞くと、どこかの国の大使館の人々が疎開先として一昨日まで利用していたが、終戦を機に大使館へ戻る準備をしているのだと言っていた。少しばかり混乱しているものの今のところは宿泊できるというので予約を入れ、荷物を預けるとホテルの近くにある丘の上の教会に隣接した墓地へ歩いて行った。

ホテルからさらに丘を登ると小さな教会があり、そこからは浅間山の雄大な姿が見えた。次郎は道すがらつんだ野花を手に、墓標前に立つと、帽子を取って奈穂子に語りかけようとしたが、複雑な思いは言葉にならなかった。

あの時、すべてを投げ出せれば奈穂子に寄り添っていられた。しかし、そうすれば次郎に関わるすべての人に迷惑がかかり、その上に何もかも失ってしまう非情で暗黒な時代であったが、それは言い訳にしかならないことも十分わかっていた。

「・・・随分待たせてしまったね・・・。仕事が終わって・・・戦争もおわって・・・ようやく穏やか日々が訪れたよ。」

次郎はしゃがむと花を墓標の前に置き、

「日記読ませてもらったよ・・・。苦しい時、辛い時、傍にいてあげられなくて出来なくてごめんね・・・・・・」

と話しかけた後、黙ったまましばらく奈穂子の墓標を見つめてた。そして、想いを絞り出すように

「たとへわれ死のかげの谷を歩むとも、災いをおそれじ、汝、我と共にいませばなり・・・。」

と、聖書の詩編の一節を詠んだ。

空には入道雲が天高く立ち昇っていたが、どこかでツクツクボウシが鳴いていて、野に揺れる若いススキは穂を広げようとしていた。

「風立ちぬ」 君さりし後 22

2014-08-30 13:01:37 | 日記
家に帰ると、次郎はこれから起こるであろう出来事と、その際の対処を詳細にまとめた手紙を母と加代にしたため、部屋の机の上に並べた。そして、その晩の夕食の後、母と加代に診断の結果と今後の所在を伝えると二人はしばらく黙っていた。結核は不治の病であり、治療の為に高原の療養所へ行く事は、死を意味し、生きては戻ってこられない事が通説であったが、次郎はそれでも二人の気持ちを察して、

「すいません。せっかく帰って来たのにこんな事になってしまって・・・・・・」

と言って、頭を下げた。

加代は涙をこぼれるのをこらえていたが、母はまっすぐに次郎を見つめていた。気丈であった。それは、この地から戦場へ行った若者たちを何人も見送り、戦死公報だけが届いた母親の悲しみを十分すぎるほど理解していたからだった。

「・・・そうですのね。分かりました。しっかり治療していらっしゃい。母はいつまでも貴方の帰りを信じて待っていますから。」

と、母が言うと、加代は涙をこぼし、言葉を詰まらせながら、

「・・・もっと勉強して・・・、結核なんて・・・、あっという間に直す・・、治療法を見つけて・・・、絶対お兄様を助けるから・・・。」

と言った。加代の気持ちが痛いほどわかった次郎は、

「ありがとう。でも、心配しなくてもいいよ。自分で言うのもなんだけれど、模範的な患者になる才能があると思うから。」

と、言って笑った。加代はそれを聞いて

「いやあね。お兄様ったら。」

といって、涙を拭きながら微笑んだ。それは余り冗談を言わない次郎が加代に対して今できる精いっぱいの思いやりでもあり、次郎の気持ちを察した加代の優しさでもあった。


「風立ちぬ」 君さりし後 21

2014-08-28 08:29:14 | 日記
左手を顎に当てると表情を曇らせ「どうしたものか・・・。」呟いた。その言葉に自身の容態が良くないことを確信した次郎は、

「先生。どうぞ遠慮なさらずにおっしゃってください。」

と、誘い水を向けた。するとドクターは改めて次郎と対面し、

「堀越さん。はっきりいいますよ・・・。」

と、前置きをしてからレントゲン写真の肺の部分を指差し、

「あなたは肺結核をわずらっています。それもずいぶん悪い。ここの部分、分かりますか。思った以上に病巣が拡大しています。しかし、よくこれで喀血しなかったですなぁ。奇跡としか言いようがない。」

