硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「風立ちぬ」 君さりし後 8

2014-08-15 07:56:46 | 日記
松本での次郎は会社の紹介により、三菱銀行に勤めている男の一家の部屋を間借りしていて生活していた。家に着くと、髪を後ろで結ったアッパッパ姿の夫人が、「おかえりなさい。」と言って出迎えてくれた。

「ただ今戻りました。」

「ご苦労様でした。お食事はどうなさいますか。」

そう尋ねられると、腹が空いていたことを思い出した。

「おねがいします。」

「では、さっそく準備しますから、座敷でお待ちになってください。主人もおりますので。」

「はい。では。」

次郎は返事をすると、疲れた足を引きずるように自室に戻り、シャツを脱ぎ、手ぬぐいをとると、ランニング、ステテコ様になり、下駄に履き換え、井戸に向かった。
ポンプで水をくみ上げると、信州独特の氷水かと思わんばかりの冷水を手ですくい、乾いたのどを潤し顔を洗った。そして手ぬぐいを水にさらし両手で絞って煙の臭いが染み付いた身体を拭いていると、座敷の奥で新聞を読んでいた主人が縁側まで出てきて、

「いやあ、お帰り。今日も徹夜でしたか、ご苦労様でした。ところで次郎君。昨日からラジオで何度か重大な放送があるといっていたが、何かご存知かな。」

と、尋ねてきた。次郎は知っていたがあえて言葉にせず手短に、

「いえ。なにも存じ上げません。」と、答えた。

すると主人は「そうか、君なら何か知っているかと思ったのだが・・・。」

と残念そうに言ったので、次郎は申し訳なさそうに、

「すみません。」と謝った。

たらいにためた水で手ぬぐいを洗い、絞った後、しわをきちんと伸ばし物干し竿に干して、部屋に戻り着替える頃には、正午を迎えようとしていた。座敷に行くとラジオの前で夫婦が正座をして放送を待っていた。次郎は主人の横に静かに正座し、夫妻と共にラジオを見つめた。

正午になると放送員が国民に向けて起立を求め、つづいて陛下自らの勅語朗読である事が説明され、君が代が流れた。

「これは、どういうことですか。」と夫人が小さな声で尋ねると、主人が

「黙って聞いていなさい。」と、小さな声で諭すと、ラジオから聴き取りにくい音ではあったが、陛下の沈痛な御声が聞こえてきた。

「朕深ク、世界ノ大勢ト、帝国ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ、時局ヲ収捨セムト欲シ・・・」

次郎も夫妻も、万感胸に迫り、あふれんばかりの涙をこらえ、陛下の詔勅を聞き入っていた。放送は5分弱ほどではあったが、とても長い時間のように感じた。