硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

性的欲求を満たす・・・。

2015-12-29 20:57:57 | 日記
昨日の続きをもう少しだけ述べておこうと思う。

人が一人ひとり違う以上、内在する性癖も異なり、相対する人が好意的で、どんな性癖を受け入れてくれる寛容な心の持ち主であれば性的な犯罪は起こらなくなるようにも思うが、相対する人が条件を満たせられる人ばかりではないし、いいなりになる相手であれば、思い上がった気持ちが、相対する人以外の人に欲望を向かわせるものである。
性的欲求の衝動は時に、自律を忘却させる力を持ち、支配欲が相対する人の心を平気で傷つけてしまう。

「濁った頭」の津田君がまさにそうである。しかし、彼がキリスト教に出会わず、愛する人と出会い、素晴らしさを知ることが出来ていたら、平凡であるかもしれないが幸福になっていたかもしれないと思う。

僕の例えで恐縮であるが、相手の気持ちを思いやり、優しく抱きしめあうと胸が暖かくなり、互いが我を忘れて貪る様に官能に溺れるとき、罪悪感を抱くのではなく、身心が充実し「生きているのだ」と感じ、それが明日への活力につながるように思う。 しかし、そのようなパートナーに出会うこと、気づく事が意外と難しいのが現実であるからもどかしいのである。

それが決定的な動機だとは言い切れないが、衝動を抑えきれず、罪する事に苦しまず、他者の気持ちに対して盲目になり、欲望の赴くまま法を踏み越えてゆく人が後を絶たないのではと考えつつも、問題の根源に「フェアネスな社会は、いつの世も、どこにも存在しない」という言葉が浮かんでくるのです。

性的欲求を満たす・・・。

2015-12-28 22:55:44 | 日記
キングオブコメディの高橋さんが性的欲求を満たすために女子高生の制服を盗み続けたという事件を知り、少しばかり考えた。生物的欲求の性的欲求を満たそうとする行為は、生物としては自然であるが、私たちは法によって存在が担保されている身であるから、法に触れぬよう自律しなければならない。
また、宗教に頼るとしても、淫戒や姦淫はご法度であるから、バイアスが掛かるほど苦しみが増すように感じる。したがって性的欲求は宗教的な奇跡を体験する事等、精神の根幹を揺さぶる体験をしない事には放下できないのではないかと悶々としているとき、志賀直哉さんの「濁った頭」に出会った。

「濁った頭」の主人公の津田君はキリスト教に出会うまでは延び延びとした普通の子供でありましたが、キリスト教に出会い生活が変わってしまいます。彼にとってキリスト教の教えの大概のものは然りでありましたが、姦淫する事勿れという教えのみが彼を苦しめ、次第に精神を圧迫し、精神を弱らせてゆきました。そして、彼の家に手伝いに来ていた未亡人と深い関係に陥り、愛情もなしに続けている姦淫に宗教的煩悶を感じなくなり、ついには未亡人を殺し、自身も精神病院に入院してしまいます。

「濁った頭」は僕にとって衝撃的な物語であり、もしかしたら僕自身が津田君のようになっていたかもしれぬとぞっとしたが、志賀直哉さんは、性的な欲望は、荒ぶる牛のようであり、手なずけようと試みるとますます暴れてしまう困難極まりないものなのだと作品を通して伝えているように感じた。

そして、ふと思った。もし、親鸞聖人が説かれたように「煩悩具足の凡夫、無常火宅の世界は、万の事皆もって、そらごと、たわごと真実あることなき」ならば、救ってくれるのは法や自律ではなく、弥陀の本願のみ、他力なのかもしれぬと。

「レ・ミゼラブル」

2015-12-26 22:00:08 | 日記
クリスマスの少し前に施設に通うお婆ちゃんがクリスマスの想い出を語ってくれた。それは小学生の頃に、近所の教会ではクリスマスになると神父さんがジャン・バルジャンの話をしてくれたとおっしゃった。しかし、ずいぶん昔の事なので、ジャン・バルジャンの物語がどういう話だったかは忘れてしまったと言われたので、少し残念に思った僕はジャン・バルジャンという名前に聞き覚えがあり本腰を入れて調べてみようとメモに書きだすと、お婆ちゃんは「あ~そうそう。ジャン・バルジャンというのはレ・ミゼラブルの事よ」と言われた。
僕もそれを思い出し「ああっレ・ミゼラブルですねぇ」と返事はしたものの「確かミュージカルの演目だったなぁ」くらいにしか認識がなかったので、確か映画で近年リメイクされていたのを思い出し、仕事に帰りにレンタル店によって、「レ・ミゼラブル」を借りて、翌日の午後から観てみたのです。

