硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

体罰は是か非か。 とりあえず完結。

2013-01-31 18:49:31 | 日記
体罰は是か非か。 この問題について長々と考えてきたけれどどうもすっきりとしない。

体罰自体は非であるけれど、そこに「愛情」やら「熱意」やら「情熱」という気持ちが非言語で盛り込まれているのだからややこしい。そして、それは生徒の為、選手の為、学校の為、等々・・・。理由はいくらでも後付けできるであろう。

大切なのはその瞬間であり、後に回想してからの気持ちでは取り返しがつかない事はこの出来事で実証され、その事により厳しい指導が私への叱咤激励であると思う事が出来るのは、精神的に成熟していないと無理なんじゃないかと思ったのです。

精神的に成長する事。このテーマは考えれば考えるほどよく分からないんですね。

究極的には、実生活の中で「赦し」「我を捨てる」等々、神仏の心境へと我が身を至らせる事なんだとは思うけれど、そんな境地に誰もが到達できるわけがない。 それは過去の賢者が実証しています。

もちろん、叱咤激励する側に対してもそれが要求されるでしょう。それは「自身の思うように人が動かなくてもけっして怒らない」という事であるし、怒らずして行動や考え方を改めさせる事が精神的成熟の境地ともいえるでしょう。

もしもそれが今回の出来事の改善の目指す到達点だとしたら、先に指導する側の人達が、成熟しなければならず、その後自身の至った境地へ導くことが順序としては正しいのではないかと思う。

言うは易し行い難しではあるけれど、でも本気で体質を立て直そうとするならば、避けては通れない道程であると思う。

扱う事物が製品の管理ではないので、結果として効果がでるのは随分後になると考えられるし、この道程で苦渋を味合わなければならない人も沢山いるのではないかと思う。

しかし、その結果その場の感情に任せた体罰や暴言がなくなり、選手や生徒が伸び伸びとプレーできる環境は理想ではあるけれど、自主的に組織的に規律が保たれ、自然に競技者としての自覚が養われてゆくのかと思うと疑問が残る。

その事で自主性が育まれることはよい事であるけれど、社会に出た時、自主的な主張が悪い方向に出れば社会と自身の解離性に苦しむのは本人である。

そこを踏まえて考えるならば、先行者がいかに後続者に上手く伝えてゆかなければならないかが問われるのではないかと思う。

人生はクラブ活動や競技生活を終えた後でも続くのであるから、その時の経験が後の人生にとってよい経験、善い思い出、善い教訓、となるようにせねば、その活動の意味が無くなるのではないかと思う。

人は、その時、その場所を重視する傾向があるけれど、人の人生に関わる問題を扱うには長い時間軸で物事を観てゆかなければ、本当の解決に至らないのではないかと感じるのです。


体罰は是か非か。 その8

2013-01-30 20:42:18 | 日記
日本柔道女子選手の方が連名で監督の指導について、JOCに訴えた。

問題は昨年から提起されていたが、メディアに対しては、今ここしかないというタイミングであるように思う。

オリンピックを目指す選手が「このままではいけない」と行動に移した勇気は本当に素晴らしいと思います。
この事で選手生命を断たれるリスクが大きい事を分かっていての行動なのですから。でも、時代を切り開いてゆくのは、その時代の「異端」である。


今回の出来事は、「競技指導での体罰は是か非か」という問題に対して、かなり明確な答えを導き出していると感じました。

それは競技の頂点を目指すアスリートが、指導に対して疑問を感じ行動に出た事は、つまり、「選手」の意見として体罰は「非」であり、競技を続けていくうえでメリットがないと判断した結果なのだと思う。

たしかに、競技を続けてゆく上で勝つためのモチベーションを保ち続ける事は大変難しいし、人間なのだから時には手を抜きたい日やどうしてもやる気が起こらない日もあるだろう。でも、そこで駄目になってゆく選手はそれまでであるだろうし、それでも選手の秘めたる才能を引き出したいと思うならば、手段を変えなければよい結果には結びつかないと思う。

このような問題が明らかになる傾向というのは、従来のような指導方法は消費期限切れに近いご時世になってきたという事ではないでしょうか。

その道で生活してゆこう腹を据えているひとならば、どんな困難でも乗り越えてゆこうとすると思うけれども、才能があるけれどメンタルを折られてしまう人に対しても一辺倒な指導方法なら才能の芽を摘むことになる。