と、言った。次郎の様子を窺っていた加代は両手を口に当て驚いたが、次郎は奈穂子と過ごしていた時からいつかこうなることを心のどこかで決意していた。

「わかりました。それで、今後どうしたらよいでしょうか。最良な対応策を・・・。」

ドクターは次郎の覚悟を理解した。そして、わずかな希望でも体調が回復するかもしれない方法を勧めた。

「・・・もし、金銭的に余裕がおありなら、療養所に行く事をお勧めします。」

次郎は静かにうなずいた。加代は目に涙をためて泣かぬようこらえていた。

「・・・今の医学では如何ともしがたいのです。」

「わかっています。これも運命だからしかたがありません。」

「では診療所をご紹介しましょう。それとも、どこか心あたりでも?」

ドクターが次郎に問うと、ためらうことなく、

「ええ。実は妻が生前療養していた富士見市のサナトリウムに行こうと思います。」

と、言った。それを聞いたドクターはそれまでこわばらせていた表情を緩ませて、

「ああ、正木さんの療養所ですな。それならば、私が紹介状を出しておきましょう。」

と、言った。

「院長をご存じなのですか。」

「ええ。医大の先輩です。ずいぶん世話になりましたから。」

「そうでしたか。世間は随分狭いものですね。では、お願いしてもよろしいでしょうか。」

「それくらいしかできませんからな。では、いつ頃向かわれますか。」

「・・・早い方がよいでしょう・・・。では明後日じゅうには窺うようにいたします。」

「ふむ。承知しました。では、こちらから、そのように伝えておきます。」

「よろしくお願いします。先生。ありがとうございました。」

次郎は一礼をして診察室を出た。しかし、不思議と迷いはなかった。むしろ今日の澄み切った青空のように心の底から清々しかった。

「風立ちぬ」 君さりし後 20

2014-08-27 06:01:50 | 日記
木造平屋建ての診療所につくと、待合室には三人が診察を待っていた。受付をすると看護婦から熱を測るようにと体温計を渡され、その場で体温計を脇に挟み待合室の木造の椅子に腰をかけ、小さな手提げカバンの中から昨日里見家で頂いた奈穂子の日記を取り出し表紙をめくった。
何が書かれているのだろうかと、不安を抱いたままページをめくると、何を食べたとか、誰とどんなおしゃべりをしたとか、気候の事だとか、たわいのない日常が記されていて、奈穂子がこの日記をつづる様子を想い浮かべながら顔をほころばせたが、ページが進むにつれ、次第に文章は短くなり、次郎に逢いたいという文字を見つけるたびに心が痛んだ。

「堀越さん。どうぞ。」

次郎の名が呼ばれ診察室へ向かうと、歳は50代くらいであろうか、立派なひげを蓄えたドクターが、椅子に座って次郎を出迎えると、早速体調を尋ねた。

「どうぞお掛けになって・・・。堀越さんですね。今日はどうなされましたか?」

「昨年末から体調が崩れず、咳き込むようになりましたが、最近になって体調が一層すぐれないものになった気がするのです。少し微熱もあるようです。」

「ふむ。どれ、体温計を見せてください。」

次郎は体温計をドクターに渡すと、「たしかに。37.3度ありますな。」といって、体温計を看護婦に渡した。

「じゃあ、胸を開いてください。聴診します。」

そう言うと、聴診器で次郎の肺の辺りを丹念に聞きはじめた。ドクターの表情を窺うと少し難しそうな表情をしているのが見て取れた。

「う~ん。」そういうと、左手を次郎の胸に添えて右手でトントンと叩いて音を確かめた後、

「堀越さん。レントゲンを撮ってみましょう。」

と、言うと、となりの暗幕に閉ざされた部屋でレントゲン撮影を行った。
撮影はすぐに終わり、診察室に戻るとドクターは再び問診を始めた。

「堀越さん。つかぬことを窺いますが、よろしいでしょうか?」

「ええ。なんなりと。」

「あなたの身近で、結核を患っている人がいらっしゃいませんでしたか。」

「はい。9年ほど前に亡くなった妻が結核でした。」

「・・・そうですか。ひょっとすると貴方もそれかもしれません。喀血は? 」

「幸い、まだ一度も。」

「そうですか。」

次郎の返答を聴くたびにドクターは筆記体のドイツ文字でカルテに症状を書きだしたが、ドイツ語が理解できた次郎は何が書かれているのかがわかった。
兄の様子が心配だった加代は、レントゲン写真を持ってドクターに手渡すと、受け取ったドクターは軽く頷き、写真を窓の方を向け目を凝らし、しばらくじっと見つめた。