しかし、幼少の頃から祖母と一緒に観続けた時代劇が下地にある僕にとって、ミュージカルというものは大変取っ付き難く、英語の意味もよく分からないので本当に退屈なものでしかなかったのですが、神の御業は正確で、僕にも「その時」がやって来たのでした。

囚人たちが嘆きと悲しみを歌いながら鎖を引くシーンから気持ちが持っていかれ、もはや違和感など微塵も抱く事なく、160分間その世界に没頭し、アン・ハサウェイが再び登場して歌うシーンに涙し、映画が終わると思わず「ブラボー」といって手をたたくほど感動してしまったのです。

しかし、不思議なものでしばらくすると疑問がわいてきたのです。特にラッセル・クロウ演じるジャベール警部はなぜ自死を選んだのだろうかと。
彼も聖書を読む者で、罪の償いと神の赦しを信じるものであるならば、例え、バルジャンが聖者のような人になっていたとしても、彼の赦しを理解していたなら、あそこで自死してはならないはずである。
しかし、レ・ミゼラブルの邦題が「ああ無常」であるように、常に惨めなのだというテーマが根底に流れているならば、その選択も然りなのだろうか思ったりもしたのですが、作品を思い出しては、いろいろ考え、消えてゆく思考の中でわずかに残った「レ・ミゼラブル」が訴えたかったメッセージの本質というのは、ひょっとすると

「フェアネスな社会はいつの世もどこにも存在しない」

という事なのではと思ったのです。


 落語みたいなクリスマスのお話しを一石

2015-12-24 22:09:57 | 日記
「しかし、神様の力ってすごいんやなぁ」
「そらそうや、神様の言うこと聞かな、罰が当たるんや」
「そやな。僕らもええ事せなあかん。死んだら天国行きたいしなぁ」
「あほ言うとったらあかんわ。そんなこと言うとったら、道踏み外すで」
「ええっ、なんでやねん」
「なんでやねんて、なんでやねん。天国って言うのはな、毎日人に優しくしてたら自然と行けるもんや。天国行きたいからええ事せなあかんと言うてる内は、行けへんもんや」
「そんなもんか」
「そんなもんさ。ほれ、この子の寝顔を見てみい。美しいやろ。それは純真無垢やでや。そやから、神様が天から命を授けてくれたんや」
「なるほどなぁ。けど俺もこれくらいの時は純真無垢な赤ん坊やったから、やっぱり天国行けるわ」
「なんでそうなるん」
「なんでって、俺もこの子と変わらへんからや」
「なるほどなぁ。たしかにそうかもしれんなぁ。なんや有り難い話になったな」
「そやろ。どうや」
「どうやって・・・。お前が神さんかい! 」

てな具合の会話があったかどうかは定かではないですが、クリスマスはこの物語によってできたんですね。そして、キリストさんの生誕がクリスマスとして世界中に広まった理由は、キリストさんが大きくなられてから多くの民の前で起こした奇跡と救いと施しによるものでもあるんですが、そのお話までしてしまいますと、まだ幾日かかかってしまいますんで、割愛させていただくとしまして、まぁ、クリスマスに旨いものを食べたり、恋人と逢引きしたり、高価な貴金属やおもちゃをねだったりできるのも、すべて神さんが天地を創造してくれたおかげであることは間違いないようでなんで、とりあえず、「神さんありがとう」みんなで言うときましょう。そしたら、いつぞやと同じように天からたくさんの天使がやってきて、こう言うんやと思います。

「こんな時だけかいな」

お後がよろしいようで。

落語のようなクリスマスのお話を一石。

2015-12-23 21:08:48 | 日記
これだけでも、十分神々しい話であるし、伝説にもなりそうなんですが、実はクリスマスのクリスマスたるゆえんはこの後にあるんですな。
さて、愛する二人が一息ついている頃、この近くで羊飼いたちが野宿で羊の番をしておりましたところ、突然天使が現れて光輝いたもんだから、羊飼いたちは恐ろしくなって羊をほったらかして逃げようとしたんです。