「人材はいくらでもある。」たしかにそうかもしれないけれど、競争の世界において、一線に立てない人を繰り上げでエントリーさせてもそれは勝利から遠ざかるだけではないだろうか。

もし前者が辞めたおかげでその人の才能が開花したならば、それは指導者がその人の才能に気がつかずに埋もれさそうとしたということである。

そう考えるとスポーツ界での指導、選手育成は本当に難しいし、結果が重視されるのであればなおさらである。

しかし、どんな時代でもどんな環境でも、選手が指導者を信頼し、師と仰ぐならば、自ら命を断とうとは思わないし訴え出ないと思うのです。




体罰は是か非か。その7

2013-01-29 08:48:16 | 日記
フジ系列の「とくダネ!」を観ています。 橋本市長とキャスターの熱い議論が続いています。

橋本市長の論理も然りであるし、キャスターの論理も然りである。

止揚には至らないであろうけれども、時間は未来へと流れている事は事実である。

負の連鎖を断ち切る事、しがらみが多いなかでの組織の再構築、当事者の意識改革。

自己の理性を顧みる事すら難しいのだから、大変困難な道のりである。

生徒一人一人の気持ちを考えれば、今までの流れを継続させ指導する側が気持ちを改めればよいだけである。

しかし、人間そんなに簡単に変われるものではないし、変われるものであれば最初の報告で問題は解決されているはずであろう。

事が大きくなれば、事の本質を見失う。それに伴って被害を受ける人も増えてゆくはずであるから、学校にかかわる大人たちは、重々配慮しなければならないと思う。

報道の傾向に、亡くなってしまった少年の気持ちよりも、今現在を生きている少年少女の気持ちに重きを置く事を望んでいるように見えるのは僕だけであろうか。

大人なたちのエゴは、いずれ大人になる少年少女たちが継承する傾向が強い。

そう考えると、構造改革や教育改革といった仰々しい目標ではなく、まずは大人が謙虚になることから始めなければならないのではないだろうか。

とても遠回りかもしれないけれど、此処から始めなければ何も変わらないと思う。







これも時代の流れというものなのかな。

2013-01-27 20:39:01 | 日記
随分昔。休日のお昼によく行っていたうどん屋さんがあった。 そのうどん屋さんは店は小さいが、そこそこの値段で美味しく、お腹いっぱいうどんが食べられたので、平日のお昼時や夕食時は随分繁盛していた。僕はなるべく込み合う時間帯を避けてカウンターに座り、注文したうどんが来るまでおじさんがよく読む雑誌に目を通すというスタイルなんだけれど、当時ははじらいがあったので書店では立ち読みしにくい雑誌でも、うどんを食べるという大義名分を盾にじっくりと読めるという楽しみもあった。
もちろん当時付き合っていた彼女にもよく一緒に食べに来たけれど。さすがに彼女がいるときは読まなかった。(笑)

時代が移り変わってゆくにつれ、その小さなうどん屋さんの通りにも多くの飲食店が建ち、現在までに店舗が入れ替わったり、現在は更地になったり飲食店ではなくなったりしたお店もあるけれど、その小さなうどん屋さんは変わらずにその姿を残していた。

僕がその小さなうどん屋さんに行かなくなったのは、一人暮らしのアパートを引き払い、実家へ戻ったからであるが、そのお店の前を車で通る度、「ああまだやっているんだなぁ」と感心していたのです。

しかし、時代は留まらない。一昨年その通りに全国展開をしているチェーン店のうどん屋さんがオープンした。

現在僕は小さなうどん屋さんへ一緒に食べに行っていた彼女ではない女性と結婚し、妻とはチェーン店の方へ食べに行った。理由は安くて早くて旨く、妻も好きだからなのだけれど、なぜだか妻とはそのお店には足を運ぶ気にはなれなかった。

そして、つい最近その通りを車で通る機会があって、うどん屋さんまだやっているのかなぁと思って流れる景色の中を見ていると、解体業者の人達がお店を解体している姿が目に入ってきた。