「風立ちぬ」 君さりし後 19

2014-08-26 13:04:43 | 日記
翌朝、座敷へ向かうと支度を済ませた加代が、

「お兄様、おはようございます。昨夜はずいぶん咳き込んでいたみたいですが、どこか具合をわるくなさったの?」

と、心配そうに尋ねてきたので、次郎は苦笑いをしながら事情を説明した。

「じつは、去年の暮れごろから色々あって急に具合が悪くなってね。それ以来咳き込むようになった。」

「お医者様にはかかられたの?」

「いや。今までそんな時間が無くてね・・・。ごまかしながら過ごして来たんだけれど、ここのところ更に調子が悪くなったみたいな気がするよ。」

「じゃあ、今日、診療所に来てください。院長先生はとてもすばらしい方ですから、お兄様の病状も分かると思います。」

次郎は少し戸惑ったが、もう時間に追われる事はないのだからと快く了解した。

「じゃあ、待っていますね。それでは行って参ります。 」

「行ってらっしゃい。」

次郎は母と共に加代の出勤を見送ると、朝食を摂り、身支度を整え加代の勤め先である診療所へ向かった。今日も朝から快晴であった。蝉がうるさいくらいに懸命に鳴いていた。日差しで焼かれた瓦屋根が陽炎で揺れていた。立っているだけで全身から汗がにじみ出て来るのが分かった。

「今日も暑いな。」

額から流れる汗を拭き帽子をかぶると、診療所に向けて町並みを見ながらゆっくりと歩いてゆく。手入れされた田んぼ。遠くに見える山々。美しい水を湛えている川。何度も通った道。お使いに出かけた角店。同級生の家。昨晩も思ったが、名古屋や東京の惨劇を目の当たりにした後で見る故郷の風景が何一つ変わりない事に幸福を感じた。

「風立ちぬ」 君さりし後 18

2014-08-25 08:24:53 | 日記
その夜は10数年ぶりに親子で団欒し、夢心地のまま部屋に戻ろうとすると、改まった母が「ちょっと次郎さん。」と言って呼び止めた。

「何ですか。母さん。」

「・・・これなんですけれど。」

母が次郎へ一通の手紙を差し出し、

「ほら、小学生の頃、あなたとよく遊んでいた毛利君から手紙がきたのよ。」

と言って次郎に渡した。毛利君は尋常小学校時代の同級生で、運動が得意な少年であった。それに引き換え次郎は運動があまり得意ではなかったので毛利君から器械体操や柔道を教えてもらい技を磨いていった。その代わりに次郎は毛利君に読み書きや算術を教えるという、旧知の中であった。

「・・・毛利君から? なんだろう。」

封筒の裏を見ると横須賀海軍航空隊とあり、嫌な予感がした。

「ありがとう。それで、毛利君は今どこにいるのか聞いていますか。」

そう尋ねると、母は表情を曇らせ、「毛利君ね・・・。南方で戦死なさったそうよ・・・。」

と言うと、次郎は、

「・・・そうですか。」

と、だけ言って、足早に階段を上がって部屋に入った。早速白熱電球を灯し、すでに誰かの手によって開封された手紙を再び開封し便箋を取り出すと、毛利君の文字があの頃と変わることなく綴られていて懐かしさを感じた。しかし文面は悲痛なものであった。

「堀越君へ。」

「この歳になり改めて、君に向けて筆をとろうと思ったのは、君に礼を言っておかなければならないと思ったからだ。君に読み書き算術の楽しさを教えてもらわなければ、今の俺はなかった。本当にありがとう。
明日から部下と共に南方へ向かうこととなった。聞けば、俺の愛機は君が作ったそうだね。それを聞いた時、本当にたまげたよ。日本海軍が誇る、いや世界が認める素晴らしい機体だ。そして、操縦桿を握って飛んでいる時、君と共に飛んでいるのだと思うと、とても心強く、一層やられる気がなくなった。かならず、勝利して帰って来るから、その時は四方山話をつまみに一杯やろうではないか。武運を祈っている。」

手紙を読み終えると、自身の作った飛行機が友の命を奪ったという数奇な運命に、やり場のない怒りと深い悲しみを覚えた。そして、その夜はひどく咳込み、結局朝まで寝付けぬまま朝を迎えた。

