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硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

機動戦士ガンダムジークアクス。 あえて言おう。最高だと!

2025-06-25 20:57:55 | 日記
機動戦士ガンダムジークアクス最終話を観終える。

恥ずかしながら、あの短い時間内で、「おおおっ!」「なるほどっ!そうきたかぁ!」という大きな独り言を何度も出してしまう有様であった。

ジークアクスにあの機動性があったのは、アムロレイの意志が宿っていたからあり、(操縦かんを握るアマテ・ユズリハに手を差し伸べたのは、民間人の時の青いジャケットを着たアムロレイなのだろう。もうララァが殺されるのを観たくないと言ってたしね・・・。となると、アマテ・ユズリハの携帯に連絡を送っていた謎に人物はジークアクス?!)そのためにはジークアクスにオメガサイコミユが搭載されることも、この世界線には必要だったのである。

そして、この世界線なら、地球は守られ、シャリア・ブルも生き残り、(ファーストガンダムではとても切ない亡くなり方だった)デギンに暗殺されなければ君主となったであろうダイクン家の者が、国の君主となり、(感動しました)思い込んでいたシュウジを目覚めさせたアマテ・ユズリハによって、向こう側のララァは無事帰還し、(ジークアクスも拘束具がはずれるのではとハラハラした)こちら側のララァもキャスバルと「めぐりあえる」のである。(泣けましたねー)

大変ドラマチック。観ていてずっと震えていた。改めて思うが、なんといっても「ファーストガンダム」が物語として一番良いのである。

ジオン公国のあの建物の(当時のそれまでの時間帯のロボットアニメの視聴者層にわかりやすくするためには仕方がなかったのかもしれないが、悪者みたいでいやだった)表情が穏やかになっていてうれしかった。

エンドロールの声優さん所に、池田さんや古谷さん潘さんの名前があったのも、うれしかった。

最後まで最高だったジークアクス。制作に携わってくださった皆様本当にありがとう。

僕の「機動戦士ガンダム」はもうこれでおしまいとしたい。楽しむには歳をとりすぎたのだ。だから二次作品はこれ以上作らないでほしい。

最後に。
機動戦士ガンダムを観始めた頃、登場人物が「ずっと年上のお兄さんや姉さんたち」だったけれど、ジークアクスで年上だったのは、「デギン・ソド・ザビ」だけになってしまった・・・・・・。


機動戦士ガンダムジークアクス。やるではないか。

2025-06-20 22:07:22 | 日記
機動戦士ガンダムジークアクス11話を観終える。

「機動戦士ガンダム」が好きな人にとっては、感動的なストーリー展開だったと思う。
エンディングもTMネットワークの「BEYOND THE TIME」に変更されていてそのままエンドロールが流れるところなど、震えてしまった。

ララァ・スンの登場から少しずつ「ジークアクス」の世界観がようやく理解でき始めた(この回の脚本に庵野秀明さんの名があったのにも驚いた)こともあり、不安になりつつも、一層面白くなった。

しかし、まだ疑問はたくさんある。


そこで、個人的な「こうなったらいいな」を妄想しておこうと思う。

まず、ジークアクスの世界は、向こう側のララァ・スンがアムロとキャスバルをどちらも死なせないという望みをかなえた世界線であったので、ガンダムにキャスバルが搭乗し、赤に塗り替え、サイコミュを搭載できた。それによって、キャスバルはララァと出会わなくて済むことになるのであるが、こちら側の「向こう側のララァとリンクするララァ」は、向こう側の出来事を夢として観つつも、こちら側では、「キャスバルに見受けしてもらえなくなる」という現実を受け入れる事が出来ないでいる。(ララァの境遇はずいぶん大人になってから何かの設定書にて知って、そんな設定にしなくても・・・・と思ったので、映像と共にその記憶がよみがえったのであるが、時間が経ってもやっぱり複雑な気持ち・・・・・・。)

その始まりによって、(覚醒したアムロとガンダムが不在の世界)木星帰りのニュータイプ、シャリアブルはギレンとキシリアの間で苦悩せずに済み、キャスバルと共に歩むことができた。

しかし、ジオン公国が勝利した世界でも、地球で暮らす人々の命を脅かす存在は排除できないでいた。(逆襲のシャアとリンクしてくるのですね。)
逆襲のシャアでは、アムロが地球に向けて落下するアクシズをⅤガンダムで回避しようとするのであるが、こちら側ではその役割をアマテ・ユズリハが担う事になるのだろう。今の時点ではアマテ・ユズリハを陰でサポートしている人物が誰なのかは分からないが、希望としては「アルテイシア」であってほしい。(キャスバル兄さんの行いを正したいのはこちらの世界も同じであろうし、ドズルを討ったなら彼女もニュータイプとして覚醒していると考えても良いし、軍人なのだから携帯電話のハッキングも容易いだろう)