おもわず「あっ」と声が出てしまった。そして、心の奥にチクッとした痛みを感じた。

色々と頭の中に浮かぶ。でも、これが資本主義という経済の姿であることは受け止めなければならないのかなと自己完結する。

本当に勝手な感情だなと自身でも思うのだけれど、あの味を味わう事はもう出来なんだなと思うと少し淋しい・・・。










体罰は是か非か。 その6

2013-01-26 15:34:07 | 日記
亡くなった少年の両親が、顧問を告訴したという。

クラブOBの中には、処罰の軽減を願う人がいるという。

真実はどこにあるのだろう。

しかし、人が一人命を落している。その事実は変わらない。したがって、どうしてこうなってしまったかを考えなければこの事件は解決に至らないと思う。


顧問が指導者として優秀であるのであれば、今までの指導方法が亡くなった彼にも当てはまる有効手段であったと考えるのはあまりにも短絡的ではなかっただろうか。

彼は彼なのだから、日ごろの様子から「このやり方では駄目かな」と、自身で点検する必要性を考えなかったのだろうか。

また、辛いという訴えが事前にあった。これも事実である。辛い事は耐え抜けというロジックも無くもないとは思うけれど、時代が人がそういうロジックを受け止め続けられるとは思いがたい。

そう考えると、これは大人たちの「過信」から生じた悲劇ではないだろうかと思う。

人の過信は時間や場所を問わず時々悲劇を招く。歴史がそれを証明している。


問題が此処まで拗れてしまっては、事態の収拾もつきにくいと思う。

したがって、この大人の過信から生じた事件は多くの様々な犠牲を払うことでしか解決しないのだと思う。

彼の未来はこれからだった。可能性も無限である。それなのに自殺だなんて。

生き続けたいと思っていても、運命的に生きられない人もたくさん見えるのに・・・。

本当に悲しい出来事である。







体罰は是か非か。 その5

2013-01-23 20:59:08 | 日記
自殺してしまった少年が、生前、顧問に自身の気持ちを訴えようと手紙を書いたという記事を読んだ。

しかし、他の部員からの忠告を受け、手紙を渡さなかったという。

仲間であったはずの人達から、「それはまずいんじゃない」と言われたのだとしたら、その時の彼の孤独感はどれほどのものであったのだろう。想像すると胸が痛む。

仲間はきっとこの手紙が顧問にわたったら、自分たちにも被害が及ぶであろうと心のどこかで思ったのではないだろうか。

もし、仲間が「仲間」であったのなら、キャプテンが受けている理不尽を改善するように、彼に協力したはずである。それが「仲間」であり「チーム」なのだから。

彼が不当な体罰に耐え、部活をやりきったとしても、このチームはいい結果を残せなかったであろうことは想像できる。

勝とうという気持ちは、仲間との繋がりがあってこそ初めて勝利につながる。パスを出すパスを受け取る。シンプルなプレーであるけれど、そのパスを次につなげてくれるであろう事を前提にパスを出すのだから、信頼が置けないものにたいして、パスを出せるわけがない。もし、信頼していれば、次につながらなくても頭で考える前に必死でフォローしようとするはずである。

それが本来のチームプレーであると思う。 個人技で勝利を持って行けるのは一握りの才能を持った持ち主によってもたらされるものである。そういう人材が部員にいたのならば、体罰なんてなくても全国大会へ行けるはずである。

勝利を目指しともに頑張っていた仲間が仲間でないと分かった時の絶望感、無力感が追いつめれれていた彼の精神を取り返しのつかない方へおいやったのだと思う。

もし、この妄想が真実に限りなく近いならば、なんと悲しい出来事であろうかと思う・・・。







体罰は是か非か。 その4

2013-01-22 20:27:11 | 日記
今日のニュースを見て驚いた。 学生さんがメディアに対し公式に意見を述べていて、しかも市長との対談後であるという。

彼らが彼らの想いを語る事は悪いことではないと思う。しかし、在校生全体の意見ではないので彼らの言葉が全体の言葉であると捉えるのは早合点であるような気がします。

また、学生と市長の言葉のみがニュースで流れては、味方によれば「市長vs生徒」の図式として捉えられてしまう。

これでは生徒たちの純粋な意見を聴いた視聴者の多くの人は橋本市長に嫌悪感を抱くのではないだろうか。

今回の問題は市長や生徒の問題ではなく市教委や学校側の対応の悪さが原因であり、問題に対し誠実に対応していれば防げた事件だったと思う。

彼らが自主的に組織を立ち上げ対談と記者会見を行ったのなら、彼らの行動力に敬意を表したいけれど、果たして本当に彼らが自主的に行った事なんだろうか。 この一連の流れに大人が加わっていたとしたら、彼らの純粋な気持ちを利用したと捉えることもできる。もし、それが事実ならばひどい話である。