「風立ちぬ」 君さりし後 17

2014-08-24 06:01:26 | 日記
「おにいさま。カバンもちますわ。」

「ありがとう。」

「お身体、かわりないですか。」

「うん。でも、少し疲れたよ。」

「お食事は?」

「まだ食べていません。」

「じゃあ今から支度しますね。今日は久しぶりにお風呂を沸かしましたから、先に入ってください。」

「ありがとう。加代。・・・しばらく見ない間に綺麗になったね。」

すると、加代は頬を真っ赤に染め

「いやだわ。お兄さまったら・・・。荷物ここに置いときますね。」

と、いって階段の下に荷物を置くと、そそくさと台所へ向かっていった。妹の加代は地元の小さな診療所で町医者として働いており、戦中は一時、国立病院で戦争負傷者の治療にあたっていた。その間に見合い話もいくつかあったようであったが、気真面目であった為、職務を全うしたいという志を貫き今も独身であった。

風呂に入れるという幸せ。戦中は入浴さえも贅沢だといわれ、銭湯も軒並み廃業となり、井戸水の行水で済ませるのが普通であった。落としブタをゆっくり踏み込んで、湯船に身体を沈ませてゆくと、連日の激務の緊張と松本から東京、そして群馬への長旅で疲れきっていた身体が次第にほぐれ、知らぬ間に軽く寝入ってしまい、なかなか出てこない兄を心配した加代が、

「お兄様、大丈夫ですの?」

と、呼んだ声に驚き目が覚めた。そして湯けむりの中、今までの生活が夢であったかのように感じた。

「風立ちぬ」 君さりし後 16

2014-08-23 06:01:52 | 日記
鴬谷から新宿駅に戻り八王子から八高線に乗り換える頃には夕陽が西の山に沈みかけていた。車窓から見える懐かしい故郷の山河は美しく次郎の心を和ませた。実家である藤岡駅につく頃にはすっかり日が落ちていて、暗闇の田舎道を実家に向けて歩いた。
十数年ぶりの故郷が何も変わりなく、生家に明かりが灯っているのが見えると張りつめていた緊張が思わずほぐれ、

「・・・ああっ。ようやく帰ってきた。」

と、自然に言葉が漏れた。

「ただ今戻りました。」

玄関を開けると、奥座敷から妹と母が飛び出してきて、

「お兄様、おかえりなさい!!」

「次郎さん。お帰りなさい。」

「ただいま。」

と、何年かぶりの挨拶をした。次郎は二人の笑顔にほっとし、ゆっくりと玄関の敷居をまたいだ。

「次郎さん。本当によくお帰りになられました。名古屋の方もひどい空襲だったそうで、とても心配していましたよ。」

「心配をおかけしました。」

次郎はそう言ってお辞儀をすると、母は少し涙ぐみながら、

「お元気そうでなによりです。」

と、言って次郎の帰りを喜んだ。次郎はずっと連絡が取れない兄の事も気になっており、

「ところで兄さんは。」

と尋ねると、母は微笑みながら、

「無事よ。安心しなさい。昨日疎開先から便りが届いた所よ。奥さんや孫も元気だそうよ。」

と言った。兄の所在が分かって安心した次郎は、

「そう・・・。それはよかった。」

と言って、縁側に座ると、疲れ切った靴を脱ぎ10数年ぶりの我が家に上がった。


「風立ちぬ」 君さりし後 15

2014-08-22 05:57:08 | 日記
「あっ、そうそう、主人から言伝を預かってましたのよ。ちょっとお待ちになって。」

里見氏からの言伝を思い出した夫人は席を立ち、品の良い舶来製の家具の引き出しを開けると、その中からえんじ色の綺麗な本を取り出した。

「これですの。」

「これは?」

「奈穂子さんの日記です。主人が申すには、奈穂子さんが亡くなるひと月前までつけていたそうです。堀越さんが尋ねてきたら必ずこれを渡すようにと託っていましたのよ。」

次郎は両手で日記を受け取ると、

「ありがとうございます。」

と言って、しばらく表紙をじっと見つめた。しかし、開けることなくカバンにしまうと、里美夫人が、

「あら、お読みにならないの? 」

と尋ねたが、次郎は上手く気持ちを言葉に出来ず、「はい。今はまだ・・・。」と言ってお茶を濁した。夫人もその気持ちを察し、それ以上日記の事には触れず、これまでの里見氏の事業の事やこの界隈の出来事を面白おかしく話した。次郎は夫人の気持ちに感謝し、しばらく夫人の話に耳を傾けていた。そして、皆が無事であることに安心した次郎は機を見て、