そして、シュウジ・イトウの存在である。渚カヲル君を彷彿するような存在であるが、彼がララァの望みが詰まった世界を終わらせなければならない理由があるとしたら、その事によって「大きな犠牲が伴う」からであろう。

では、向こう側から来たというシュウジという使者は何者なのか? ララァの事をよく知り、一年戦争で多くの悲劇を体験し、この不条理な争いを止めさせたいと思う者であろう。そう仮定するなら、彼をこちら側に召喚させたのは、エルメスのコックピットで眠るララァ・スンでなければならない。となると、彼女がよく知る人物になる。となると、アムロとアルテイシアの子供という妄想はどうだろうか。(小説ではね・・・)

時間軸は一定ではなくなるけれど、そもそも次元と時空を超えて、こちら側に遭難してしまったエルメスとララァは、アムロとゲルググに搭乗したキャスバルが戦う以前に遭難してしまったという事になるのでその可能性はなくはないし、両親の想いをつなぐために召喚されたと考えれば納得がいく(しかし、なぜ、遭難してしまったのだろうか。それとも、こちら側の世界線を正すために、敢えて送られてきた使者と捉えるべきだろうか)

そしてアマテ・ユズリハとニャアンがジークアクスとジフレドに選ばれたのも、(この二人を護りたいという気持ちがガンダムに芽生えたのか、彼女たちを待っていたのかのどちらかである)この不条理な争いを、(物語的に暗くて重い終わらせ方にしない)終わらすためと考えると腑に落ちる。こちら側の世界は彼女たちの手によって救われ、彼女たちの犯した罪はその活躍によってお咎めなしとなり、彼女たちには普通の生活が戻ってくる。

次にRX―78ガンダムがこちら側に召喚されるという胸アツシーンの解釈である。
「取り返しのつかない事をしてしまった」後なら、本気で助けに来るであろうし、ララァが一番の理解者であるガンダムのパイロットを選ぶのも頷ける。
そして、赤いガンダムとの激闘を制し、無事にエルメスと共に向こう側に帰還できたとするならば、向こう側の世界も随分と変わるであろう。(それこそ、キャスバルとアムロは戦わなくて済むようになるはずである)

こちら側のアムロは、表舞台で活躍することなく機械いじりの好きな青年であり続け、人生をフラウと共にするだろうし、キャスバルとシャリアブルは、ザビ家を打倒し、スペースノイドを代表する者として、アルテイシアも地球連邦軍側の者として、力を合わせて戦争屋が起こす不条理な争いを解消させてゆくのではないだろうか。

こんな世界線でエンディングならば最高である。

ジークアクスの物語を考えていて改めて思ったのであるが、ニュータイプ達が望んだ世界とは、「人類が殺しあわない世界」なのだろう。

最終話、楽しみだなぁ。



野球と僕。

2025-06-04 19:25:05 | 日記
長嶋茂雄さんが死去された。

コンビニに陳列されている新聞の一面はすべてミスターの訃報で埋め尽くされておりテレビの各局はトップニュースとして報道していた。そして、どの局も現役時代の映像が流されていて、その中にはぼんやりと覚えているシーンも見受けられた。

ミスターの現役時代の映像の頃の家庭の多くはテレビは一家に一台という時代で、冷蔵庫や洗濯機などの家電も広まりつつあり戦後の尾を引きながらも豊かになりつつあり、チャンネル権は常に父で家父長制の真っただ中の時代ではあったが、ミスターは野球好きでない者の記憶にも残った偉大な人物だった。

しかし、それと同時に、70年代の映像を見ると胸の奥が疼いた。それは、野球が異常に好きな父の不機嫌な姿と重なるからでもあった。
父は贔屓にしている球団が負けると、あからさまに不機嫌になり、気に障るような言動をするものなら激怒され、その理不尽さが嫌だった。
おそらく、その父の態度が、僕を常に人の顔色を伺う性格にしてしまったのではないかと考える。

亡き父を恨むことは無益な思考であり、赦しが必要なのは頭では理解しているが、50代後半となった今でも、どこか吹っ切れないのである。 
嫌だった記憶が未だに自分の中で消化できないのである。余りにもしつこく思い出してしまう時には、いい加減にしろと自分に言い聞かす事もあるが、どうしていつまでも過去に囚われているのかと自問自答してみるが、今の僕が未来に目をむけていないからだという、どうにもならない結論を導いてしまう。

そんな重い僕の心情はともかく、長嶋さんの映像を観ていたら、突然頭の中である曲が流れだして、それが、リピート再生され続けてしまった。
その曲は、「侍ジャイアンツ」というアニメの「王者、侍ジャイアンツ」である。