市教委は市長の意向に沿う判断を下したようであるけれど、納得していないと思う。そう考えると問題の根本は解決せぬまま、時間とともに薄れてゆくのだと思う。

本当に生きにくい世の中だなぁ。でも、世の中とはそんなものなんだよねぇ。

ため息が出ちゃうよ。








放火と殺意。

2013-01-18 19:26:53 | 日記
同業者としてとてもショッキングな事件だった。施設はホスピスで被害者は高齢でほぼ寝たきり。

加害者の女性は「人間関係のストレス」「動機は一言では言えない。」「殺意はなかった。」と、述べている。

なぜだろうか。とても違和感を感じる。

女性は21歳で介護福祉士である事から、専門学校を経て今の職に就いたと考える。とすると社会と関わりをもった最初の場所でもあっと思う。

そのように仮定して、まず考えるのは「人間関係のストレス」である。人間関係のストレスは、社会に出たならば誰もが通らなければならない。また、介護職は人を相手とする職業であるのだから最初からそのストレスと対峙してゆかなければならないという事は分かっていたはずである。彼女はそのあたりをどう考えていたのだろうかと考えるが、その問い方が間違いなのだと思う。

高校を卒業、もしくは専門学校を卒業する処までが彼女のリアルだったのだろうと考えるのである。
もし、彼女自身に「福祉職に就く」という明確な目標があったのならば今回のような事件には及ばないはずである。なぜなら、福祉職という職業をよく理解したうえでエントリーしたのだから。

それでも「人間関係のストレス」というものに押しつぶされそうになったとしても、福祉職を理解しているならば「退職する」という発想があったはずである。でも、退職せずに利用者の命を奪う行為に及んだという事は彼女には大切な処が欠落してたといえる。いや、最初からなかったのである。 とりあえず専門学校に行き、とりあえず施設に就職し、よく分からないまま働きだし、学生時代のように自身の思うように事が進まない事にいら立ちを募らせたのだと考える。

最初から目標が希薄な少女をエントリーさせた職場も、彼女が成長過程の最初の一歩である事を十分認識し、丁寧かつ適切に愛情を持って少女の歩幅に合わせて成長を促さなければならなかったが、きっと、職員一人一人が自身の事ばかりを優先して「わがままな少女」に対して配慮する気持ちの余裕がなかったのではないだろうかと考える。少女はまだまだ「甘えたかった」のである。そこをよく理解しないで雇用し、上手くなじめないからと言って突き放してしまったら、少女にとっては「ストレス」となるであろう。そんなストレスフルな職場においても、少女が仕事を辞めなかったのは「貨幣を得る手段」が他に知らなかったからであると考える。学生時代を自由奔放に過ごしてきた少女が辿る悲しい結果である。


終末期の施設であるから、死を前にして不安になられている利用者もいらっしゃるであろう。だから、時には職員にも辛く当るだろう。辛く当られれば腹も立つし、やり切れない思いになるだろう。「一言では言えない動機」とは上記の事と合せて出来上がってしまった感情ではないかと考えるのである。

そして、「殺意」である。

もし、殺意がなければ、自力で逃げる事の出来ない人の布団に火を放つ事などしない。単に放火という行為でストレスを発散させるならば、それこそ施設その物や自転車や自動車。通勤途中の公共施設や個人の家でもよかったのである。

でも、少女は火をつける道具を手にし、ピンポイントの場所に火を放った。それは誰でも、どこでもよいという事ではないという裏付けである。

そう考えると被害者に対し悪意が少女の中に宿った瞬間が必ずあるはずである。それが今までに蓄積された不満という装てんされた銃弾のトリガーを引いた原因であると考える。殺意は本人の無意識下で芽生えたのだと思う。

人生の終末を施設で終える社会。世の中がそれを希求している以上、それに応える社会的資源は必要とされる。しかし、社会保障制度という公金で賄われていて、しかも生産性がなく消費する事が主で利益の出ない事業に、政府が力を入れるはずがないのである。そんな構造だからこそ心が問われるのであるけれど、心を育てる気もない事業ならば、今回の事件は起こる事が必然であったように思うのです。