「・・・実家の方も気になりますので、そろそろお暇します。色々お話を聞けて良かったです。」

と切り出すと、里見夫人も、

「私も堀越さんにお会いできてよかったわ。この事は主人には必ず伝えておきますわ。遠慮なさらずに、またいらしてください。」

と、言って気持ちをくんだ。

「ありがとうございます。それではお義父さんや義兄さんによろしくお伝えください。」

次郎は一礼をして席を立つと、夫人も席を立ち女中と共に次郎を玄関まで見送った。初対面であるのに親切に応対してくれたことに感謝し、再度一礼して奈穂子の家を後にした。
次郎は駅に向かう道を歩きながら、これからの事を考えていたが、焼跡の中でもバラック小屋を建てて生活を始めている人々の力強さを見て、

「負けてなるものか。」

と呟いた。

「風立ちぬ」 君さりし後 14

2014-08-21 06:12:42 | 日記
次郎は新宿駅から山手線に乗り換えて、奈穂子の家に向かった。山手線も空襲の被害を受けていたが、数日で復旧させ電車を走らせていた。電車に揺られていると車窓から上野の山が見え、その付近は焼けのこっていて安堵したが、それは墓地やお寺が多い事が幸いしたのかもしれないと思った。

鴬谷で電車を降り、でこぼこ道の大通りをしばらく歩き、細い路地へ入ってゆくと見覚えのある町並みの中に奈穂子の家を見つけた。
瀟洒な洋館の扉の呼び鈴を押すと、若い女中さんがでてきて丁寧にあいさつされた。その身なりはきちんとしており、焼け野原の中で立ち尽くす人々や、新宿駅にいた人々とはずいぶん違っていることに驚きつつも、帽子を取って「堀越というものですが、奥さまはいらっしゃいますか?」と、尋ねると、若い女中さんは「堀越様ですね。しばらくお待ちくださいませ。」といって、足早に奥へ向かった。

里見氏は日本郵船の重役で、兄も同じ会社に勤めており、代々続く裕福な家柄であった。奈穂子が亡くなった2年後に今の夫人と再婚し、次郎にも手紙によって知らされていた。

「まぁ堀越さん! よくいらっしゃいました。ご活躍は主人から度々聞いてはおりました。さぁおあがりになってください。」

次郎は笑顔を作り軽く会釈をすると「おじゃまします。」そう言って、靴を脱ぎ家に上がり、「お義父やお兄様はご健在でしょうか。」と、尋ねた。すると夫人は、

「ええ、元気でやっております。でも、主人も息子も終戦の混乱で職場に出たままで帰っておりませんのよ。」
と、穏やかに答えた。

次郎はどこも同じような状況なのだろうなと思いながらも、義理父が元気であることに安堵した。夫人の後についてゆき応接間へ通されると、

「おつかれでしょう。おかけになって。」と、夫人に促され、

「ありがとうございます。」

と、言って、ソファに腰を下ろしハンカチで汗をぬぐった。夫人は、

「この混乱の中、よく訪ねてくださいました。」

と、言って次郎をねぎらうと、次郎は今までこちらに来れなかったことについて話し出した。

「新聞で東京が空襲を受けた事は知っていましたが、私の職場の名古屋も地震と空襲でひどく混乱していまして、こちらになかなか足を運ぶ事ができませんでした。」

「地震?」

「ええ。新聞にはほとんど報じられていませんが、東海地方では空襲の前にとても大きな地震が起こってかなりの被害が出たんですよ。」

夫人はとても驚いていた様子であった。言論統制が引かれた戦時下、それも末期では震災の事など重要ではないと判断されたのだろう。沢山の人が亡くなり、苦しんでいる人たちが大勢いる状況を目にしていた次郎は、改めて軍部は非情であると思った。

「たいへんでしたのね・・・。東京も、それはひどいもので、この辺りは焼け残ったところも多いようですが、皇居や銀座や有楽町は焼け野原になってしまって沢山の人が亡くなったと主人から聞いています。堀越さんは鉄道でいらしたのでしょう。此処までの景色はどうでしたか。 」