「うわぁ、なんや、なんや、まぶしいぃ。これあかんやつや。おいっ、はよ逃げよ」

それはそうでしょうな。今まで見たこともない物が空から現れてお天道様のように光るんですから。でも、天使さんは恐れて逃げ出そうとしてる羊飼いを呼び止めます。

「恐れる事はありません。私はこの民全体の為の素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日、この街であなた方の為に救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなた方は布に包まって飼い葉おけで寝ておられるみどりごをみつけます。これがあなた方のしるしです」

そう言い終わると、今度は天からたくさんの天使たちが現れて、「いと高きところに、栄光が、神があるように。地上に、平和が御心にかないますように」と、神を賛美しました。

そんな映画みたいな出来事が目の前で起こったら羊飼いでなくても驚きます。でも、そんなことがあっても本当かどうか知りたくなるのが人情ってもんで、羊飼いたちは天使の言っていた赤ちゃんを探しに出かけたそうです。そして程なくすると家畜の為の洞窟の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか。

「おおっ。赤ん坊の泣き声や。どれ、ちょっといってみるか」

羊飼いたちは洞窟に駆け寄ると、天使の言った通りの状態の赤ん坊がいたもんですから二人は顔を見合わせて驚きました。そして思わず、

「あのぉ、もしもし。 ちょっとお休みの所すいません。けっしてあやしいもんではありません」

夜中に突然やってきて怪しいもんではありませんといわれても、十分怪しい。それでも優しいヨセフさんは彼らに応えます。

「だれです」
「いやね、僕らこの辺に住んでる羊飼いやけどね、さっき天使に会いましてな、救い主が生まれたというててね。ほんまかいなぁと思って、探してたら赤ん坊の声が聞こえてきて、まさかなと思たんですけど、ほんまのことでびっくりしました」
「そうでしたか。それは幸いです」
「その・・・。それで、ついでと言うては何ですが、その子を拝ましていただけませんやろか」

普通知らん人からいきなり子供を拝ませてくれと言われても困るところですが、やっぱりヨセフさんお優しいんですな。マリアさんもええ人なんです。

「ええよ。どうぞ拝んでいってください」
「ほな、失礼します」

羊飼いたちが近寄ると、神々しい光を放つ小さな救い主がそこにいたものですから、彼らは驚きながらも拝み、賛美したんですな。
                               
                                      つづく


落語のようなクリスマスのお話を一石。

2015-12-22 22:27:05 | 日記
さてさて、その頃ヨセフさんは、心優しいといいましょうか、優柔不断と言いましょうか、ああでもない、こうでもないと悩み続けていたところ、ある夜、あの天使さんが夢の中に現れてこう言うたんですな。

「ヨセフよ。恐れず妻を迎え入れなさい。その胎に宿っているのは精霊によるものです。マリアは男の子を生みます。その名をイエスと名付けなさい。この方こそご自分の民を罪から救ってくださる方です」

迷える羊ヨセフ。このお告げは渡りに船ってもんです。それでようやく腹をくくったんですな。それで、翌朝目が覚めたらつきものが落ちたようになんやらすっきりした気分になって、マリアさんが身籠っている子供が精霊の子とわかったもんだから、その子が生まれるまで、一切契りを交わさなかったそうです。ヨセフさん。 ほんまに偉い人です。健康な男性ならそんなことできませんのにねえ。

そしてお話はぐっと先へ進みまして、子供が生まれるといわれている十月十日が迫ったある日、出稼ぎに出ていたヨセフさんとマリアさんは、世界で初めて住民登録なるものが始まったので、住民登録するために故郷へと向かっていたその途中の夜の帳が下りた頃、マリアさんが急に産気づいたんですな。初めは我慢しとったんですけれど、いよいよ我慢しきれなくなって思わず叫んでしまうんです。

「あかん。もう生まれる~。ヨセフさん。もう生まれてしまう~」
「ええっ! 家までもうちょっとや、それまで我慢できへん? 」
「あほいいなされ。 もう、もう、うまれるとゆうとるやないの! ああ~。あかん。あたまがでてきたわぁ」

