硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

葛藤の日々

2013-05-31 12:30:02 | 日記
新聞を読むとき必ず目に通すのが地方版の「事件事故」の記事。なぜだかわからないが、知らぬ間に此処だけはしっかり読むようになっていた。

今日も目を通ししばらく考える。人は成長できないものなのだろうかと。

今日の事件は80歳の男性のストーカー事件から50~40歳代の飲酒がらみのトラブル、30代の淫行事件まで様々であるが、どれも少しばかり自制すれば発生しなかった事件である。

でも、衝動を抑える事が出来ず、自身の心の動きに対して素直に行動したのである。皆、そこそこに生きてきたいいおっさん達である。なぜだろうか。心が頑ななのであろうか。

素直に生きていると言えば聞こえがいいけれども、他者に迷惑を掛けてまで素直に生きる事はよい事ではないように思う。

感情に流されず耐える事は、損をする事が多い。反する意見をもつ対象に腹を立てず気持ちを受け入れる事は大変困難である。

なかには、道を踏み外す気持ちも分かる事件もあるけれど、踏み外す前に自身の中で葛藤し批判しなければ生きている意味に意味を持たせることができないのではとも思うのです。

答えはないけれども、明日も目を通し、考え、思い、自分ならどうであるかを吟味しようと思います。


不変性をみる。

2013-05-30 09:23:58 | 日記
東海地方の夕方のテレビ番組で「水戸黄門」の再放送がされている。小学生の頃学校から帰ってきたらおばあちゃんと一緒によく観ていた記憶がかすかに残っていて懐かしい。

あの頃はよく分からないまま観ていたけれど、なんとなく観ていられたのは善が悪を倒すというシンプルなストーリ展開が面白かったのであろう。

しかし、此処にも新たな発見を観る事になる。

まず、セリフの奥深さに驚いた。そして、素直に感動したり、思わず目頭が熱くなったりするのである。

もちろん最新の水戸黄門も時々観ていたけれども、ここまでの感動はなかった。

もちろん、つまらないわけではなく十分楽しめていたのだけれど、何かが違う。僕が年老いたからかもしれないけれども、それだけが理由でもない気がする。

そうなるとどうしても気になるんですね。で、いろいろと調べて観ると興味深い事が分かった。

まず、製作総指揮者が松下幸之助さん。ビックリです。そして、監督さんや葉村彰子なる脚本家軍団等、そこに携わっていた人達が凄い人たちの集団であった。

どうりで、感動するはずです。しかも、彼れは「大人から子供まで楽しめるもの」というテーマで創造していたというのだから、僕は年月を通して彼らの狙い通りにハマってしまったわけです。

そう考えると少し悔しい気もします。(笑)

そして、僕自身も随分前に職場の出し物で「水戸黄門漫遊記」のシナリオを描いたのだけれど、偉大な人達の功績をが考えるとなんだかとても恥ずかしい事をしてしまったなと思いだしたりしたのです。






私と彼の想い出。

2013-05-29 09:07:33 | 日記
野外学習の登山中に遭難した小学校6年生の少年少女が無事下山したというニュースを観てなんだかほっとしました。

難易度の低い山なので、ひょっとして神隠しにあったのではないか考えていた。神隠しなんて非科学的ではあるけれど、実際に否定できない出来事もある。だから、ああよかったと思った。

それと同時に少し思った事を少しだけ記しておきますね。


近道を二人で駆け抜けた時間。どんな気持だったかなぁ。お互いが好き同士だったらドキドキしたんじゃないかなぁ。

友達も先生も両親もいない空間。山の中を手をつないで歩く。日ごろ語れぬ思いを語ったり、励まし合いながら一夜を過ごす。

思春期には誰もが憧れるシチュエーションなんじゃないかなぁ。

沢山の人に迷惑を掛けたかもしれないけれど二人にとってはいい思い出になったのではないかな。

もし、彼らが好き同士であって、いずれ結婚したとしたならば、恥ずかしい記憶と同時にこの時に語り合った二人にしか分からない会話は二人にしか分からない想いでとして、事あるごとに「あんときさぁ~」「そうそう、ばかだったわねぇ~」なんて、語り継がれてゆくのではと思ったのです。