「ええ。関東大震災の時に戻ってしまったのかと錯覚するくらいの変わりように驚きました。」

「やっぱりそうでしたのね。」

「はい。」

そう言うと、女中さんがお茶を持ってきて次郎と夫人の前にそっと置かれた。次郎は軽く会釈をし「いただきます。」といって乾ききった喉を潤した。

「風立ちぬ」 君さりし後 13

2014-08-20 17:12:25 | 日記
「しかし、作戦が失敗し、多くの兵士が失われているにもかかわらず、失策の責任を誰も取ろうしない上に、失策の再検討すらしようとしませんでした。本心から勝利を望んでいるのであれば、軍規を重んじるのならば、反省し責任を果たさねばならないはずなのですが、失策がなかったようになってしまうその現状を目の当たりにし、愕然としました。」

次郎は軍部の無理難題な要求に対して苦悩してきた一人であった。そして、その軍部にも時代に翻弄されつつも懸命に義や仁について考えぬいてきた人がいる事を嬉しく思いつつ青年将校の熱い想いに耳を傾けていた。

「軍に対し不信感を抱いた私は、どうにもならない現在の状況から一歩引いて、どうして人は非情になるのか歴史的に検証してみる事にしました。日本もかつては、国取り合戦を繰り返し、名を残した武将も時には非情な手段で戦に勝利してきましたが、その時どうして同じ日本人に対しても非情になれたのか考えました。勝利する事が目的であるとするならば、勝利したいという欲望が道理を忘れ暴走する過程には何かがあるはずなのです。しかし、戦という事象はあまりにも複雑すぎて実態がつかめないのです。
物を大量に消費する事に無感覚になった人間が行きつく消費対象が同じ人間に向かうという傾向も理由として不完全ですし、消費対象となる人間から搾取できる益が最大の目的であるという理由もぼんやりしすぎているのです。そう考えると、やはり、戦とは蔦が絡まるようにいくつもの欲望が絡み合って起こったものであると考えるのが妥当なのではと思ったのです。人智では知れないものが戦なのだとすれば、人の命を必要とする魔物がその時代にとり憑き、人間を非道にしてしまったのだと仮定すれば、そこには国籍や人種や宗教などは一切関係なく、ひとたび戦が始まってしまえば、道理などでは止められなくなるのも然りなのだと思いました。」

青年将校の膝の上の握りこぶしは小刻みに震え、顔は紅潮しているのがみてとれた。次郎はなぜこれほどまでに真面目に考える青年が軍人になったのか知りたくなった。

「そこまで考えるあなたは、なぜ軍人になろうと思われたのですか?」

青年将校は次郎の問いに、我に帰り笑みを浮かべた。そして、簡潔に理由を述べた。

「私は農家の三男坊ですので家を出て自身の力で生きていかなければなりません。しかし取り柄と言えば少し勉学の出来がよかった位でしたので、さらに勉学に励みなんとか陸士を目指したのです。つまりお国の為とか陛下の為とか忠義の為とかではなく、糧を得る為に軍人を目指したのです。しかしながら、先ほど述べたことは軍人にならなければ判らなかった事だとも思います。」

なるほどと、次郎は思った。

「帝国軍人がこういう事を言うのは恥じるべきことかもしれません。しかし、時代は実に無常です。結局、思い煩っただけで、何もできなないまま、また農家の三男坊からやり直しです。」

青年将校は胸の内を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。そう思った次郎は、

「わたしも、似たようなものですよ。」

と、言うと青年将校は穏やかな表情で、

「・・・おしゃべりが過ぎましたね。すいませんでした。」

と、謝罪した。爽やかな青年だと感じた次郎は、

「いえ。貴方の気持ちはとても分かります。しかし、時代が新しく生まれ変わろうとしています。そして貴方はまだ若い。未来は希望に満ちているのではありませんか。あなたのような人は、新しい時代にとって必要だと思います。」

と言って励ますと、背筋を伸ばし凛とし、

「ありがとうございます。」

といって、一礼した。

新宿駅に着くと、空襲の被害が色濃く残っており、駅舎はバラック小屋のようであった。トタン屋根のプラットホームの下には国民服を着て風呂敷やリュックを抱えた人々でごったがえしていた。青年将校は次郎に深々とお辞儀をした後、足早に雑踏の中に消えていった。
次郎も列車を降りると、ごったがえした人々を縫うように山手線のホームに向かった。すると、晴れ渡った空から甲高いエンジン音が聞こえてきた。次郎がよく知っている火星二三型のエンジン音だった。空を見上げると、すでに機体の姿は見えなかったが白いビラが雪のように落ちてきた。そしてその一枚が次郎の足元に着地したので拾い上げると、紙面には、