「ズンタタタァ~、ズンタッタ! 」 で始まる曲ではなく、「おおじゃのほしがぁ~、おぉれぇ~おぉよぉ~ぶぅ~」の方だ。

アニメ「侍ジャイアンツ」は長嶋さんや王さん、川上監督などそのままの人物が登場していて、(確か多摩川の練習場のシーンまでもあったような記憶がある)現代では不可能な演出の激アツスポコンアニメであり、野球に興味のない少年たちにも本物のプロ野球を観る下地を作ったともいえる。

小学生の頃、あのオープニングの躍動感にカッコよさを感じ、よく下校時に歌っていた記憶がある。(今でもエヴァンゲリオンの残酷な天使のテーゼなみにカッコいいと思っている)

その時分は、娯楽も少なく野球も遊びの一つで、数少ないクラスメイトと放課後野球をして時間を過ごすのは、今の子供たちがゲームで遊ぶのと同じ感覚くらいのことだった。
しかし、父は僕を野球選手にしたがっていて、(ただただ押し付けられていた)それに対して僕は小学校3年生の時に自分のセンスの無さに痛感し、野球選手の夢は早々に放棄したが、口答えする事が許されなかった僕と父の間には大きな齟齬が生じていて、さらに当時の父は僕の気持ちを理解する術を知らなかったため、父とのキャッチボールすら嫌であるのに、ボールを落とすと腹を立ててばかりいる父が心底嫌いだった。

閑話休題。

そして、今日、少年の頃、それでもなぜ野球を楽しめていたのか、その理由がミスターの訃報で理解できたのである。

僕は野球が好きなのではなく「侍ジャイアンツ」はもちろんのこと、「ドカベン」「野球狂の詩」などの野球漫画(アニメ)が好きだったからである。
(学級図書にあった、漫画「長嶋茂雄物語」「王貞治物語」は何度も読んだ)

好きなものの影響を受けやすい僕は、野球アニメの影響を受けて、野球をやっていたに過ぎなかったのだった。
だから、少年野球には所属していたが、ほとんど休んでいて、試合にも一度しか出なかったし、父が不機嫌にならないために中学では野球部に入部したが3か月も持たず、不登校の原因にもなった。

・・・書いていて辛くなってきた・・・・・。

再び、閑話休題。

話は飛んでしまうが、何かのシーンや人物やキャラクターを見ると、「頭の中で曲が流れる」という、その不思議な現象は僕だけなのだろうか。
例えば、最近では、SPY×FAMILYのキャラを見るとadoの「クラクラ」が、呪術廻戦なら羊文学の「more than words」が流れてしまうのであるが、その現象を意識してしまうと僕はやっぱり変なのかなァと思ってしまうのである。

それはさておき、今でも野球観戦は苦手な方であるけれど、イチローさんの登場辺りから、各選手の守備力やバッティング力には見入るようになった。

そして、大リーグでプレイする大谷選手の活躍は、ニュースを通して必ず目にするし、ひそかに応援している自分がいる。

これは、野球嫌いの僕でも、ミスター・ベースボールマンがいなければ、達する事の出来なかった域であると思っている。

どうなる、これからの農業。

2025-06-03 17:25:03 | 日記
自民党の森山幹事長が小泉農水大臣に対し「正しい改革はしなきゃいけませんが現場の全てを知っているわけではありません」という発言をされて、「?」と思った。

難しい事は分からないが、改革を行う際には、どこから手を入れていかなければならないのかが分からないと、失敗するリスクがあり、結果的に途中で頓挫する可能性が高いというのは理解できる。

しかし、「全てを知っている人」が舵取りをし続けてきた結果が今である。

この紛れもない事実は、どう解釈すればよいのだろう。
はたして、森山幹事長は、この事実について詳細な説明ができるのであろうか。

もし詳細な説明が出来なければ、小泉農水大臣に向けて、「私は現場のすべてを知っている」というメタメッセージを含んだであろう、その自負は嘘になるのではないだろうか。

それとも「現場の全てを知っているうえで、私利私欲のために権力を行使していた」とでもいうのだろうか。

江藤さんや小泉農水大臣、そして森山幹事長のことといい、謎は深まるばかりであるが、そこから得られる解は、自民党は器だけは立派であるが、組織的に草臥れていて、私たちの未来を担ってくれない党になってしまったという事だろうと思う。

そして、焦土化した国を一から立て直し、国民が豊かになるために清濁を併せて吞みながら、身を粉にして働いた豪傑な国会議員は、もうこの世にはいないという現実を受け入れるべき時なのではないだろうか。

