硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

どこまで理解して発言しているのだろうか?

2023-08-28 21:27:26 | 日記
福島第一原発で発生した放射性物質を含む汚染水を多核種除去設備で処理された希釈水を海洋に放出し始めた。
(変な言い回しだけれど、どう表現してよいのやら)

それに伴って、隣国では非難の声が高まり、自国でも反論の声が上がっている。

中でも、隣国からのいたずら電話はあまりにも稚拙で、国民性を疑ってしまう。もちろんすべての人がそういう人ではないのも分かっているが、(部族間争いは今でも続いているのだから部族によって思想は異なると思う)あまりにもひどい批判には感情も揺らぐ。

両国の間で緊張感が高まり、有事に発展するのではと心配してしまうが、そもそも、原発の構造をきちんと理解している人はどれくらいいるのだろうか。
そもそも、完全にクリーンにできない冷却水を中国の原発ではどのように処理しているのだろうか。
自動車を電動に移行させるには、今以上の発電が必要であるが、原発に頼らなくても可能なのだろうか。
人類は電気を使うあらゆるものを放棄する事ができるだろうか。
問題は食べ物だけではないはずなのに、なぜ、その事を声にしないのだろうか。

ほんとうに分からない事ばかりであるが、原子力発電は、まだ不完全な機械ということだけは確かである。
そして、海が本当に汚染されない事を祈るばかりである。


その雲の名は。

2023-08-25 22:14:31 | 日記
今日の明け方。ゾ~っという雨音。ラジオをつけると大雨警報が出されていた。

今日も雨だろうかと思いながらウトウトしていると、いつの間にか夜が明けていた。
時間が経つにつれ、空は明るくなり3日ぶりの青空が雲の切れ間から見えた。

出勤するころには、すっかり晴れ上がり、強い日差しが濡れた地面を乾かし始めていて、空気は澄みわたり、緑が青々とし、青空が一層青空だった。
そして、はるか先に見える山脈の向こう側には大きな入道雲が立ち上っていた。

「二三雲」。

思わずつぶやく。

今月の初めに浜松博物館へ「山本二三展」を観に行った。知る人ぞ知るアニメーションの美術さん。ジブリ作品など、多くのアニメーション作品の背景を手掛けた人である。

つい先日、新聞の小さな訃報記事にその名前を見つけた。

素晴らしい数々の作品に出会わせていただき、ありがとうございました。


公共性が・・・。

2023-08-22 21:29:32 | 日記
コンビニのおトイレを借りた時の事である。

ドアを閉め、便座に座ると目の前の扉に張り紙がしてあった。
文章を読んでみると、丁寧な言葉遣いではあるが、とても困っていることが伝わってくる。

その文章を要約すると「トイレ内ではスマホで動画を観たりゲームをして長居しないように」というものであった。

コンビニのトイレは公共であり、不特定多数の人が利用する場所である。
それなのに、我が家のトイレと同じような行動をしてしまう人がいるようである。

つい先日も、SNSの「Ⅹ」を見ていると、飲食店さんのご厚意でお客さんに出している「おつけもの」か、なにかが入っている瓶から、直接口をつけてお汁を飲んでいる人の様子の動画が拡散されていた。

そういう動画を観ていると、いつも気分が悪くなるが、一方で、なぜ、公共の場で我が家のような振る舞いができるのか不思議だった。

しかし、コンビニの張り紙を読んでいて、一つの解にたどり着いたのである。

コンビニのトイレに張られている注意喚起と、飲食店での迷惑行為に共通点があるとしたら、その対象者は「お金を払っているのだから、私が好きなようにして当然である。」というマインドが強いからではないかと思った。

大人の呼ばれる年齢になっても、公共性に乏しい人は時代に関係なく一定数存在していて、その人たちの為に、ルールを護っている人が振り回されてしまうという、残念な現実があるのである。

どんなに教育が進んでも、このような事象はどうにもならないだろうと思う。多様性を認めるとはそういう事でもあるし・・・・・・。

その感情の正体。

2023-08-21 17:36:52 | 日記
最近こんな出来事があった。

県道に対して斜め30度くらいの角度で横切っている細い市道を走っていると、その交差点の信号は赤。
僕の前を走っていた車は右側に寄って、停車した。ウインカーが出ていないので、直進か右折をするだろうと思い、左折をするためにウインカーを出して、停止している車の横に停車し、信号が変わるのを待った。

信号が変わり、ジワっと発信しようとすると、横の車が突然クラクションを鳴らした。
何事かと思い横を見ると、隣の車の左折ウインカーが付いていて、一旦停止し、運転席を見ると、ドライバーは東南アジア系の人で、「なにやってるんだ」という、両手を肩の上まで上げるジェスチャーをした。