そのように妄想すると、彼らの行為を肯定してはいけない事なんだろうけれど、少し羨ましさを感じたのです。

ぜひとも二人には頑張ってほしいと思う。


赦し合う事は出来ないのだろうか。

2013-05-27 16:04:55 | 日記
橋本市長の発言がまだ尾を引いている。人は人を赦す事が出来ないのであろうか。いやそれ以前に問題が複雑化してきて真相がよく分からなくなってきている気がします。もし、何かの目的の為に意図的に事が進められているのだとしたら、その意図とはどのようなものだろうか。もしそれが戦闘のない戦争だとしたら大変恐ろしい。

しかし、浅く考えてみると問題の落とし所はこのようなものではないだろうか。

「誰の責任なのか。誰から謝罪と賠償をしてもらうか。」

問題は過去にある。したかって歴史を遡って責任を追及するならば、戦争がポイントになる。戦争が無ければ兵士を慰安する意味はないのだから。

だから「誰の責任なのか」を問うのであれば、「誰が戦争を始めたか」が同時に問わなければならないのだと思う。

しかし、日本は一部を除いて鎖国をしていたのだから、そのまま鎖国を維持できていれば戦争に踏み切らずにいられたのかもしれない。

そこから考えると、どうして戦争をしなければならなくなったのかが問われなければなるまい。

真実を知ることが必要なのならば、悲劇の始まりが明白にならねば責任の追及はできないと思う。

勝者が正義で敗者が悪だという論理がまかり通るならば、議論は必要ないという人も出てくるだろう。

度を過ぎた理不尽な責任追及が続けば、実力行使あるのみという判断をする人も出てくるだろう。そのような論調が多くの人に支持されれば、狂気の時代の幕開けである。

それだけは何としても回避してほしいけれども、時代とは破壊と再構築が繰り返されるものであるから、その不遇を黙って受け入れてゆくしかないのだと思う。

そしてまた、お金の力によって悲劇が繰り返されるのではないでしょうか。もし繰り返されるのだとしたら神は何故我々を創造したもうたのだろうかと考えてしまうのです。





侵入者

2013-05-26 12:47:11 | 日記
昨夜の出来事。テラスで猫がう~う~と唸っているので覗いてみると隅の方で背を弓なりに曲げて唸っていた。彼らの視線はある一点を観ている。彼らの視線を辿ってゆくとテラスの下へ潜り込む謎の生物。

猫はいい気なもんで、僕がテラスに顔を出すと、援軍在りと意気込んでそろそろと前進。僕の前を通る時ちらりと目を合わせおそるおそるゆっくりと外へ出て行った。

猫たちは相変わらずう~う~と唸って威嚇しているけれど、僕が背後にいる事を分かっていて威嚇しているのだから笑えてしまう。

黒い生物がテラスの下から出て来ると猫たちは微妙に後退しつつも、その視線を外そうとはしなかった。

玄関の薄明かりに照らされたその生物はこちらを観るとゆっくりと立ち上がった!!

その時正体がつかめた。タヌキである。しばらく立ったままこちらを観ている。まるでエヴァンゲリオン初号機のようだ!!


その姿に猫たちはおびえながらも尻尾の毛を逆立てながらうーうーと唸って自分たちのテリトリーを死守するべく非力ながらも頑張っている。

タヌキも慣れているようでなかなか退かない。仕方がないので戦いに介入。テラスから外に出て「しっしっ」と声を掛けると、タヌキは此方をちらちら観ながら闇に消えていった。

猫たちは自分たちが勝ちを収めたかのように、撤退するタヌキの方へ歩いて行ったけれど、僕が部屋に戻るとすぐにテラスのかごの中へ入って身体を丸めた。

猫は勝手なのものである。


ドメステック・バイオレンスと時代。

2013-05-24 21:46:03 | 日記
此処の処、ニュースでよく観る気がします。これは情報の伝達速度が速くなったからよく見聞きするようになったからなのか、DVという行為が全体的に増えているのか分からないけれども、社会問題の一つとして取り上げられるようになった事は明らかなようです。