次の衆参の選挙において有権者は、枝葉末節にとらわれず大局に注視すべきだと思う。

分からない事の方が多いけれど。

2025-05-30 12:05:02 | 日記
来月から備蓄米が店頭に並ぶと報じられている。

安いお米が店頭に並ぶことは、市井の人々にとってはありがたい事であるが、あまりにもスピーディーなので、どこに問題あったのかが、わからないまま事が進んでいる。
参院選が近いという理由からであるなら、江藤さんも、小泉大臣と同じことをすればよかったはずである。
しかし、なぜか誰かが儲かる手順を踏んで、失言して、石破さんの後押しで続けますと発言し、翌日辞職した。
そのニュースを観た時、訳が分からなかったが、色々考えてみると、石破さん以外の誰かが、江藤さんは大臣の能力がないと査定したのではないかという思いに行き着いた。

それだけならシンプルでよいのであるが、もしこの仮定の「誰かが査定した」が的を得ていたならば、その事が現政府の抱える大きな問題である。
その査定者は石破さんにも政府をハンドリングする能力がないと査定したから、江藤さんは大臣の職を辞するしかなかったと考えた方が自然である。

そして、最初からシナリオがあったかのように小泉進次郎さんが後を引き継ぎ、江藤さんの働きがなかったかのように矢継ぎ早にことが進んでいった。そして、アクティブさと、彼の分かりやすくて分かりにくい発言に、なんとなく納得し、今に至っているように思う。

この事象から得られる解は、今更ではあるが、もう自民党という組織は肥大しすぎて自浄力を失ってしまい、新しい未来を築けない組織になってしまったということ以外にないと思える。

また、備蓄米の古古古米の味についても取り出さされているが、お腹が減っていれば、お米は旨いのである。もし、この大前提を忘れて古いお米の味を否定する人が多いとするならば、もう一度、日本が焼野原にならないと、米を食べられるありがたさが分からないのではないだろうか。 

戦争が終わって、たった80年しか経っていないのに・・・。

西加奈子 「きずもの」

2025-05-15 18:36:34 | 日記
新聞での連載小説が始まると、どんな作家さんであろうと、どんな作品であろうとも必ず2話までは読む。それは、2話読めば自分にフィットするかどうかが分かるからである。

自分自身の価値基準でしかないのであるが、物語が自身の興味を引くものであるか、著者の文体に美しさを感じるか、このポイントに叶わないと、とたんに興味が無くなり読まなくなってしまうのである。(読書がなかなか進まない理由はこれなのである。自分でももどかしいけれど、どうにもならないのである。)

先月末からの連載小説に西加奈子さんが加わった。

西加奈子さんは好きな作家さんの一人であるとは思うけれど、なぜだか合わないと思う作品もあるので、僕の本棚の西加奈子作品は文庫本3冊に留まっている。
また、西さんの本を手に取ろうかと思った一番の理由は、オードリー若林さんとの対談を観て、「面白い人だなぁ」と感じたからという、なんともミーハーな動機からなので、西加奈子ファンとは言えないと自覚している。

さて、連載小説の「きずもの」であるが、しかし、これが、なかなか心をえぐってくるのである。

それは、主人公である「松川貢」の気持ちに、共感とまでは言えないが「こういう側面もあったのかも」と思えたことが大きい。

僕が社会に出た時には、まだ戦中生まれの人がバリバリ仕事をしていて、セクハラもパワハラも「あたりまえ」だった頃だったので、そのような場を見る度に「なんでそんなことするんだろう」とひそかに思っていた。その経験から、おじさん達に対して「松川貢」が嫌悪感を抱く気持ちはとてもリアルに感じ、また、僕自身実年齢より若く見られることが多いので、「松川貢」のような驕りも時頼抱く瞬間や、彼が自己認識した自分の弱さを卑屈に肯定するところや、資質的な性癖に対しても「なかなか気持ち悪い」と思う反面「無きにしも非ず」という複雑な気持ちを抱いてしまったからである。

特に、「サーフィンにハマってます。フミ」の登場と、その後の貢の行動が描かれた回には、その場にいるような気持ちになり、18話では彼の行動に対し本当に胸が悪くなったのであるが、それは僕自身が、精神的に「おじさん」になりきれないまま「おぢいさん」になりつつあると認識してはいるが、(おそらく、理想的な、おじさん、おぢいさんというカテゴライズが明確に理解できないから『なり切れない』のではないかと思う)その曖昧さによって、西さんが描く「松川貢」を、否定しきれないことになってしまっている状態にいるのが、胸が悪くなる原因なのではと分析している。

さて、今日の19話では、急に9話のシーンに戻ったので、曖昧になった物語の記憶を辿って辻褄を合わそうと試みているのであるが、(つい先日、たまった新聞紙をリサイクルに出してしまった事を悔いている)もはや、忘れた部分はどうにもならないが、今後の展開によっては書籍化されても、「読後感が悪すぎて」手を伸ばせなくなるかもしれない可能性を秘めている。

