硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

わろてんか。

2019-07-27 22:22:27 | 日記
過熱報道気味な闇営業問題を少し考えてみた。

問題がよく分からなくなってきているので、個人的な考え方で整理をしていくと、

まず、前例が明確にあるにもかかわらず、闇営業を依頼された人が、なぜ闇営業と分かっていて受けたのかという事である。
前例があるのだから、拒否する事も出来るであろうし、まずは会社を通せと言えるであろう。
テレビやラジオやCMに職があるなら、なおさらである。
食えないからメディアには登場する事がないから闇営業を引き受けるであるのなら、売り上げに結びつかない情報は週刊誌もわざわざ取上げないであろう。

相手が不明瞭なまま、踏み込まなくてもいいところに、踏み込んでしまったのは、なぜか。という問いがなされない限り問題は、解決に至らないであろう。

これが、もし、事務所を通していて受けていた仕事なら事務所自体に問題があるが、闇営業に事務所が加担していなければ、事務所の問題は、その次に来なければならないはずである。

嘘をついた事を謝罪したいという思いが、事務所に伝わらなかったから、個人的に会見を開いたという気持ちはわかるけれど、闇営業を黙認する事が、実力社会で売れない人たちを救済する措置なのだという理由だとしたら、闇営業を断ち切ってしまえば、夢を失う人たちもいるという事である。今だから考えられるのは、島田さんがすっぱりやめてしまったのは、売れない人の存在があったからなのではと考えられる。

だから、事務所は静観して過熱する報道をかわしたかったのだとしたら、会見はミスリードだったのかもしれない。
そして、なによりも、週刊誌からのリークは事前に通達されると言われているのが本当だとしたら、まず、事務所がどう対応するか指示するべきであった。そして、自己保身のために嘘をついてしまったことが、事態を大きくしたのではと思われる。

上意下達のピラミッド構造を持っていた組織が崩壊しかけていて、組織は構成する構成員によって成り立つのだという個々の意識の萌芽が、この問題を複雑にしているのだとしたら、ここにも父権制の転覆が起こり始めていて、変革してゆく社会の途上では、誰も事態を明確に説明できないから、着地点を見つけ出せないのではないかと、橋本治さんなら言うのではないかと思う。

個人的に思うのは、この問題の着地点の論点は、「誰を護るか」になるのではないかと思う。

人を笑わす事って、難しい。

放火というテロ。逆流し始めた人。

2019-07-18 22:17:17 | 日記
京都アニメーションが放火されて、多数の死者が出たと報じられていた。

安定した社会、個人主義な社会、比較的自由が認められている社会、格差はあるけれど豊かな社会が担保されている現代にあって、何故、個人的で、自身で膨張させた感情をもって、無差別テロを行うのだろうか。

被疑者の彼から、アニメの好きな人達が何を奪ったというのだろう。
殺戮しなければ許されないほどの個人的に大切なものはなんだったのだろう。
多くの人の楽しみや、明日への希望を奪うほど、それは大切なものだったのだろうか。
絵を描く楽しみを奪う権利が彼にはあったとでもいうのだろうか。
私が正しいのだと思うのなら、なぜ、犯行声明を出さないのであろうか。
そして、膨張した不満は、人を殺すことで解消されると思ったのだろうか。

ストレスフルな社会であることは分かる。それでも、それが許されるとでも思っていたのだろうか。

大人が不在の社会になりつつあるのだろうか。それとも、時代が逆行し始めているのだろうか。

アニメを作る現場がテロの目標になる世の中って、辻斬りが横行した江戸時代と変わらないのではないかと思う。

それでも、選挙には行こう。

2019-07-16 21:22:24 | 日記
選挙が近いので、個人的な意見を一石。

時々、議員さんに何を求めればいいのかを考える。
毎日何処かで殺人事件や詐欺や窃盗が行われていて、自動車事故も自殺者も0にはならないけれど、平和な日々を送れていると思う。

個人的な気持ちを吐露するなら、他者に対して、気を使いすぎて、その度に生きている事の意味を失ってしまう。

生きづらい世の中だなと思いながらも、何とか息をしている感じはする。

地域に目を向けても、人口減少は避けられず、自治を任されている高齢者の人達はどうする事も出来ないけれど、長い時間を掛けて、インフラは整備され、不便ではあるけれど、生活は十分に出来ている。

小学校はあと数年で合併され廃校となる話が持ち上がっていて、現実味が帯びている。

それでも、市政は機能していて、企業を誘致したり、防災や福祉、教育に力を入れていて、持続可能な社会を目指しており、安定している方であろうと思われる。

県規模でも同じような感じであるが、南北に長い三重県の南勢地区の人口減少には歯止めがかからない。

細分化して、市民や県民の一人一人の声を拾い上げれば、その分だけ問題は上がってくるであろうけれども、平均的には安定しているように思う。

起伏のない生活を求めれば、社会的格差は広がり、社会はあらゆる面で衰退してしまうが、安定は継続されてゆくように思う。

国に安定を求めれば、時節に合わせて法は変わってゆくであろうけれど、その結果、安定した生活に支障をきたすというリスクは否めないであろう。

それでも、今のままでいい。と、多くの人は思うだろう。しかし、人は必ず死に至るのだから、自身が死んだ後の街や国の事を考えて、投票した方が有意義なのではないかと思う。

今、何故また「ヱヴァンゲリヲン」なのだろうか。

2019-07-09 21:41:06 | 日記
ご飯を食べながら朝の情報番組を観ていたら、ヱヴァンゲリヲンの新作映画の予告映像が、世界の各地で、10分間ほど流されたと報じられていて、心がざわついた。

再放送位で、観始めた「新世紀ヱヴァンゲリヲン」は、物語に緩急があり、ポップでミステリアスで、セクシャルでマニアックで、誰かの一番触れられたくない部分を刺激し、好きな人はストーリーを深読みするような構造になっていて、庵野監督の言われているように、「狭いユーザー」に向けて作られたものであったが、不思議と時代にマッチしてしまい社会現象にまで発展した。

テレビシリーズの最終話も、不思議であったけれど、劇場版では、ユーザーの気持ちを断ち切るような完結にしたのも、すごく納得をしていた。

なのに、まだやるのかと思った。

確かに、待ち望んでいるユーザーは今では世界であるから、物語がしっかりしていたらそれなりの収益は出るのではないかと思う。しかし、あの息の詰まるような閉塞感の有る世界観にはまり込んでしまう人は世紀末待望論者であろうと考えられ、そんな人たちを増やしてどうするのだろうとも思った。

映像がどんなものであるのか、気になったので、その夜、YouTubeで検索すると、いくつかアップされていたので観てみた。

あの世界観が、そのままの姿で蘇ってきたのは確かであったが、20数年という月日は作品を俯瞰してみることを可能にした。

あの10分ほどの映像には、リドリー・スコット監督やjjエイブラムス監督や、リュック・ベッソン監督の「美味しいところ」が詰め込まれているのではないかと思い、それは、「ヱヴァンゲリヲン」はエンターテイメントな映画である事を意味し、それ以上でも以下でもないという事なのだと思った。

そして、深読みすると、庵野監督は恐らく、理屈抜きにシンプルに自分が面白いと思うものを作ったのではないかと思うのだけれど、僕はもう観ないと思う。