人はなぜ好きな人の命を奪おうとまでするのでしょうか。どうして一人の人にこだわるのでしょうか。どうして好きな人を自分の思い通りにさせようとするのでしょうか。

私とは違う誰かを私と同化させようとする行為は大変危うい。なぜなら他者の人格を奪うという事だからである。

他者の人格を奪い、私と同化させ私の変わりをさせてしまいたいと思う考えには愛が無いと思う。

愛があるならば、他者との間にある隔たりを受け入れることができるはずであるから、暴力なんて振るわないと思う。

確かに他者の本質は失敗をする事でしか知る事が出来ないとは思うけれど、いつだって恋は盲目である。事前に分かれば越したことはないけれど、それは無理な話である。

暴力をふるい、命を奪おうとまでする気持ちは憎しみなのであろうか。だとしたら、どうして好きな人を憎むのであろうか。

愛があれば赦せるはずである。

したがって、DVをやらかしてしまう彼、彼女には最初から愛が無いと言える。しかし、当人はそれが「愛」だと思っている。でもその「愛」という言葉には悪意に満ちているといえる。

そういう人たちが増加しているとするならば、悪意に満ちた愛が時代を創造してゆくことになる。そうなれば、また暗黒の時代がやってくるような気がするのですが、それを回避するにはやはり「はじめに言葉ありき。」を重んじなければならないのではないかと思うのです。

そう考えると、私達が言葉を軽んじている間は、DVという現象も無くならないように思うのです。


終わらせる事が出来るのだろうか。RE:CYBOGU

2013-05-23 22:05:35 | 日記
ようやくレンタルが開始された。サイボーグ009。随分待った気がする。

監督は神山健治さん。「東のエデン」や「甲殻機動隊」の監督でもあり、師匠は知る人ぞ知る押井守さんである。

きっかけは1979年のアニメシリーズ。少年だった僕はすぐに夢中になったけれど番組が終了後次第に関心が無くなった。(次にはまったのはガンダムであった)しかし、わずかな思い出とオープニングテーマとエンディングテーマはなぜか頭に残っていて、大人になってからも自然と口ずさんだりしていた。カラオケでこの曲が登録された時、合コンの2件目においても迷わず選曲し熱唱。周りの人達をドン引きさせた思い出がある。(笑)でも、僕自身は歌えて凄くうれしかったのです。

話を戻しまして。

その009シリーズを神山健治さんが引き受ける事を知った時、鳥肌がたってしまった。これは期待していいだろうと。

では、実際はどうであったか。

音楽担当が川井憲次さんなので、最初からはまり込んでゆく。これは「パトレーバー」の時と同じ感覚である事に気づく。
ストーリーはかなりエッジの立ったものであり、大丈夫なのかなと思うほどであるけれど、神山さんらしさがとても表れていて好きである。(マイケル・ムーア監督の華氏911を観ておくと、よりリアリティを感じると思います。)
コンセプトは昔のアニメのようなエンターティメント性よりもリアリティ重視。都市の風景やそこに映し出される人々の暮らし、また、002のバーナーが壊れてしまう処、004の薬きょうの散乱とかも凄いなぁと感心してしまいました。(オスプレイ等の軍用機も登場してしまうのです。)

でも、話が進むにつれ不安がよぎる。「これでは終わらないのではないか」と。その不安は次第に現実のものとなり、ストーリーは鑑賞者を置き去りにして結末を迎える。どう考えても取り残された感が払拭できないのであるが、次回作に繋がるものと考えれば、納得がいく。

これで終わらせてしまっては石ノ森先生も不安で戻って見えるのではないでしょうか。

しかし、物語は天使が実在していたと前振りを立てている。ならば話をどこへ落すのか疑問が残る。

アニメとは言え宗教の核に触れるかもしれないストーリーをリアリティをもって描こうとするなら、かなり難解なお話になってしまうのではないでしょうか。そして未だかつて誰も触れなかった場所へ物語をもってゆくのはかなりのチャレンジでもあるように思います。話によってはアニメだからという理由では赦されなくなるかもしれない。そのように感じるので少し心配です。

でも、神山さんならばと思ったりもしているのです。


話は少しずれてしまうのですが、実はこの作品でもっともショックを受けたのは003フランソワーズ・アルヌールが女性であった事なのです。

少年の頃はきれいなお姉さん的存在で憧れだった。それなのにエロスを感じてしまうなんて・・・。僕は汚れてしまった・・・。(苦笑)












運命は変えられるのか。

2013-05-22 15:09:30 | 日記
アンジェリーナ・ジョリーさんの乳がん予防切除のニュースを観て思った。あるニュース番組ではそれを「運命を変える」と紹介していたけれど、運命は自らの手で変える事が出来るのかなと。

