硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

津久井やまゆり園の悲劇から考える。

2016-07-30 20:27:40 | 日記
容疑者の彼が護送される姿をテレビで観た。笑っていた。達成感がにじみ出ていた。俺が正義なのだと言わんばかりの表情であった。

そんな彼に、誰が命は尊いものであり、犯した罪を償う必要性を説くことが出来るだろうか。もし、彼が同じ境遇に陥った時、自身の罪の深さを自覚するだろうか。目の前に迫る恐怖に、自身の狂気を思い知るだろうか。

その狂気を、認める世界が存在するとするなら、それが、正しいと思っている人たちの世界観であり、その世界観がある限り、不安定な世界は続いてゆく。しかし、それが世の中なのだとも思う。

これ以上は、なにも分からない。ただ、僕の頭脳では何も導くことが出来ないという事だけは分かった。
だから、賢者の言葉を借りて、迷走した考えを一先ず着地させておこうと思います。

哲学者、ブレーズ・パスカルは言います。

「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧倒的だ。そのどちらも誤りである。だから、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならないのだが、実際にはそれは上手く成立しない。そこで、人は正しいものを強く出来なかったので、強いものを正しいとしたのだ」


津久井やまゆり園の悲劇から考える。その2

2016-07-29 21:51:02 | 日記
障碍者に対し差別や偏見がなくなることで、ノーマライゼーションと言う言葉は、言葉の役目を終える。

乙武さんの不貞が世にでた時、世間は乙武さんを叩きに叩いた。障碍者である乙武さんを、健常者と同じように扱ったことに対しては、差別や偏見はなかったと思うが、その批判の中に、妬みを感じずにはいられなかった。
もし、乙武さんが四肢を欠損していることにコンプレックスを強く感じ、内に籠って生きていたなら、不貞を働いても、多くの人はあそこまで非難しなかったであろう。もしくは、同情の目で擁護しただろうと思う。
なぜなら、「彼は私より劣っている」と、査定するからである。

そのように、立場によって、視点や態度を変える人や、自身の事も知らずに、私が正しいのだと思い込んでいる人が存在している以上、ノーマライゼーションとは何かと、問い続けられてゆくだろう。しかし、それは、ごく一部の限られた範囲の中だけに留まり、この先も、日の目を見ない、マイノリティな言葉としてあり続けるであろうと思う。

津久井やまゆり園の悲劇から考える。

2016-07-28 20:06:07 | 日記
昨日の続きを少しだけ。

身体に障害が生じ、自身の力では何もできなくなり、「なぜ、死ねないのか」「早く死にたい」と思っている人や、要介護者になった人を、介護するために、それまでの生活を放棄し、追い詰められてゆく人々の小さな声は、小さな声だから聞こえないふりをすればよいのだろうか。第三者は、励ますことで、人権を擁護しているだけで、追い詰められている人たちの苦を取り除いてはやれない。
社会福祉と言う資源を必要としている人々を、単一に捉えてはいけなかったのではないか。

容疑者の思想は否定する。しかし、理想論を声高らかに上げているだけでは、二律背反でありつづけるしかないのではないか。
それでは、現場で苦悩している職員が疲弊するばかりではないのか。

無関心になる事、もしくは、それが、輪廻する為にその人に与えられた修行なのだからと唱え、どこかで割り切ることでしか精神を保つことが出来ない者は、その場から去るしかないのではないかと近頃考えるのである。

悲しい出来事を考える

2016-07-27 10:54:50 | 日記
社会福祉と言う職業に就いている者として、障碍者施設で起こった事件について、重い口を少しだけ開いて重苦しい思いを語っておこうと思う。

朝刊の一面で大きく取り扱われ、海外のメディアが取り扱うほど注目度は高くなり、時間が経つにつれ容疑者の背景が少しずつ浮かび上がってきていて、その真相は複雑化しているが、どんな動機であれ法治国家の元では殺人は許されるものではなく、近代文化社会の中では倫理的にも間違っていると思う。
したがって、意思疎通がとれない人であろうとも、人としての尊厳は擁護せねばならない。