その交差点の細い市道側には、右折と、直進と左折の為のレーン分けラインがないので、彼の気持ちも分からないでもないが、日本の交通ルールでは、左折する際には「指示器を出す」「左側に車を寄せる」がルール。
もし、彼が日本人なら、説明のしようもあるが、明らかに日本人ではないし、言語も違うので、無免許なのか、取得はしたが日本の交通法規を忘れてしまって運転しているのか分からない。

僕に非があると言わんばかりのジェスチャーを向けられ、戸惑ったが、後ろからも車が来ていたので、彼が右からかぶせてこない事を確かめてから、ゆっくりと発車した。

もし、あおられてきたら、あらゆる手段を講じて説明せねばなるまいと考えを巡らせていたが、バックミラーを見ると、車間距離をどんどん開けてゆき、いつの間にかいなくなっていた。

しばらくもやもやしていたが、ジェスチャーをされた瞬間に沸き起こった感情を思い出した。それは、

「ルールが守れないなら自国に帰れ!」だった。

冷静になって、思い返してみて、「ちょっとひどい感情だったな」と思った。
そして、なぜ、この感情がわいたのか、いろいろと考えてみた。

まず、他者が基本的なルールを守らないことで、迷惑を被ってしまうと嫌な気持ちになる。
それは、どんな国籍の人だろうと関係がない。

このケースにおいて、もし僕が短気で、暴力を厭わない人だったら、即座に車から降りて、後ろの車などお構いなしに、怒鳴り散らすだろう。
そして、その対象者が、同じ言語を母国語とする人であったら、その行為に非がある事を認めさせ、謝罪させるか、喧嘩になって警察のお世話になるであろう。

もし、対象者の使用言語が異なれば、コミュニケーションが取れず、ストレスフルな状況に陥り、暴力での解決をしようとするのではないか。
さらに、相手も短気で彼の文化が、「目には目を歯には歯を」という共通認識のある国の人であったら、いきなりナイフを持ち出すかもしれない。

あくまで、妄想であるがなぜそうなってしまうのだろうか。

短気という気質は個人的な問題なので、要因から外して考えるとすれば、言語の違いや文化の違いのために、互いの間に齟齬が生まれ、その事により強いストレスや危機を感じ、遂には異質と感じる者を排除したいという気持ちが生まれるのではないだろうかと思った。

互いに理解し合うためには、互いにストレスを共有し、互いに譲歩する必要があるため、理解し合うのには長い時間を要する。
そこに、なにかしらの価値を見出すことができなければ、暴力に訴え、排除するという行為を選択するのではないだろうか。

少し話は変わるが、SNS上では、自分の正義を振りかざし一方的に非難する言葉が山のように見受けられる。
まったく自分に関係のない事柄においても、口を出し罵る人がいるが、SNSは最初から「距離」のあるものなのだから、相手の言い分を理解する時間もあるはずであるし、言葉を選ぶ時間もあるはずである。

その距離感が保たれているにもかかわらず、一定数の人が、その考えに至らないのは、文字と映像で構成されている、小さな画面に映し出される情報であっても、自ら齟齬とストレスと危機感を生じさせ、耐えられなくなり、攻撃的になるのではないかと思う。


コロナウィルスを再考してみる。

2023-08-18 21:30:24 | 日記
昨年の今頃、身体をコロナウィルスに侵食され、床に臥せっていた。
7日目にようやく床から起き上がり、ふらふらする身体に鞭を入れながらリハビリ開始し、10日目に出勤しても良いのか保健所に連絡をするも曖昧な返事しかされず、もやもやしたまま11日目に職場復帰した。

それが一年前の話である。

3回目の予防接種後から一か月後に感染したことが分かったわけであるが、いくら思い返しても感染経路は不明のままである。
ちょうど仕事に追われていて、疲労がたまり、免疫力が低下していたことも発症した大きな要因であると思うが、それだけでは腑に落ちない。

復帰後も、感染前に取っていた予防行動を行っているが、未だに再感染はしていない。

いったい、なにがダメだったのだろうか。

もし、ネット上にあふれる陰謀論が正しいとするならば、命の明暗を分ける要素はなんなのだろうか。それとも、時間をかけて接種者の全員の命を蝕んでゆくのであろうか。

正しい情報が分からないまま、知らされないまま、未だに予防接種が促されているが、医療や福祉など、職業的に義務化の体になってしまっている以外の人は、ほぼ打たなくなり、特設会場もほとんどその役目を終えている。