彼女の財力と運と女優としてのスキルと現在の医療技術が予防切除と云う選択を可能にさせているわけだけれども、それも彼女の運命だったのではないかと思ったのです。

アメリカでは日本のような医療保険が無いので、国民の大多数が医療技術の恩恵を受けることができない。

その中で「できる」のであるのだから、それもまた、運命といえるのではないだろうか。

僕たちは高度な医療技術に支えられ長寿を享受できているのだけれど、それもまた、運命と言えなくはないでしょうか。

僕自身も現在の医療技術がなければ死んでいるかもしれないので、その現象を強く感じるのですね。

だから、予定調和や奇跡、運命はもっと深遠で私達の知る由のない処で起こっているのだと思うのです。

ただ、その軌跡をちらりと垣間見れたりする場合があるから、「これは運命なのかな」と思ったりするのです。

余談ですが、この間妻と車で移動中、カーラジオからboowyの曲が流れてきた。 DJの女性は布袋友康さんの事を話していて、彼がboowyに参加した道程に少し驚いた。そこで僕は「しかし、布袋さんはよく氷室恭介と巡り合えたもんだね。もしかしたら、売れないギタリストのままだったかもしれないのにね。」というと、妻は「それは運命だよ。」と一言。

彼が幼少のころからピアノを習っていた事。ギターに転向した事、グラムロックが好きになった事。そして高校を中退し、東京を目指した事。そして氷室恭介と出会う事。そして現在、ギタリストとしての布袋友康がいる。

なるほど、確かにそれが運命というものなんでしょうね。


絶望の国の幸福論2013

2013-05-20 16:21:55 | 日記
先週の土曜日の午後、仕事の休憩中、休憩室には僕だけだったのでテレビを独占。チャンネルを変えてゆくとeテレの「絶望の国の幸福論2013」という議論番組で手が止まり、なかなか面白いので見入ってしまった。

その時に感じた事を少しだけ述べておこうと思いますね。

若者たちが幸福について語り合っているのですが、まず、一番驚いたのが彼らの出力。言葉の堰を切ったようになめらかに且ロジカルに想いを述べてゆく姿がとても新鮮で、出来る人達は違うんだなぁと感心しました。また、迷いなく語る彼女たちにキュンとしてしまった。(笑)

でも、彼らが議論する机上は、彼らと同じ視座で社会を観る事が出来なければ、ちんぷんかんぷんなお話なのである。

ダウンサイジングな生き方のロールモデルが必要である事。新しいコミニュティーの構築。個人の幸福か社会の幸福か。ライフワークバランスの質のあり方。等など聴いているとワクワクするんだけれど、それを意識して日々を暮らしてゆくのって結構大変。

人は感情の生き物である。なるべく楽してわがままを言って対価を得たいものである。

きっとこういった感情をもっている人の方が多い気がします。

僕は思います。こういった感情を抱いている大多数の人達によって社会が形成されているのだとしたら、僕達に対して社会が生き方を希求し、それを僕たちは無意識に選択しているのだと思う。

もし、経済が1987年と同等になったら、人はやはり個人の幸福に気をもってゆくと思う。また、2008年と同等になったら、社会の幸福に気をもってゆくと思うのです。

そう考えると、少子高齢化や過疎化、核家族化、都市集中等の社会問題というのは、僕たちが無意識に望んだ形なのだから、どうするんだどうするんだと目くじら立てても仕方がないようにも思います。

そう考えると、平等な幸福論を定義するなら、とても消極的だけれど「利益をそこそこに分配する」「現状を耐える。そして楽しむ。」しかないように思うのです。

そして、出演者の彼女たちはそれを実践しているからこそ、あの場に選ばれたのだし、輝いていたのだと思ったのです。






憂鬱なニュース。

2013-05-18 10:20:32 | 日記
橋本大阪市長の「従軍慰安婦」のコメントに対して内外から批判の声が上がっている。

何度聞いても憂鬱になる。誰の言葉を聴いても心に響かない。

歴史上での事実である事は間違でないし、それを肯定的に捉えることも間違っていると思う。

現在は、其々が其々の立場から見識から発言する自由が与えられている。

もし、今なされている発言のすべてを戦時中に行ったら発言した人達の行動や活動や発言はどれほど規制させるだろうか。

よく考えて発言してほしいと思う。思想が違う時代の出来事を言い争う事の危うさ醜さを。議論し止揚を目指すのならば、言葉を自制せねば敬意を失う。

肯定も否定もしてはならない。勝てば官軍のような体をなしてきているように思う。過ぎれば自身の首をも絞める事になりはしまいか。

それでは、何も解決しない。当事者が不遇を訴えるのならその気持ちを重んじなければならないが、当事者でないものが歴史をもちだして批判する行為は、新たな念を生じさせるだけだと思うのです。