しかし、一方で、社会から、隔離されることを求められ、客観的に見て、生きる目的もなく生きることは、その人の人生にとって、生きるという意味を成しているだろうかと言う偏った疑問が頭をよぎるのも、また、人間であるように思うが、何故、存在しない方がよいと認識されたのであろうか。
その疑問に対し、シンプルに答えるなら、きっと、「その存在は存在自体が私を不快にする」からではないかと思う。誰もが、隣人を兄弟姉妹と考えられるならば、「不快感は共有されるもの」になるから、そこには「赦し」と「共生」が育まれ、隣人を迫害しようとする思想は生まれないのだと思う。

もし、「私を不快にさせる」という感情を誰もが抱くとするならば、フロイトの説から考えると、排除しようとする感情も同時に抱かれることになる。
しかし、実力行使で排除しようとする思想に至るには、最初から「ためらい」が欠如しているか、外部からの強い影響が考えられる。

影響といえども、様々なケースがあるが、容疑者の場合、ネットによるところも多いように思う。
そう考えるのは、仮に、自身で考え、自身でたどり着いた思想の下では、容疑者が書いた手紙の内容にはならないであろう思われるからである。

言論の自由が辛うじて保証されており、誰もが自由に言葉を発信できる状況下では、抱いた疑問に対し、ジャストフィットする言葉に出会う確率が高く、同士との出会いは長い孤独から解放される。「一人ではないのだ」という気持ちは、どんなに偏った思想であろうと、共感者が存在しているのだから、アンチテーゼである思想ならば、誰が何と言おうと貸す耳は持たなくなるであろう。そして、同士を増やし、共感と共に思想に傾倒してゆくのも、そのような考え方をする人にとっては自然であるように思う

人間の思い込み、思想への傾倒というものは、社会にとって紙一重の存在であり、良い面がでれば、社会は安定と幸福に巡り合うが、悪い面がでれば、荒廃と苦難が待ち受けている。それは、歴史を見れば自明であり、なにが、危険分子であるのか分からない状況で、公的機関が危険分子の芽を摘むことも困難である。

また、この事件を考えるうえで、なぜ社会福祉が存在しているかも考えねばならない。

もし、仮に、社会から、隔離されることなく、街中で、皆と同じように生きることが出来ていれば、偏見や差別等は生じず、家族に守られ、街の中に自然に溶け込んでいるはずである。
でも、現実はそうではない。だから、福祉施設は、社会で暮らす人々の、生活のリスクを軽減する為だけに存在しているのだと感じても、なんら不思議ではなく、そのような考え方が、何かを交換する事で対価を生むことの出来ない者は、資本主義という思想の中ではメンバーとして認められないのだという、自己満足、自己完結な思想に至るのではないだろうか。

さらに、思い込みは悲劇を生む。

容疑者が、障碍者が、普通に生きることが出来ず、自身の人生に悲観していて、死をもってのみしか、幸福に至ることができないのだと思い込めば、容疑者は、障碍者にとって救世主になりうると考えるのではないか。
私達は意思疎通のとれぬ障碍者である人達の気持ちのすべてを理解することが出来ない。だからこそ、受容し、赦し、気持ちを推し量ってゆかねばならないが、言葉にできぬ気持ちが、心の中で本当に死を望んでいたとしたら、社会福祉としての役割は、人を救済するという正義をもって、受け取る側の尊厳を損なってしまっている事になる。
このように、思想に矛盾が生じる場所は、人の心が定まらず、不安定になるのである。

また、容疑者は擁護しないが、福祉施設職員に神や聖人のような振る舞いを求められても、皆と同じ人間でしかないのだから、どれだけ対価を積まれても、超越した人格を身に着けることなどできるわけがない。