それでも、時頼、感染者が増加し医療現場がひっ迫しているというニュースを観るが、5類に変更されてからは、政府も前ほどアナウンスしない。

経済はコロナ前に戻りつつあり、ポストコロナの時代を迎えている。
コロナウィルスは感染症であったということは理解できたが、それ以外の事は未だに何も分からないままである。


小学校合併問題から知りえた問題

2023-08-17 17:57:25 | 日記
小学校合併について妻と話をしていると、合併推進派の妻が、合併した方がよい理由を個人的な意見として話し出した。

そういう時の妻は話の途中の質問は受け付けない。だから。うん。うん。とただ頷く。
しかし、真逆な価値観を持つ妻の話は興味深く、色々考えさせられる。

妻は推進理由として、1学年1クラス15人未満の生徒数では、生徒間のコミュニケーションは意外と難しいのだと主張する。
それは教育者として働いていた頃の実体験を通しての結論でもあった。

それに対し、僕が小学生の頃は、1学年1クラス25人で6年間を同じメンバーで比較的のんびりと過ごせていたので、その考え方が上手く受け入れられなかった。

しかし、実際に、生徒数が15人くらいであると、きれいに2グループができ、どちらのグループにも上手く入っていけない児童は仲間外れにされていると思うようになってしまったのだという。

それに対し、グループ内でコミュニケーションを図れている児童達は、その児童を特別仲間外れにしたわけでも、イジメたわけでもなく、フラットな付き合いを続けていたそうであるが、どちらのグループにも溶け込めなかった児童は仲間外れにされているのだと勘違いを起こし、そのことを保護者に伝えたところ、過保護だった保護者は、学校に出向き、改善を求めるように訴えたそうである。

ところが身に覚えのない生徒たちは、「?」となり、教員も、他の児童の保護者もその状況に困惑。
そして、その家族と深く付き合うと後に大変になると思った保護者達は、その家族から少し距離を取ることになったそうであるが、そのことによってさらに状況をこじれ、その児童は転校してしまい、後味の悪い結果となってしまったらしい。

妻はその出来事から、生徒は沢山いた方が逆に孤立しにくくなるから、合併した方が生徒達にはよいと主張するのであった。

確かに妻の実体験から導き出した答えは妥当であると思う。しかし、生徒数が多くても、上手く溶け込めない児童は、活発な児童たちの中に埋没してしまっているだけになるのではと思った。

「なかよし」とは、周りが私に気を使い、私を仲間として承認しなければならないという立ち位置では、「なかよし」は成立しない。
仮に「なかよし」とは、「気を使わなくていい関係が自然に出来上がっている間柄」とするなら、それが理解できないと、どこに行っても孤立してしまうのではないだろうか。

もちろん、苛烈ないじめを受けている人には、居場所を変えることは生き延びる事であるし、その事によって人間関係を再構築できる可能性もあるので大賛成である。

しかし、被害者意識が強いことで、周りとの関係をこじらせてしまうケースは、当事者がそのことに気づかなければ、場所を変えても同じ躓きをしてしまう危うさを内包したままなのではないかと思う。
そして、保護者が過保護であり続けたならば、その児童は保護者から自立しない限り、不のスパイラルの中で悩み続け、社会に溶け込めず、いつか引きこもってしまうのではないだろうか。

はたして、小学校の合併問題は、そのような問題も考えた上で進められているのだろうか。

こんな身近な出来事ですら、分からない事ばかりである。


戦争はよくない。

2023-08-15 09:59:25 | 日記
介護職に就いている間、明治、大正、昭和一桁生まれの人達から、様々な戦争体験を聞いた。

人の声から聴く体験談は、戦争関連の本を読んだり、映画を観たりして追体験ができるという感覚の質とは違い、とても生々しいが、悲惨な状況下でも、人との繋がりや希望を感じさせる話もあり、感じ方は様々なのだなと思う反面、極限状態にさらされた人々の異常な行動の話には、やはり戦争は多くの人を不幸にするものだという結論に至る。

そして、その多くの体験談から、なぜ、死を回避できたのだろうかと考えてみた事があった。

仮に共通点を上げるとするならば、偶然や奇跡。突然運が味方したこと。権力や財力。と、いう力が働いたからなのではないかと思った。

そう考えると、最新兵器が導入される今後の戦争においても、戦争下で生き延びられる人は、この要因に該当する人たちなのではないかと思うが、権力や財力の庇護下にある人は確実に生き延びられることは確かなのである。

元々、不平等な世の中なのだから、戦争という有事になれば、その不平等はより顕著に表れ、肥大し、腐敗し、人と人の間により深い亀裂が生じさせる。
そのような世の中は、普通に生きている者にとっては、より窮屈な世の中と感じるようになるのではないだろうか。