「全国赤子ニ訴フ 陸海軍ハ徹底抗戦ス 一億国民ハ 我等ニ続クヲ信ズ ヤガテ内外蝦夷ノ御大詔ハ渙発セラルベシ」

と、記してあった。次郎は息をのみ愕然とした。そして、先ほど出合った青年将校の話を思い出しながらこの悲惨なる状況を見渡し思った。

「今こそ誠心英知の政治家よ、出でよ。」と。

「風立ちぬ」 君さりし後 12

2014-08-19 12:48:20 | 日記
「・・・私がこんな事を言うと矛盾しているように思われるかもしれませんが、米軍の空爆を目の当たりにして、人間と言うものは此処まで非情になれるものかと思いました。市街地にガソリンの雨を降らした後に焼夷弾を落とすという攻撃は効果的な攻撃であることは分かりますが、武器も持たぬ民間人にも多大な被害が及ぶことも十分理解できたでしょう。そして、おそらく、彼らにとっては予測通りに被害を与られたのだろうと思いますが、しかし、街の風景は地獄絵図そのものでありました。一面に漂う人間の焼けた匂い、丸焦げになって並べられたご遺体を見て、これが作戦上の予測というならば、鬼、畜生の仕業でなければ出来ない事だと思いました。」

次郎は時頼頷きながら青年将校の話に耳を傾けた。

「その光景に怒りを覚え、米国を憎みましたが、しかし、我々も・・・。我々も、八紘一宇という思想の下、その思想の道理を忘れ、此処まで残忍ではありませんが諸外国の民に対して非情な行為を行ってきた現実があることを棚に上げて米国を一方的に批判することは出来なのではと思ったのです。」

「・・・。」

「そこに疑問に思った私は、戦争が人の命と引き換えに何をもたらすのか、改めて考えました。しかし、すべては机上の空論。私が考えている間にも、どこかで人が個人的な理由もなく殺し合っているのです。それは国が命令しているからにはちがいないのですが、末端になればなるほど、統制が図れなくなり、何をしているのか分からない状態になっているのです。もし国というものがそこで暮らす人々の幸せを願っているのであれば、国土を護る為なら、軍や政府は戦争などせず、解決する方法を取るべきなのではと考えたのですが、それを口にした所、相手にされないどころか日本国民であり帝国軍人であるにもかかわらず非国民扱いをうけました。格律は普遍的法則として役立つかのように行為しなければその意味をなさないはずなのですが、人間が硬直してしまった士官の仲間や上官は意気揚々として好戦的姿勢を崩しませんでした。」

青年将校は実直で真面目であった。その真面目さが彼を苦しめている事も彼の発する言葉から伝わって来た。

「風立ちぬ」 君さりし後 11

2014-08-18 08:20:29 | 日記
始発を迎える駅舎には駅員以外の姿は見えなかった。次郎は新宿ゆきの切符を買い、しんとした駅舎の中の椅子に座り列車が来るのを待った。定刻が迫って来ると遠くの方から汽笛の音が聞こえ、蒸気機関車が煙を吐きながらプラットホームに入ってくるのが見えた。次郎は立ち上がり改札で切符を切ってもらうと、駅員に「ありがとう。」と言って軽く会釈をし、ホームにでた。

汽車が定刻通りに到着し、停止位置にピタリと止まると、次郎は日本の鉄道の素晴らしさに感心しつつ客車に乗り込んだ。車内の人影はまばらであったので、中ほどの窓際の席に腰掛けると、田園の向こうに何度も通った飛行場が見えた。
警笛が鳴り、蒸気を吐き出す大きな音と共に汽車はゆっくりと走りだし、田園の中を黒い煙を吐きながら加速してゆくと、車窓から見える飛行場がどんどん小さくなってゆき、やがて視界から消えていった。自然豊かな景色をぼんやり観ていた次郎は、不意に、もうこの地を訪れる事はないだろう思った。

塩尻駅から新宿へ向かう中央線の汽車に乗り換えると幾分か多くの人が乗っていた。それでも昨夜寝付けなかったせいもあってか、揺れを感じながらいつの間にか深い眠りについてしまったが、高地とは違ったじっとりした空気に目が覚めると、車窓から見えた風景に次郎は愕然とした。

列車は八王子駅を出た所であったが、窓から見える景色は辺り一面焼け野原と化していた。「こんなに酷いとは・・・。」と、驚いていると、隣に座っていた陸軍将校の制服を着た青年が次郎に向けて「驚いているようですが・・・。 」と、尋ねてきた。次郎は戸惑いながら、