同じ介護福祉士として、少女と同じような悪魔がいつ心に宿るか僕自身にも分からない。でも、神と共に歩んでいるならば、常に神を忘れなければ、心強く過ごしてゆけるのではないかなと思ったりもするのです。





クリムト展。

2013-01-17 20:17:11 | 日記
愛知県立美術館で開かれている「クリムト黄金の騎士をめぐる物語」を鑑賞してきました。

クリムト展を鑑賞するのは2回目。以前はよく分からないまま話題性というだけで観たのですが、今回の作品展は心から楽しめました。

この作品展で感激したのは、当たり前の事なんですけれど、作品の時代背景や友人や師等によって表現が変わってゆく苦悩の足跡がなんとなく分かるようになってきた事です。(笑)

絵画を鑑賞する方法は人それぞれであるけれども、年譜を観ながら時代背景を考え、作品がどういう表現を持って描かれたのかを自分なりに考えてみるという「気持ちの余裕」が僕にもようやく出てきたように感じます。

美術を学術として学んだ事がないので、只の鑑賞者でしかないけれど、様々な展覧会を見続けているとそれなりに力も付いてくるんだなぁと鑑賞後に思ったりもしたのです。

成長は他者と関わることでしかできないんですね。クリムトさんの作品はそれを教えてくれたように思ったのです。

体罰は是か非か。 その3

2013-01-16 09:11:59 | 日記
その処遇をめぐり、橋本市長は同校の一部の入試枠を中止する事の検討を公の場で発表した。

此処でもそうであるが、一番の被害を被っているのは子供たちであるという事。

なぜ、子供たちの気持ちを迂回して物事を考えてゆくのだろうか。

たしかに、体制が整わないまま何事もなかったように物事を例年どおりに推し進める事は責任を放棄したことになる。少年の命が亡くなっている事を重んじていればそんな事があってはならないと考えるのは自然である。

しかし、体制が崩れていたとしても立て直しつつ前に進む事が、熟練者の持ち味ではなかろうか。

失敗は誰にでもある。熟練者にだってあるはずだから、熟練者にも伸びしろはあるはずである。

大人であるならば、そこをよくよく考えなければならないと思う。

なぜならば、熟練者であるが故に陥る落とし穴もあるからである。

それは、自身の保身のために、失敗を失敗と捉えない事。問題を問題として捉えない事である。

そうなると、致命的である。自身自ら伸びしろ断ち切ってしまう行為は、同じ過ちを繰り返すことにつながる。

悲しい出来事が、未来に向かって繰り返されてゆくのである。

だから、当事者たちが、当事者たちの手によって、そこを断ち切る事が重要なのであって、人を変えれば解決という易しいものでは問題の根本を解決したことにはならないと思う。

したがって、部活の顧問をされていた方は、教員を辞めてはならないと思う。自身の襟を正し体罰という手法を抜きにして信頼を得ていくことが彼が出来る亡くなった少年への罪滅ぼしなのではないかと思うのです。




体罰は是か非か。 その2

2013-01-14 17:19:31 | 日記
多種多様な人間の集団の統制を図る場合、恐怖という方法はその手段の一つである。
恐怖を与える者が恐怖を与える行為の中に愛情や思いやりという感情が宿っていると思っていても、恐怖を受け取る側にはその愛情や思いやりを受信できるとは限らない。そこに思考の落ち度がある。教育者であるならばこのズレに気づいていなければ、自身者にとってそれは只の暴力行為でしかない事を意識しなければならなかったはずである。

配慮のない体罰はどんなに飾ろうとも、暴力行為でしかない。

体罰を持って統制を図ろうとするならば、それこそ信頼関係がそこに築かれていなければならない。
その事について顧問はどう思っていたのだろうか。結果を出している。それが=部員との信頼関係の証であるとでも思っていたのであろうか。人間の感情は複雑である。もしそう思っていたならば大変な驕りであったとしか思えない。

結果は目標として必要であるし、努力する為のモチベーションもある。達成した時の幸福感や努力しても目標を達成できなかった時の挫折感を多感な時期に体験しておくことは大切である。しかし、多感な時期だからこそ、些細な事によって歪みが生じてしまうことを予測しておくべきであったと思う。もし、学校の知名度を上げる事が結果の最大の目的であったなら、ビジネスであったらまだしも、本来の目的から逸脱しているように思われる。