精神も肉体も傷つけられていない人が、私は傷ついているというのは理屈が通らないように思うのです。

歴史上の出来事として認めて、二度と同じ過ちを犯さないように注意し合い、赦し合う他、道はないと思うのです。


真実はどこにあるのか。

2013-05-15 22:26:37 | 日記
「笑う介護士」の袖山卓也氏が処分保留で釈放された。 彼は「強引だったかもしれないが、合意の上でやった。強姦ではない。」と主張しているそうである。

釈放になった過程で、なにが不十分であったのだろうか。

双方に隔たりがある以上、真実は分からない。

しかし、女性が訴えた事は事実であり、それは彼が女性の拒否を「合意」と勘違いした事を示唆していると読みとる事が出来る。

彼は大勢の聴衆の前で意思疎通が困難である認知症の高齢者について語っていたが、本当に深い見識を備えていたならば、他者の言葉の端々の変化や表情、振る舞い方、非言語な訴えに敏感なはずである。

それは、対象が健常者ならば少しの不快感でも「本当に嫌なんだな」と分かる事が出来るレベルだと言える。

ひょっとして彼はオオカミ少年だったのだろうか。

もし仮に、彼女が彼を貶める事が目的であったとしても、そこに行った事、彼女を求めた事が彼の躓きである。そう考えると、言い訳するよりすべてを受け入れ、罪を償う方が彼のこれからの為にはよいかもしれない。

無罪放免になったとしても、彼の言葉はもう誰の心にも届かないように思う。

本当に残念でならない。


幸せはあるいてこないけれど。

2013-05-14 19:15:03 | 日記
自転車で信号待ちをしていると、左方向からポルシェが水平対向サウンドを轟かせながら走ってきた。新型の911ターボであった。 スーパーカーが大好きだった少年時代に好きだった一台である。スタイリングは随分変わったけれど、面影を残しつつデザインされたボディ形状は見とれてしまうほど美しい。

「美しい車だなぁ」と見とれていると、助手席にモデルさんのようなきれいな女性がシートに身を沈めているのが見えた。

「ああ。美しい人だなぁ」と感心し、ドライバーに目をやると、ポロシャツ姿が眩しい20代後半の爽やかな青年である。

推定2千万円する911ターボである。それを購入し維持している事から考えると、彼の年収は1億円に近いくらいはいただけているはずである。

思わずため息。

きれいな彼女と美しい車。彼はきっと幸せに違いない。彼女は彼のどこが好きになったのだろうか。エグゼクティブクラスのみ接続可能な場所で知り合えたのだろうか。彼の仕事はどんな業種であろうか。等、妄想をふくらましてゆくとなぜか笑いがこみあげてきた。

そして幸せとは何ぞやと改めて考える。

僕には沢山のお金はないけれど、生活してゆけるだけのお給料がもらえる職があり、いろいろ思い悩む事があるけれど、帰ってゆける家があり、未だによく分からない不思議な妻と3匹の猫と元気でいてくれる母がいる。

目標も見失い、只毎日を漠然と生きているだけであるけれど、それでも、これで十分幸せなんだろうなと思ったのです。


女々しいとしか言えない。

2013-05-12 20:17:31 | 日記
朝、目覚めた後も夢の中と同じ心持を引きずっていた。妻が出してくれる納豆と賦の味噌汁とご飯の味が分からないほど気持ちが落ち込んでいたが、朝の陽ざしが辛うじて僕の心を支えていた。

場所はどこかの教室。彼女の姿を見つけて声を掛けるけど、声が出ないのか、声が届かないのか分からない。

それならばと、近付いてみようとしたんだけれど、なぜか彼女は別の場所に移動してゆく。嫌われるにも、それほどに嫌われる理由が分からない。時間が経つにつれ次第に心がざわついてくる。