しかし、西加奈子さんの、華麗で、かつ、心をえぐってくる文章で、おじさんたちの実態をどのように表現し、詳らかにしてゆくのかはほんとうに楽しみ。

最後に、もしも、西加奈子さんがこのブログを読んでくれた時の為に。

執筆活動は身を削るような想いと思いますが、無事完結できることを祈っています。
そして、今後の展開、楽しみにしております。



こんなこともあるんだね。

2025-05-11 17:19:54 | 日記
仕事終わりに某コンビニ店に立ち寄るのがルーティンになりつつある。

その理由の一つは、水分補給をしたい、甘いものを摂取しておきたいと身体が求める理由と、スマホでのキャッシュレス決済がようやく板についてきたからである。

そして、コンビニで購入するものも、いつもほぼ同じで、品切れしていなければ、「大内山牛乳のコーヒー牛乳」を選んでいる。(このコーヒー牛乳が一番美味しいんだよ)

コンビニに入ると、外周を回りながら様々な商品を眺め、飲み物のコーナーにたどり着くと扉を開け迷わず取り出す。そしてレジに向かう間にスマホを起動させバーコード決済の画面を出す。
そして商品をレジにおいて、店員さんにスマホの画面をさらす。すると店員さんはレジスターを操作しバーコード決済を読み取ってもらって「ありがとう」と言って商品を手に取り、店を出てるという一連の動作を仕事終わりの何か月間続けていた。

しかし、先日、財布の中の小銭が溜まっていることに気づき、「今日は現金で払おう」。と、携帯ではなく財布を持っていつものルーティンを行い、レジに商品をレジに置き、財布をデニムの後ろポケットから取り出そうとすると、レジの店員さんが「バーコード決済ですね」と言ってレジスターを操作し始めた。

一瞬「なぜに?」と思って店員さんを見ると、レジスターの前で財布を手にした僕を見るなり、「あっ、すいません。現金なのですね」と、恐縮されてみえた。

僕は、店員さんの様子を見て取り、「もしかしたら」と思い、「僕の事覚えてみえるのですか? 」と尋ねると、予想通りというべきか、「はい。いつも携帯で払われていたので・・・。」と答えられた。
少し驚きながらも要領を得た僕は、「お手数かけました。こちらこそすいません」と軽く会釈をすると、店員さんも「いえいえ」と笑顔を見せられた。

一日の間に不特定多数の人が訪れるコンビニ。だから、店員さんもお客さんの事をいちいち覚えていないだろうし、レジという仕切りを通してのドラマチックな展開などフィクションの物語の中にしかないと思っていた。

しかし、なぜか覚えられていたのであった。

いつものようにコンビニの外に出て晴れ渡った青い空を見上げると、少し気分が上がっている自分に気づく。そして、他者から存在を承認されていることを改めて知らされる。

程よく甘い「大内山コーヒー牛乳」を美味しく頂きながらも、「覚えられていたのかぁ・・・・・・。外出時の振舞には一層気をつけねばなぁ」と思った。

国境なき記者団の発表をどう思う?

2025-05-04 20:18:55 | 日記
今日の朝刊の記事の「国境なき記者団」による2025年の世界の報道銃度ランキングでは、日本は66位で先進7カ国の中では最下位となっていた。

相変わらずの低さであるが、まったく関心のない人にとってはどうでもいいことでしかないだろうし、「アメリカとカナダとフランスとイギリスとドイツと日本の報道機関の中で最も信用できないのは日本なんだよ」。と説明しても「だからなに? 」位にしか思わないだろうと思う。

そこで、こう説明したい。

「この結果はね、海外の記者さんが、日本人の多くは権力者の都合のいいように騙されているよと、言っているんだよ。それでも何も感じない? 」と。

もし、これでも、何も感じない人は、知らないうちに、言論統制され、改憲され、増税され、徴兵され、戦争が始まってしまっても、その時になって初めて「なんでこんなことになるんだ」と主張するのではないかと思う。

お米問題を考えてみる。

2025-04-23 19:05:25 | 日記
お米問題について、個人的な考えを述べておこうと思う。

たしか、僕の記憶が確かならば、数年前には「日本人の食生活が変化し小麦の消費量が増えたため、お米が余っている」と各メディアがアナウンスしていたように思う。
しかし、だからといって小麦への転作を進めたわけでもなく、減反を進めたように思う。
そして昨年、「訳の分からないもっともらしい理由」をアナウンスし始め、いつのまにか「お米が足らない」となり、必然的に市井の人々が「求めにくい価格」にしてしまった。

そして、そろそろと、メディアは輸入米を肯定し始めた。

なんだかなである。

このように事象を順序立てると、日本政府は、輸入米を優先的に消費させたいという目的が浮き上がってくる。

自動車など、他のモノを輸出しなければならない事情もあるが、食糧の生産を落としてしまう行為は、有事に陥った時、国民を餓えさせることになる。また戦争になると、経済制裁によって輸入は止められ、海に囲まれた日本は海上輸送も攻撃によって断たれる可能性が高い。

どれだけ貨幣を蓄えて、防衛費を上げたとしても、人が生きていくための食糧がなくては、短期間で結末を迎えてしまう。
しかし、それをわかったうえで、そのような政策をしているのであろうから、私たちの知りえないところに、利点があるのかもしれないが、日々の生活に欠かせないものが手に入りにくくなってきている事象は私達にとって大きな迷惑でしかない。

それでも、そのような政策を肯定する人に投票してしまったのも有権者の責任であるから、再び、黙って耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ばなくてはならないのかもしれない。



少子化の正体?