だから、戦争は良くないのだと思う。

「変態の都」世界へ。

2023-08-14 21:51:54 | 日記
今日の朝、テレビの情報番組を観ていたら、東京ビックサイトでおこなわれた「コミックマーケット」の様子が流れた。

今年は、人数制限なしでおこなわれていたようで、スタッフさんや参加者さんの楽しそうな姿に思わず顔がほころぶ。
コスプレも、コスプレを「仕事」にしているプレイヤーさんが出現し、世の中の価値観もずいぶん変わったなと思っていると、頭の中である言葉が突然よみがえった。

それは、たしか、安永航一郎さんの「県立地球防衛軍」と言う漫画の一コマのセリフだったと思う。(陸軍中野予備校だったかもしれない・・・)
少年サンデーで連載されていた時の、どの回のどの部分なのか、その前後のストーリーさえも分からないのであるが、「変態の都」と言う誰かのセリフの後で、確か、主人公が「コミケ」をディスった言い回しで、「変態の都」というワードに返事をしたシーン。

当時、そのコマに大笑いしたせいか、なぜか記憶に残っていた。

あれから、ウン十年。「ヲタク」とか「腐女子」いう呼称もあまり聞かなくなり、コミケは音楽フェスと肩を並べるほどに社会から認知され、海外からの参加者さんもいるほどになった。

「変態の都」は、今やワールドワイドだ。
そして、もはや、文化といってもいいのかもしれない。

死ぬまでに、もう一度参加してみたいなぁ。


小学校の合併問題を考える。

2023-08-10 21:23:32 | 日記
小学校の合併に反対する人たちの気持ちを考えている。

少子高齢化が顕著になったころから合併の話は出ていて、反対の運動もその話が持ち上がった時の今は鬼籍に入った自治会長さんから始まり、そして、この地域を愛してやまない人たちの手によって受け継がれてきている。
今回、署名運動に踏み切られたのは、これまでは内々で「合併赦すまじ」でおさまっていたのが、教育委員会との話し合いが設けられたことによって、旗色が悪くなったからではないかと推測する。
反対する人たちは、「地元の子供たちの為」とか「小学校が無くなれば人もいなくなってしまう」という理由を軸にして運動を継続しているようであるが、理由があまりにも漠然過ぎていて、客観的に見れば感情論のように映る。

実際、話し合いが設けられた際、反対派に強硬姿勢を取られたため、教育委員会の説明はしりすぼみになってしまい、その場を問題の先延ばしという落としどころで終えたが、顕著になった少子化とランニングコストを考えると、市も、教育委員会も、最後は力技で合併に踏み切るのではと思う。

しかしである。

教育委員会も合併反対派も、子供たちが、社会で必要な基礎を様々な形で楽しく学び、子供と言う限定期間を有意義に過ごすことが前提に考えているのだろうか。
人とモノを頻繁に往来させることがコミュニテイーを維持する為の必要条件ならば、現状維持という選択はコミュニテイーの衰退を意味する事を理解しているだろうか。
そして、思考の柔軟性が乏しくなった大人のエゴに子供たちを巻き込んではいないだろうか。
子供たちの未来をないがしろにしてはいないだろうか。

最後に、僕が小学校存続を訴える立場ならば、妥協案として次のような意見を述べると思う。

1,校区外に住んでいる進学先に私立中学を希望している子供たちを積極的に受け入れて、自販機すらない環境の、野山に囲まれた学校で六年間の学校生活を楽しめるように体制を整える。
(延命を考えるなら、既成概念にとらわれず、特化すればよいと思う。進学する人は、塾も通っているのだから、学校では、テストを廃止して、地元の子供達とのびのびと授業を受けられるようにすればよいと思う。)

2,この地域の70%を占める田んぼや山の一部を放棄し、住宅を誘致し、人口の増加を図る。
サイドコーナーの地区といっても、取り残されているだけであって、車さえあれば工場群までのアクセスはとても良いのである。
(1980年後半にも、住宅誘致の話が持ち上がったが、治安が悪くなると(よそ者を嫌う)訴える老人の強い反対によって計画はとん挫した。)

しかし、どちらを選択するにしても、大人の考え方の柔軟性が求められるのものなので、どちらも却下されるのではと思う。

小学校の合併と反対運動のはざまで。

2023-08-08 10:42:29 | 日記
小学校の同級生が訪ねてきて、いきなり「これに署名して」と、A4のプリント用紙を差し出された。

A4用紙に引かれた枠線の中にはすでに数名の名前が記されていて、少し戸惑っていると、「小学校を残すのにいる」と迫られた。
そして、彼は「署名する事はこの町に住む者にとって、卒業生にとって、当然の行為である」と言わんばかりの圧力でボールペンを突き付けてくる。