社会は、人は、求めすぎなのではないだろうか。
だから、このような、悲劇が生まれたのではないだろうか。

公的システムとして、福祉施設に家族の代わりを引き受けさせるなら、行政は、これからの福祉施設は、公的システムとしてどうあるべきかを再考察しなければ、容疑者を崇め、自身の人生を賭し、悪行を模倣するものが出てくるのではないかと思う。
福祉施設事業主も、言葉だけの立派な行動指針を掲げるよりも、まず、生きることには意味などなく、生きているから生きるのだと、職員に諭してゆかなければならないのかもしれない。

無慈悲に奪われた命が、次の世代の為に、役立つことを切に願うと共に、亡くなられた人たちのご冥福をお祈りします。

介護あれこれ

2016-07-21 19:54:20 | 日記
パーキンソン病という病を皆さんはご存知でしょうか。
神経伝達の一つであるドーパミンが減少する事で、主に、手足がこわばり、動作が緩慢になり、転びやすくなる症状が発生するのですが、現代の医療では、今の所、治すことも、止める事もできない病であるようです。

介護現場では、機能訓練の項目で歩行が挙げられていると、歩行を促してゆかなければなりません。その場合、本人の意思が尊重されなければなりませんが、介護現場では、歩くことを優先項目とし、それが本人の為なのだという大義名分の下に行われているケースも見受けられます。
そのような考え方の介護職員さんの傾向として、パーキンソン病を患っている人にも同じ考えを適用しようとし、疾患で歩行が困難になっているのではなく、歩く気がないから、歩けなくなるのだという、精神論に落とし込み、異を唱えるもの否定します。

たしかに、ドーパミンの減少が原因でもあるので、気持ちが高揚すれば、上手く歩くことが出来るかもしれません。しかし、パーキンソン病と診断されている以上、精神論至上主義に傾倒してしまう事は問題であると思うのです。

そのような事を考えていた時、何事も、精神論で片付けてしまおうとする人は、性別に関係なく身近に存在するのだという事に気づいたのです。

彼らは、異を唱えられると、自身の保持と統一に力を注ぎ、排除しようとしますが、これは大変危険な思想であることを彼らは知りません。
彼らの考え方を例えるならば、我々には神がついており、かならず神が守ってくれるから、死して故国の礎となれ。という言葉と、同義語であるからです。

そのような精神論を主とする原理主義を、組織として脆弱な介護現場で展開すれば、組織は自ずと解体されてしまうことは自明の理であるような気がするのです。

私の家庭で、私自身の主義、主張は反映されるのは、私自身の家庭という、コミュニティだからですが、その思想を、私が事業主ではない事業所で展開すると無理が生じます。それは、事業所のメンバーが私の家族ではないからという、とてもシンプルな理由なのですが、それが、なぜだか彼等には分からないのです。

たしかに、同じような価値観の持ち主が集まって、相互依存と言う形でコミュニティを形成することは可能であるけれど、根拠に普遍性が無い価値観に固執してしまうと、価値観を引き渡す相手は存在しなくなり、今のメンバーで事業は完結してしまうという結論に至ってしまうのです。

そう考えると、介護事業は、措置として機能し続けた方が、社会福祉としてのメリットが大きかったのかもしれないと思えてくるのです。

偏った思想?

2016-07-14 22:38:02 | 日記
ここ数年、選挙があるとかなり真剣に考える。僕の一票で何かが変わるわけではないけれど、議員を選ぶのであれば、自身に納得がいかないといけないといつも思うのです。

そこで、選挙も終わったので、僕個人が考える議員さんの選び方を、少しだけ記しておきたいと思います。
僕の住む町は、大きな企業の労働組合が後押ししていることもあり、昔から民主が(民進)優勢であるので、衆議院も参議院も、当選確率の高い人に投票します。
そして、比例代表は、右往左往してきたけれども、ここ数年は公明党に票を投じています。