2025-04-22 18:47:37 | 日記
昨日の日記で「受け継がれなければならないものを手放さずにいると受け継がれなくなる」と、述べたものの、上手く納得が出来ずそのワードが頭の中をぐるぐる回っていた。

そして考えているうちに、絡まった紐の糸口が見えてきたので、書きながらまとめておこうと思う。

家族という共同体を受け継いでゆくためには、子供を他者にパスしなければならないことが前提にある。
これまで、男子、特に長男は「後を継がなければならない」という、誰が決めたかもわからない縛りによって、女子の場合は「嫁ぎ先で骨を埋めなければならない」という、これも良く分からない縛りによって家族という共同体は維持されてきた。
そして、今ほど豊かではなかった頃の日本人の多くの収入源は第一次産業であり、特に農地を必要とする農業は、受け継がれなければ収入源が断たれるという危機があった。
さらに女性はその環境下では、自立する事が難しく、「嫁ぎ先で骨を埋める」ことが多くの女性の生きる手段であった。家父長制とは、この暗黙のルールによって補強され、維持されてきた側面が大きい。

恋愛感情もなく、勝手に親が決めた嫁ぎ先での家事や育児、そして農業が労働となった女性は、奴隷と変わらなかった。また、それが脈々と続いてきていて、女性が自立するには社会は未成熟だったため、社会は女性の奴隷化という事象に目を瞑り続けてきた。

しかし、現代では労働も多様化し、女性も自立できるようになりつつある。
それに伴い、強固だった家父長制も破綻し始めている。それは、なぜか?

それを、個人主義という思想から考えてみると、なんとなくではあるが、その答えらしきものが見えてきたのである。

つまり、個人主義は家父長制の中にも存在していたのではないか、という考えから思考を進めてみたところ、そのように仮定すると、家父長制とは男性の個人主義によって成り立っていただけなのではないだろうかという仮説が生まれる。

家族という共同体では男性の個人主義は身体能力の差によってのみ担保されていて、身体能力が男性に比べて劣る多くの女性は、自立する術もなく、依存するか、奴隷になるかという究極の選択を強いられるしかなかった。そのことにより男性上位の社会構造が成り立ちやすかったのではと推測する。もちろん、天皇や将軍を頂点としたヒエラルキー構造が社会に存在していた理由も大いにあるが、家族単位による家父長制の正体はもっと単純なものだったと言える。

そして、女性は、限定された生活の中で、小さな共同体で出来ることは、「されてきたことを慣習と捉え次の世代にもそっくりそのまましてゆく」のか「されたことは私の代で終わらせる」という意思を持つのかのどちらかであるように思う。

もし、「こんなつらい思いは娘や息子にはさせたくない」という気持ちが強ければ、辛い労働の中で、どうすればその理不尽を回避できるのか何回も考えたはずである。

そして最後には、人生の選択は男女関係なく「個人」が決定してもいいのだと思い始めたのではないだろうか。

その想いと時代の変化は、時節によって上手い具合にかみ合い、新たな産業の勃興と第一次産業の衰退、先人の女性の働きによる女性の社会進出によって、親が決めた結婚などというものは必要でなくなり、小さな家父長制を維持する理由は、ほぼ無くなったといえる。

それは「男性が主体である個人主義」が「個人の個人主義」へと昇華したと捉えても良いのではないだろうか。

一昔前の男性にとっては、「訳の分からないまま上位から引きずれ降ろされて」、生きにくい世の中と感じるかもしれないが、多くの女性にとっては、「その生きにくさを生き抜いてきた」のであって、「その生きにくさを断ち切るため」に多くの女性は、「受け継がれなければならないものを手放さず」、「個人の個人主義」という理想的な思想を「水面下で誰にも悟られずに」獲得したことによって、少子化という時代を迎えたのではないかと思う。

逆に、男性が身体的アドバンテージのみによって威厳を発揮できる社会や環境下で、女性が今もなお下層で労働を強いられ、搾取されている国や地域などでは、人口が増え続ける要因と言えるのではないだろうか。
しかし、男性にも、他者に対して思いやる気持ちがあれば、こんなことにはならかったであろうし、そう考えると、これは人類が次世代の幸福を優先しきれなかった結果ではとも思えてくるのである。