こんな時、おろおろするのは決まって男の方です。ほんま情ないですけれどもこのヨセフさん、男前を発揮するんです。でも、なぜか運悪くその周辺の宿屋はどこも満室。現在のように救急車も産婦人科もないんですから、たいそう困ったでしょうなぁ。そこでヨセフさんは家畜の為の洞窟を見つけ、なんとかしようと覚悟を決めてマリアさんのとこへ駆けつけます。

「マリアさん。ごめん。雨風しのげるのはあそこしかない。僕も手伝うからあそこで赤ん坊を取り上げよう」
「わかった。ええよ。わたしがんばるわ! 」
「ええか。はっはっひーやで。はっはっひー 」

まぁ、当時にはそんな呼吸法はありませんが、とにかく二人で頑張ったんですね。そしてしばらくすると洞窟の中から「おぎゃー、おぎゃー」と聞こえきて、天使さんの言う通り、元気な男の赤ちゃんが誕生したんですね。様々な葛藤を経て生まれてきただけに喜びもひとしおで、二人で幸せをかみしめます。

「ほんまに・・・・・・。よう頑張ったなぁ。ほれ見てみい元気な男の子や」
「うん。ほんまやな。ガブリエルさんの言う通りやった」
「・・・ほんまやな」
「ああそうや。それでな、この子は将来、優れた人になるんやて。それでな、いと高き子と呼ばれてな、神様はこの子に王位を与えてくれて、永遠に国を治めて、その国は滅びる事がないと言うてたよ」
「へえ~。そんな偉い子なんや。そら大事に育てやなあかんな」
「ところで、この子の名前どうする? 」
「お告げではなんて言うてたの? 」
「この子の名前はイエスと名付けなさいて言うてたよ」
「おおっ。僕の夢枕に立った天使さんも同じこと言うてたよ。イエスかぁ、神様から授けていただいた尊い名前や。ほんまありがたい。」
「それよりヨセフさん。イエスがこのまま裸んぼうのままやと風邪ひいてしまうわ。なんとかならへん? 」
「あああっ。そうやった。ごめん。それやったらこの布にくるんで藁の引いてある餌箱に寝かせるわ。ずいぶん暖かいはずや。たき火ももうちょっと大きいするわ」
「ありがとう・・・・・・。。私疲れたで横になるわ」
「うん。ようがんばったね。 ほんまありがとう」

こうして二人で力を合わせて二人だけで出産したんですな。心温まるエエ話ですなぁ。
これがクリスマスの元となったキリストさんの誕生秘話なんです。

                                     つづく

落語のようなクリスマスのお話を一石。

2015-12-21 22:12:06 | 日記
そもそも私達が思てるクリスマスというのは、キリストさんの儀礼の事で、皆さんがメリー・クリスマスって言ってお祭り騒ぎをするのは、キリストさん誕生日おめでとうと言うてるようなもんです。まぁ誕生日のお祝いで祭りごとですから大きな間違いはないように思うんですけど、厳格なお人にしてみれば罰当たりかもしれませんが、まぁその辺はちょっと横に置いといて。

そのキリストさんが生まれたのは今からおおよそ2015年前のことらしいんですが、もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、西暦っていうのは西洋の暦でこのキリストさんが生まれたから始まったんですから、いかにキリストさんが尊い人なのかが分かりますな。
そんな尊いお方でもちゃんと父上と母上がおられまして、そこは私どもと同じなんですが出生が大きく違うんですな。
さて、どこが違うかと申しますと、キリストさんの母上のマリアさんは父上のヨセフさんと契りを交わさずにキリストさんを授かったんだそうです。キリストさんと言うと名前のように思われてますが、この世の名はイエスさんというんですね。キリストとは「油を注がれた者」つまり、洗礼を受けた者という意味らしいんですが、この不思議な出来事がクリスマスの始まりなんですな。
しかし、婚約者と契りを交わさずに妊娠してしまうというと、なんやら身持ちの軽い女性のような感じを受けますがマリアさんと言う方は、大変純粋な乙女だったんだそうです。
ですから、突然身籠った事を告白された婚約者のヨセフさんは、
「なんにもしてへんのに、嫁が妊娠してしもたて・・・。誰の子なんやろ・・・・」
と、うろたえたわけです。
けれども、それ以上に純粋な乙女マリアさんも悩むんですな。「何でこんなことになってしまったんやろう」と。