僕の住む町では、過疎化と少子化が進み、市の教育委員会は小学校の合併を進めているのですが、市報の中でも何度か、その問題について会合の場が設けられたことが報告されていて、そのことによって、合併反対派がいることは周知していた。
その活動がついにに署名活動にまで発展したことを実感したが、僕は合併に対して抵抗がなく、むしろ推進派的な考え方であるので、違和感しかなかった。
しかし、彼は、この狭い町で自営業を営んでいて、住民や権力を持つ人との繋がりがあるので、同調もひときわ強い。

おそらく僕とは真逆の人であるから、僕の考えなど聞く耳はなく、「早く署名しろ」無言の圧力をかけてくる。
時々お世話にもなっているので、仕方なくペンを取り署名しながら、「けど、人が減って言ってるんだからさ・・・」と、ささやかな抵抗を試みるも、「そやけど、ひつようやろ!」と、語彙を強め言葉を遮った。

僕は何故、そこまでして反対するのかを知りたかったのであるが、「そやけど、ひつようやろ」は、「もう、それ以上聞くな」と同義語だと悟り、自分の意思を貫く強さは勝てないし、ここで思想の議論を始めたところで、最後は御上が決定する事であるから、言葉を飲み込み、違和感を覚えつつ署名をした。

そして話題は消防団の話になり、『退団したんやてな。なんで? 』と聞かれたので、もう、時間も経っているし正直に打ち明けても良いだろうと「斯斯然然で・・・」と話すと、これまた否定されてしまった。
退団に至った気持ちを、少しばかりでも理解してもらえるかなと期待して本音を語ったのであるが、彼も以前消防団に所属していて、圧倒的に地元消防団の肩を持つのは当然の結果だった。


最近、初老に達しつつある同級生と話をしなければならない時に感じるのは、思考が凝り固まった人が多いなと思う事である。
いやちがう。むしろ、子供の頃の資質に、歳を重ねた間に身に着けた「肩書」が、それを増長させただけなのかもしれない。

小学生の頃、野山や川を走り回って遊んだこともある人だったけど、同調圧力をかけてくる人になったことに淋しさを感じ、もやもやだけが残った。

部屋に戻り、妻に「なんだったの?」と聞かれたので、「小学校の合併反対運動の署名をもとめられた」と返事をすると、「卒業生なんだから、それでいいじゃない」と言われたが、もやもやは解消されず「なんで、小学校に愛着がわかないんだろう。僕は、異端なんだろうか? 」と聞くと、妻は何も返事をしなかった。

ガソリン代があまりにも高すぎると感じるのは間違った感覚なのでしょうか?

2023-08-03 09:59:53 | 日記
ガソリン代がどんどん値上がりしている。
いつも、2000円分しか入れないのですが、リッター当たり10リットルに迫る勢い。
車に頼り切っている田舎では、懐がかなり痛い。
なぜこうなっているのでしょうか?

朝刊の記事によると、政府はそれでも補助を止めてしまう方向らしいのですが、それは脱炭素化に反するからだそう。

化石燃料であらゆる物を作り、あらゆる物を動かし、消費させ、それに依存する事で経済が回っているのに、代替え案なしに「環境に悪いからやめてしまおう」というのは納得がいかない。

普段から、エネルギーに頼り、物を作ったり、動かしたりすることで、生活していない人たちには理解できないのでしょうか?

もし、「環境に悪いからやめてしまおう」というならば、まず、コストコやAmazonという外資業を国内から追い出してはどうだろうか。
また、インバウンドで外貨を得るためには、人とモノの移動が不可欠であるのに、人とモノの移動を支えている現場の人達を「奴隷」扱いしているようにも感じる。

なぜ、議員になろうとされたのでしょうか。
なぜ、生活に密着したことが分からない人を国会議員にしてしまうのでしょうか。
選挙は限られた人に利益をもたらすためのものではないはずであるのに、どうしてそんな構造がつくられてしまったのでしょうか。
貨幣とあらゆるサービスを交換する事のみで生活できている人には理解できないのでしょうか。
権力を得て、言葉を扱うことのみで高い対価を得られる人たちには、理解できないのでしょうか。

もし、この事象を十分理解していて、その上で、意図的に私達の生活を無視しつづけなければならない理由があるとしたら、その大義とはなんでしょう。
この先、日本にも戦争が待ち構えているというのであれば、理解できるのですが・・・・・・。