高齢の親について。

2025-04-21 20:56:31 | 日記
昨年の夏、母は熱中症とコロナウィルスで倒れ(活動範囲が限られた高齢者で、しかもワクチン接種を六回も接種した上でコロナウィルスに罹るのは、納得できないでいる)一週間ほど入院しドクターの勧めもあって、(入院が長引くと認知症が進むからという理由で)退院したのであるが、夏は猛暑、冬季は寒い日が続いたため、自然と外に出る事が億劫になり、テレビの前で過ごす時間は次第に長くなった。

そのせいか、会話もちぐはぐなことが増えた。

経験的に、介護認定を受けた方がよいなと思い、母に相談するも、プライドの高い母は、自分がボケだしていることを認めたくなく、頑なに拒否した。

それでも、このまま見て見ぬふりをしてしまうと、後で大変な目に合うのは自分自身である。だからこそ介護職時代の経験をフルに生かして対応してみたのだけれど、どうにもうまくいかない。

「これは仕方なし」と割り切り、激しく怒ってみたら、しくしくしながら、ようやく自分の現状を受け入れてくれ、なんとか介護認定への道筋がついた。

認知症の人と会話するのは、苦にならない方だったので、怒らずとも大丈夫だろうと思っていたのであるが、実際には「そういうわけにはいかなかった」。

しばらくの間、「どうしてうまくいかないのか」考えていたのであるが、改めて「他人と親」は違うのだと痛感した。

それは、プライドの高い母にとって、子供である僕は「唯一の見下せる存在」であり続けたからだ。だからこそ、どんなに道理が通らないことでも、優越感を満たすために叱責してきたのである。

しかし、今回は遠慮せずに、あえて激怒したことで、その関係が一時的に破綻し、受け入れる気持ちになったようである。

高齢者の他者と関係を築くためには、受容と共感、審判的態度で否定しないことが前提に対応してゆくことが大切なのであるが、「介護職員と利用者」は「他者と他者」であるから「互いに線を引き思いやれる」ことができたのであるが、親子の場合は血縁なのでそうはいかないのである。

それは、長い年月の間「変わらない関係性」であり続けたことが大きい。

今思うと、僕には反抗期がなかった。それは父が怖い人だったことで抑圧されていたからである。
しかし、大人になって、よくよく考えてみると、反抗期は、無理矢理にでも親から離れ、一人の人間として自立するためには必要な儀式だった。

「子から一人の大人になり、そして親になる」ためには、「子と親」ではなく「親と親」という関係性にならねばならないはずであるのだが、親が子離れせず、子が親離れしない状態がずっと続いてゆくと、家族という共同体はいずれ破綻を迎えることになる。
「受け継がれねばならないもの」を手放せずにいると「受け継がれなくなる」ということをなぜか理解できない人がいるのである。

おそらくではあるが、そういう人は「受け継がれること」よりも「自身の将来においてのリスクヘッジ」のために子供は存在すると思い込んでいるように思う。

だからこそ、そういう考えを持つ親からは無理矢理にでも離れなければ、お互いが自立できずに年をとってゆくのである。そして、相互依存という形に固定され、立場が逆転した時に、子供は親から自立せねばと思うようになるのではないだろうか。

その時、「我が子はおとなしい性格」と思い込んでいた親は「おとなしい性格」が純粋に「おとなしい性格」であったのかが初めて知ることになるのではないかと思う。
もし、「おとなしい性格は実は親からの抑圧によって成立していただけ」であったなら、立場の逆転は「親からの抑圧の解放」でしかない。
その解放はあらゆる手段によって親へ向けられ、最悪の場合、取り返しのつかないことになるのではないかと思う。

「子供と親」から「大人と大人」「親と親」という新たな関係性が再構築されれば、お互いに思いやることも出来るのではないかと思うが、どちらかが不寛容のままであるとうまくいかない。
特に子供の立場からすれば、親から「どんな言葉をかけ続けられてきたか」によって、大きく変わるのだと思う。

変な方向に話に進んでしまったが、介護職員で得た知識は「非常時」には役立つが、平時には、同じような問題に苦悩するしかないようである。

時代の変化と私の苦悩。

2025-04-20 18:52:37 | 日記
僕の住む町でも田植えが始まった。

僕が未就学児の時は、田んぼへ共に連れていかれるか、祖母と親戚の家に泊まりにゆくかのどちらかであったが、小学生になると「労働力」として強制的に手伝わされるのが常であった。

それは、「受け継いでいかなければならないもの」という価値観が、農村の常識だったからである。

また、今ほどインフラも整備されておらずモノもなかったから、自然の中で過ごすことが「当たり前」であり、泥まみれになることも、虫取りも、小動物を手掴みすることも「遊び」だった。
その中から、触れてはならないもの、危険なものなど、経験を通して学んできたような気がする。