その不思議な出来事の始まりは、ある日突然「ガブリエル」と名乗る天使がマリアさんの前に現れて、
「おめでとう! 恵まれた方。 主があなたと共におられます」
と言われてからなんですが、誰でもいきなりそんなこと言われてもピンときませんわな。勿論マリアさんもなんのことかとしばらく考え込みまして、それを見かねた天使さんは、
「マリア 恐れる事はない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身籠って男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい」
と言ったんだそうです。でも、そんなこと言われても困りますわな。そこでマリアさんは
「どうしてそんなことがありえましょう。私は男の人を知りませんのに」
と、反論したんです。そらそうですわな、男の人を知りませんのに子供が出来たで生んでくださいと言われても弱りますわな。それでも、天使ガブリエルさんは神さんの使いですからマリアさんに分かって頂くのが仕事。「そりゃそうですわなぁ」ではすみません。そこで、ガブリエルさん。頑張ってもうひと押しします。
「精霊があなたに下りいと高き方があなたを包む。だから生まれる子も聖なる者、神の子と呼ばれる。御覧なさい、あなたの親戚のエリザベツおばさんもあの年になって男の子を宿しています。赴任の女と言われていた人なのに今はもう6か月です。神様にとって何に一つ不可能なことはありません」
電話も郵便もない時代に親戚のおばさんの事まで言われたら「これって本当かもしれんわ」と思ったのでしょう。ついにマリアさん受け入れてしまいます。そして、
「私は神様の雇われの身です。どうぞお言葉通り、子供が生まれますように」
と言うて祈ってしまうんですね。それを見て安心したガブリエルさんはマリアさんの前から去っていったんですが、残されたマリアさんはそれでもどことなく不安なわけです。
そこで思い立ったが吉日。マリアさん、早速エリザベツおばさんの所へ向かうんです。エリザベツおばさんに話をしたらほんとかどうかわかるだろうと。
そして、エリザベツおばさんと家にやってきます。
「こんにちは。エリザベツおばさん」
「なに~。ひさしぶり~。今日はどうしたの」
「なんかね。うちに天使が来て、いきなり、いきなりな、男の人も知らんのに私が神様の子供を身籠ったって言うたんやわ」
「え~、ほんまに! それは女にとってすごく幸せな事なんやで。おなかの中の子供も喜ばれてるわぁ。それで、マリアの声が聞こえた時私の中の赤ちゃんも喜んでいたんやわぁ。そやけどマリアは偉いなぁ。神さんの言われたことを信じてるんやねぇ。きっと幸せになれるわ」
偉く寛大なおばさんですな。 普通なら「そんなことありえへん」って言うところやけれども、そこがエリザベツおばさんの偉いところなんです。そのおかげでマリアさんも決心がついて、こう言うんです。
「今、私の魂は神様を敬い喜びたたえています。なんでかいうと神様が卑しい私に目を止めてくれたから。ほんまに私は幸せ者です」
マリアさん。ほんとにええ人ですね。残念なことに最近ではこんな女性とんと見られなくなりましたなぁ。

一方、婚約者がいきなり身籠ったというのに、腐りもせず、やけにもならずグッとこらていたヨセフさんもかなり男前です。それでも、時々ため息をついたり、仕事に失敗したりと、ずいぶん悩み込んでいます。それはそうですわな。男ならその気持ちよくわかります。
でも、それ以上に頭を悩ましていたのは、当時のこの国では不倫などしたら女性は石打の刑になるんです。優しいヨセフさんでしたから愛しいマリアさんをそんな目にあわしたくない。それならいっそ縁を切ってしまった方がマリアさんを救うことになるんじゃないかと思い巡っていたんです。

これが、現代の新聞記事や週刊誌の記事に登場する人たちの例ですと、浮気したんやったら俺も浮気していいよね。というようなあっさりした人もいれば、可愛さ余って憎さ百倍といいましょうか、嫉妬心から大好きだった人を殺めてしまう人もいるほどです。なんやら荒んだご時世になってしまったなと嘆いてしまいそうですが、キリストさんが生まれた時代の方がもっと荒んでいたんですね。その時の王様ヘデロなるものは、ヘデロに代わり王の座につくものがもうすぐ誕生するという噂を耳にして、王の座を奪われるのを嫌い、家来を使って町周辺の2歳以下の男の子を一人残さず殺させたというんですから、今以上にひどく物騒な時代だったんですな。また、そんなことを平気でしてしまう王様であったから、その地の民はたいへん苦しめられていたといわれていました。