彼女は僕の視界にいるのに、彼女は一向に僕に気づいてくれない。

胃がじんわりと痛んできて、精神にストレスがかかり始めた処でアラームが鳴り、目が覚めた。

でも胃痛と軽い頭痛は残ったままであった。

とても長い時間、夢の中で彼女を追い続けたように思う。それほどに夢の中の僕は彼女にいったい何を伝えたかったのだろうかと考えてみるけれど、夢の中の僕の事は分かるわけがない。

それとも僕自身が心のどこかで再会を求めているからだろうか。でも、逢って「やっぱり好きなんだな」と言う気持ちを再確認する事はしたくない。それこそリアルにストレスの元にしかならないから。

本当につらい失恋で、退職のきっかけになったくらいだから、心がどう動くのか目に見えている。

しかし、結婚をして、他の人と生活する事の難しさが分かったことで、「彼女とは結婚しなくてよかったのかもしれない」と、思えるようになったのに、なぜ、わざわざこんな夢を観なければならなかったのだろうか。

いや違う。これは、単に女々しいだけなのだ。

もやもやの向こう側

2013-05-10 19:58:05 | 日記
こんばんは。朝の続きでございます。

朝ブログをつけてからも、違和感がぬぐえなくて度あるごとに考えていたんですね。そこで思いついた事を記述しておこうと思います。

もし、朝ブログが的を射ているなら、分かっていながらどうして事を起こしたのかという疑問がわいてきたのですね。

未熟な事をわざわざする理由が必要だった。そう考えないと、どうも腑に落ちないんですね。

しかも、円安も株価も順調に回復。企業からの評価もまずまずの様子。それを承知の上で失脚を狙っているとしたら、野党のイメージはさらにマイナス。議員さん自身の職を失いかねない事につながる思うのです。

だとしたら、理由はなんでしょう。そこで思いついたのが「けん制」と「利権」

「政界に基盤をもたない人。」もしくは、与野党各党を含めて、その人がそこにいると「都合があまりよろしくない」と思われている人を選び意図的に斬ったのではないかと思うのです。

政治運営に支障をきたさず「此方はいつでも踏み込める準備がある」というメッセージを残す事が目的ならば、ある人達に向けては効果的な演出であるし、「都合があまりよろしくない」と思っていた人達には計画通りに事が進んだと言えます。

もし、この予測が的を射ていたとしたらば、この一連の流れにも合点がいくのです。

真実はどうなんだろうか・・・。

揚げ足を取りたがる人達。

2013-05-10 07:10:29 | 日記
昨日の報道から違和感を感じてならない川口順子参院環境委員長解任決議の可決について少しだけ述べておこうと思います。

川口さんは中国の国務委員の方との対談に対応するため渡航日数を延期した。

しかし、その為には25日から始まる環境委員会をなんとかせねばならない。

延期可能な案件を重視するべきか、それともなかなか得る事の出来ない案件を重視するべきか選択に迫られる。

中国の国務委員の方との対談をキャンセルしたその後のリスクを考えると誰もが延期可能な案件を選ぶのではないでしょうか。

もちろんドタキャンは赦されるわけがない。したがって承認を得るため、自民党は野党に対し帰国延期を求めたが認められなかったのだという。

それで、解任決議案の提出に至ったわけであるが、この流れが不思議でならない。

民主が与党時代に野党である自民党からさんざん揚げ足を取られ何人もの議員さんが解任に追い込まれた。それによって国会自体が前に進まなくなった事はまだ記憶に新しい。 

問題が山積している現在。揚げ足を取りに心血注ぎ、国会の歩みを止めてしまう事に意味は無い筈である。それを重々分かっているはずである。

いい大人がなぜそんな事を繰り返すのであろうか。国取りゲームのような行為を国会で行っていていいのであろうか。

止揚を目指す事が大切ではないだろうか。

それとも「我々ならば、隣国が配慮してくれる」という自信があったのであろうか。

野党各党は「国会軽視だ」と批判したというが、これは言葉を変えると「俺たちをばかにした」と言う事ではないでしょうか。

そして「ただではおかねぇぞ」というのが「解任決議案」で、「可決」は「ざまあみろ」であると思う。

そう考えると、ただただあきれるしかないのである。

でも、その議員さんを選んだのが有権者なのだから仕方がないけれど、しかし、つまらないからと選挙権を放棄し票を投じない結果がこのような事態を生みだしているのかもしれないとも思うのです。