公明党と言うと、驚かれるかもしれません。実際、妻や母にだれに投票したか聞かれた時、とても否定的に驚かれました。
公明党は宗教団体が母体になっていて、その団体からはあまり良いうわさを聞かないからですが、僕は、教団信者ではないけれど、日蓮聖人の「一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべし」という思想が、今もなお、教団内に伏流しており、牧口常三郎さんや戸田城聖さんの意志が受け継がれているのなら、信じてみてもいいのではと考えたのです。そして、自民党に待ったをかけられる唯一の存在であることも、大きな理由の一つなのです。

たしかに、政教分離が必要であることは、歴史を見れば理解できます。先の戦争も、よく考えれば、人が神道を利用した形であるので、その危険性は否めませんが、団体は先の大戦の辛い経験から発生したムーブメントであるので、同じ失敗は繰り返さないだろうと思うのです。

しかし、逆に、人は進歩せぬもので、金と権力の前では、思想など無力だっだと、改めて証明される機会になるのかもしれません。

日蓮聖人さんは、今の日本国を、また、自身が興した思想が幾重にも分かれていった現在をご覧になられて、何を思われていらっしゃるだろうか。

参院選を前にして。

2016-07-09 22:04:05 | 日記
明日は参院選である。選挙で票を投じれば、何かが好転するというわけでもないが、選挙権を放棄してしまうと、後々、後悔する事になることは間違いないと思う。
しかし、どの政党を応援すればよいかと考えると、巧く選択できない。選挙で票を投じるにあたり、考えを右往左往させていた所、思い浮かんだことを記しておきたいと思います。

選挙公約に、介護や育児等の社会福祉サービスの充実を図ることを掲げている方が沢山いらっしゃるのは、私達が福祉サービスを希求しているからである。
しかし、社会福祉は補助的なものであり、万能ではない。
熊本震災時にEテレで問題提起していたが、震災が発生した際、社会福祉を担っている人たちも、同じ被災者になってしまったため、自身の生活を支えなければならなくなり、それまで、社会福祉を利用している人達が、被災前のようなサービスを受けられなくなってしまったのである。

よく考えれば、地震という天災は日本という国土で生活している以上、避けられないものであるのは自明であり、社会福祉を職業としている人たちも、被災時は、共に被災者である。

上記の事柄から考察すると、福祉の充実を求める事は、福祉への依存という側面も付随している為、依存しきってしまうと、天災時には、生存することが困難になる危険性を含んでいるように思う。
福祉に依存した状況で被災した時、役所や議員に噛みついても、怒りは発散できるであろうけれども、無駄なエネルギーを消費するだけで、状況は好転しない。

そのリスクを回避するためには、平時から、地域や家族や親戚との関わりを保ち、且つ、自身が出来る事を知っておいた上で、社会福祉サービスを利用するという形をとっておくことが必要ではないかと考えられる。

なかなか難しい事ではあるけれど、東南海地震の発生がささやかれている昨今であるから、社会福祉サービスというものが、同じ地域の市民によって担われている以上、「いつ、いかなる時も、変わることのない、サービスが提供され続けることは出来ない」ということを、知っておかなければならないと思うのです。



テロリズム

2016-07-06 21:36:46 | 日記
バングラデシュで起こったテロ行為が、隣人のために働いていた日本人の命を奪った。

実行犯のなかには、高学歴で裕福な青年たちもいたそうである。

今回のテロは貧困や学歴が理由ではなく、誰かの「言葉」を信じてしまったようである。

それを、洗脳と言ってよいのかどうかは分からないが、彼らは、何かをなすために、無差別に人を殺めてしまった。

イスラムと言う名が独り歩きしているが、思想もよく分からない以上、彼らの、彼らを操った人たちの動機は、資本主義や自由主義、個人主義が生み出す社会への反抗ではないように思う。そのようなテロリズムは、歯止めの効かぬ状態であると考えられ、グローバル化した、個別化したテロ行為の撲滅は、もはや不可能であると思う。