                                    つづく

 落語みたいなクリスマスのお話しを一石

2015-12-18 18:08:05 | 日記
今年は12月に入りましても暖かい日が続いておりましたから正月も来ないんと違うやろかと思っていましたが、季節と言うものは私達よりも正直なものでちゃんと寒くなって、いよいよ年の瀬を感じるようになりましたな。それでもって、街のスーパーや百貨店では年末の書き入れ時になりましたから、クリスマスと正月がごっちゃになって賑わってますけど、順番でいうとクリスマスの方が先にやってきますな。

しかし、このクリスマスと言うもの、本当の姿はよくわかっていないもんですから、宝石店で清水の舞台から飛び降りるくらいの勢いで買ったものを好きな人にプレゼントして、旨いものを食べて、ちょいとロマンチックな夜景なんか見ながらイチャイチャと逢引きしたりすることがクリスマスの過ごし方と思い込んでたりします。
これが幼子になりますと、12月24日の夜に希望したプレゼントをサンタさんが枕元に持ってきてくれるからって信じて、良い子にして待っていたりするんですね。ほんま、純粋で可愛いですな。

そういう私でも、子供の頃がありまして、サンタさんを信じているかわいい子供の一人だったんですが、いつの間にやら信じなくなってしまいまして・・・。それは良く言えば大人になったという事でございますが、汚れてしまったと言ったほうがええんと違うやろかと最近では思う次第でございます。

それはさておき、サンタクロースさんと言うお方の由来はと言いますと、4世紀頃のオランダと言う国にセント・ニコラウスさんというえらい司教さんがおりまして、そのニコラウスさんがある日、娘を身売りしなければ生きてゆけないという大変貧しい家族に出会いまして、たいそう不憫に思い、神に仕える身でもあるから、これはなんとかせねばと、早速その夜にその家族の家を訪れました。しかし、司教さんという立場もあって、あからさまにお金を差し出し「黙って、これとっとき」という訳にもいかんので、屋根の上にある煙突めがけて金貨を投げ入れたんだそうです。そしたら、それが上手い事入って、しかも暖炉の前に干してあった靴下に、これまたうまい事入ったんですな。そしてその翌朝、その靴下を履こうとした娘が、

「おとうさん! 靴下の中に金貨がはってる!! きっと神さまのおめぐみよぉぉお! 」

てなぐあいに、たいそう喜んだんだそうです。 そのおかげで、大事な娘を身売りせずにすんで家族全員で喜びましてなぁ、その話が次第に町中に伝わって、伝説になったんだそうです。そしてずいぶん経ってから、金貨を投げ込んだ人がニコラウスさんだったということがわかったんですが、その頃にはニコラウスさん、もう亡くなられていて、大変えらい司教さんであったことも相成って、命日を祝うことになって、伝説に基づいて命日には子供たちに贈り物をするようになったそうです。でも、それだけでは、この島国まで伝わりませんわな。

どうして、伝わってきたのか。 またそこからがこのお話の面白いところです。
その慣習を持ったオランダの人達がアメリカへ移住したものですから、慣習も一緒に渡ってきて、次第に根付いてゆるやかに広まってゆくんですが、ここでも少しばかりの奇跡が起こりました。
それから時を経て、今度はアメリカのある先生が病身な子供を勇気づける為に、ニコラウスさんの物語を本にして読み聞かせたんですな。そしたら、その物語が何とも美しいものですからアメリカ全土で大流行。それがさらに時間を経て、今日のサンタクロースさんの話まで姿を変えたそうなんですが、そのニコラウスさんがサンタクロースと呼ばれるようになったのは、オランダでシンタクラースと呼ばれていたから、「サンタクロース」になったというお話もあるそうです。

そんなことより恋人とイチャイチャしたり、欲しいおもちゃをねだったり、それに伴う売り上げのそろばんを弾いたりするほうがクリスマスらしいじゃないかとお思いの方もいらっしゃるかと思いますが、ここはもう少し我慢していただいて、肝心のクリスマスの成り立ちも少しばかりお話しておこうと思います。

                                        つづく