「ええ。空襲があったと聞いてはいたのですが、ここまで酷いとは・・・。」

と、答えると、青年将校はためらいながら切々と話しだした。

「風立ちぬ」 君さりし後 10

2014-08-17 06:14:59 | 日記
その晩、次郎は寝付く事が出来ずに朝を迎えた。もう飛行機の事は考えなくてもよいと理解しているつもりであったが、頭に浮かぶのは新しい機体や翼面の構想でばかりであった。
次郎は、手際よく支度を済ませると、5か月という短い期間にもかかわらず家族のように接してくれた夫婦に別れの挨拶をし、駅からほど近い借家で暮らしている黒川宅へ向かった。
黒川は次郎の才能を見抜き、設計主任へ押した上司でもあり、奈穂子がサナトリウムを抜けだして来た時には、奈穂子の世話や無理を言ってあげた挙式では介添えを引き受けてくれるなど、公私にわたった恩人であった。

玄関の引き戸を静かに開け、ひかえめな声で「おはようございます。」と、言うと、奥から「はーい。ただいま。」声が聞こえ、茶褐色の着物を着た黒川夫人が出てきた。

次郎は黒川夫人と対面すると、改めて、「おはようございます。」と挨拶した。すると夫人は少し驚いた様子で、

「あら、堀越さん。こんな朝早くからどうなさったの?」

と、言うと、次郎は恐縮して、

「早朝からすいません。実は実家に戻ろうと思いまして・・・それでご挨拶にやってまいりました。」

と、弁明した。

「あら、実家にお帰りになるの? また、急ですわね。それで、何時の汽車で帰られるの? 」


「始発です。」

それを聞いた夫人は慌てた様子で、

「始発って、もうあまり時間が無いじゃないですか。ちょっと待ってください。主人を呼んでまいります。」

と、言うと、「あなた!」と言いながら小走りで奥へ向かって行った。すると奥の部屋から「なにごとか。」と、言う声が聞こえてきたかと思うと、黒川が部屋から飛びだしてきて、はだけた浴衣を整えながら玄関に歩いてきた。

「一体、こんな早朝からどうした。」

と、黒川が開口一番に言うと、次郎は恐縮しながら、

「すいません。実は実家に帰ろうと思いまして。ご挨拶にやってまいりました。」

と、言って一礼をした。黒川は少し驚いたが、今の次郎の気持ちを考えると、それが一番良いと思った。

「・・・そうか。帰郷するか。」

「はい。」

「それで、実家は無事なのか? 」

「ええ。何もない田舎ですから、空襲はなかったようです。」

「それはよかった・・・。奈穂子君の方は無事なのかね。」

黒川はそう言った後、不味い事を聞いてしまったのではないかと思ったが、次郎は奈穂子の家族の事も考えており、

「奈穂子の家族とは葬儀以来、手紙のやり取りを数回しただけなので、実家に帰る前に奈穂子の家に寄って安否の確認をしておこうと思います。」

と、明快に答えた。黒川は大きく頷き、

「うん、それがいいだろう。」

と言って、次郎に迷いがない事を察したと同時に、苦楽を共にしてきた次郎との決別の時がやってきたのだなと思った。

「今まで軍部の命令とはいえ、仕事とはいえ、無理を通してもらって済まなかった。」

黒川はそう言って頭を下げたが、次郎は、

「いえ・・・。僕は純粋に飛行機を作る事が夢であって、悲惨な結果であったけれども、夢に没頭できたこと、そのチャンスを戴けた事は本当に幸せだったと思います。」

と、黒川へ感謝の気持ちを述べた。それを聞いた黒川は少し涙ぐみながら、

「いつか、また、一緒に仕事ができる時が来る事を祈っている・・・。それまで達者でやれよ。」

と、次郎の健闘を祈った。傍にいた夫人も、声を上ずらせながら

「堀越さん。奈穂子さんによろしく伝えておいてくださいね。」

と、言うと、次郎は姿勢を正し、

「今迄ありがとうございました。お二人もお元気で。」

と、言って深々と頭を下げた。次郎は黒川宅を出ると、黒川夫妻も玄関を降り次郎を見送った。駅へ向かう道を歩んでいた次郎は、もう一度振り返り、手を振る黒川夫妻を見ると、軽く頭を下げ、「さようなら。」と言って再び歩き始めた。