そう考えると、彼の周りにいた大人と呼ばれる人達、彼の様子に気づいても口に出せない雰囲気を作り出していた者たちは、彼がそこまで追い込まれている事に気がつかないのも頷ける。

なぜなら、大人たちが大切だったのは、彼の人生ではなく、私達の職であったからなんだろうと思うのです。

自身の職を大切に思うのは自然であるけれど、他者を犠牲にしてまですることであろうかと考えるのです。

そう思うと問題の根はかなり深い。

体罰は是か非か

2013-01-13 16:26:05 | 日記
ニュースや記事に触れる度、どうして自殺せねばならなかったのかという思いが頭に浮かぶ。

部活のキャプテンという位置が彼にとって重圧だったのだろうか。死よりも部活を辞めるという選択はなかったのだろうか。部活を辞めれば顧問から卒業まで罵られると考えたのだろうか。そこまで顧問は歪んだ人間だったのだろうか。OBには善い先生であったという声もある。それならば独裁的な人格でもなさそうである。ならば、顧問は彼ならこのくらいの試練(体罰)を超えてゆけるだろうと思っていたのだろうか。そんな彼の思い込みが少年を死に追いやってしまったのだろうか。

体罰は世の中の仕組みをよく理解できない子供たちに対しての最後の禁じ手であると思うが、彼の心身が衰弱してしまうほどの体罰を加える素行的問題があったのだろうか。そういう証言は見当たらない。ならば、その体罰は非である。

しかし、高校生なら人生はこれからである。部活を辞めたとしても、学校をやめたとしても、生きていれば楽しい事もあると教えてあげる事を出来る人が周りにはいなかったのだろうか。

そう考えると、彼を追い込んだきっかけは部活の顧問であるけれど、本当にそれだけだろうかと思ってしまう。

また、結果を残す顧問だからと言って、問題を問題としなかった学校側にも疑問が残る。

「それは間違っていませんか。」と言えない環境を作り出す事が学校にあっていいのだろうか。

学校はビジネスではない。子供たちを育てる場である。
なにか、間違っていないだろうか。

橋本市長は本格的に改革を行うという。彼の発言にはすべて同意できるわけではないが、どうか子供たちの未来が明るいものとなるように改革してほしいと思う。

とかくにこの世の中は生きにくい。社会に出れば一層その事を思い知らされる。学校での教育や家庭での子育ても、一昔前にくらべればより複雑になってしまったのだろうか。

それとも生活が豊かになる事の引き換えが人の精神を蝕んでゆくことなのだろうか。

その答えは、日本の総人口の減少という形で表れているように思う。




トイレで除夜の鐘。

2013-01-05 17:18:08 | 日記
昨年の31日。寒空の下家の大掃除がひと段落した午後から体調が崩れ、紅白歌合戦が始まるころには床に就いた。悪寒と吐き気を伴い、おまけに背中も痛いので布団の中でうんうん唸っていた。吐き気をもよおすたびにトイレに行っていると、トイレの前で除夜の鐘を聴いた。

「今年はどうなってしまうんだろう」

そんな不安も感じながら吐くものが無くなると、身体が落ち着いて再び床に就き、うとうとしているうちに朝を迎え、元旦より職場へ。微熱がある事に気づくも仕事のフォローをしてくれる体制ではないので体に鞭打ち解熱剤を飲みその日をやり過ごすも、帰宅と同時にダウン。水分補給とトイレに行く以外は睡眠。不思議なものでなにも考える事も出来ず、目を閉じれば自然に睡眠へといざなわれた。3日目の朝ようやくおかゆがのどを通る。しかし、テレビも新聞も観る気力が起こらない。大みそかから3日のお昼まで世の中の情報を一切知らないまま過ごしていた。その夜ようやく頭の中で考え事が浮かんだ。健康な時は日常の煩わしさに苦しみ、世捨て人になりたいとまで思うようになるが、身体が此処まで弱ると身体が善くならないかなと思ってしまう。

人間とは随分勝手なもので、その時の気分で考え方がぐらぐら揺らぐ。世捨て人になりたいくらいならこのまま身体が悪いままの方がいいではないかと思うのであるが、そうではなくて回復を望むのである。

健康な時はなるべくたくさんの事を知っておきたいと思う気持ちも、病弱な身体時はそんな気も起らない。むしろ無知のままでよいと思うほどである。

僕は弱い。僕は何も知らない。だだそれを痛感したお正月だった。