変わって近年。我が母校の小学校では、体験学習として「田植え」「稲刈り」、「収穫したものを調理する」というカリキュラムがあり、コロナ前まで行われていたが、コロナ後はその行事も無くなってしまったと聞き、子供たちは、「さぞかし残念だろうな」と思っていた。

しかし、それは僕の思い込みのようであった。

そもそも、「田植えと稲刈り」という「幼少期からの労働」が「体験学習」となった時点で、「なぜだろうと」考えるべきだったのかもしれない。
僕の町に住んでいる近年の子供たちは、もう親が離農者なので「農作業」には駆り出されず、田舎暮らしといえども、遊びも多様化したため自然と直接触れ合うこともなくなり、どんなに小さな「虫」に対しても、大変怖がり、泥に汚れることも嫌うのだそうである。

もう、時代は違うのだ。

それが時節のすることなのだと理解してはいるが、その話を聞いて心のどこかで憤りを覚えた。
それは、僕が彼らの年の頃に「受け継がなければならないもの」と言われ続けてきた価値観が、幻想でしかなかったからである。

「田畑を所有していれば、食う事に困らない」「財産であるから守っていかなければならない」「竹や木も成長すれば売れる」「農家のしきたりは護らなければならない」等と、小さい頃から幾度となく刷り込まれてきた価値観は親の願望であり「洗脳」でしかなかった。

時代が変わってゆく過程でも、主であった父は他界し、父の思想を追随してきた母も、体が縮み記憶も黄昏の時間を迎えつつある。

済んだことだから責めても仕方がないと割り切ろうと思っているが、嫌な思いもしてきたので、もやもやした気持ちは一向に払拭できないでいる。
いつか、母が他界したとき、初めて「受け継がなくてもよいもの」として、選択できるようになるだろうと思ってはいるが、「こんなことなら、もっと自由に生きられたのではないか」という後悔が頭の中で浮かんでは消えるのである。

機動戦士ガンダムジークアクスを考えていて・・・。

2025-04-17 20:31:28 | 日記
そういえばである。

 あの時点でガンダムがキャスバルの手に落ち、ホワイトベースが略奪されたならば、民間人であった、アムロやフラウなどの本来の乗組員は民間人のまま避難民として、当分の間サイド6に留まるしかなく、アムロはニュータイプの覚醒はなされぬまま、機械いじりの好きな少年のままである可能性がある。(アムロの父も酸素欠乏症にならずに済んでいるので、新しいモビルスーツの開発をしていることが考えられる)

また、アルテイシアも医師であり避難民であっただろうし、(ネットで調べていたらジークアクスの劇場版で、軍人としてすでに登場し、ドズルを討っているというではないか。それは、やはり打倒ザビ家の為に軍人になっているという事なのか? では、キャスバルはザビ家の人物とどう向き合ってゆくのか気になるところだ。)
ブライト・ノアやリュウ・ホセイは軍人であったので捕虜になっているはずであるし、ホワイトベースとして出航していないのであれば、スレッガー・ロウも存命の可能性が高い。また、マチルダさんもウッディさんと挙式を上げて幸せになっているかもしれないし、ジオンが「ソーラ・レイ」の使用に至っていないならレビル将軍も捕虜になっているかもしれないが亡くなってはいないだろう。
(余談ではあるがミハル・ラトキエもホワイトベースに忍び込まなくて済んでいるはずである)
また、サイコミュがアズナブルのガンダムに搭載され、実働している設定なので、エルメスや(ララァも争いに巻き込まれずに済んでいるはず。)ブラウ・ブロ、ジオングの登場も否定される。(第2話でキャスバルと会話していたのがジオ・マリーニ曹長だとしたらである。)

思いつくだけでもこれだけの登場人物が関わっているのである。しかも多くは戦死している。果たしてこれらの人物を回避し物語を紡いでゆく事が出来であろうか。
それとも、さらりと無視して、ストーリーは進んでゆくのであろうか。

個人の想いとしては、今後の展開に期待しつつも、(やはり、アマテ・ユズリハがカギであろう)予想だにしない平和的な結末を迎えて欲しいと願う。

機動戦士ガンダムジークアクスを観る!

2025-04-16 20:48:26 | 日記
先週の事。新聞のテレビ欄で「機動戦士ガンダムジークアクス」という文字を見つけた。
むろん深夜帯である。「また、新しいガンダムシリーズが始まるのかぁ」と思いながらも、「いつか観ればいいか」位な気持ちで録画しておいた。
そして、日曜日の夜、就寝前に「観ておこうか」とハードディスクを起動させ、「機動戦士ガンダムジークアクス」再生した。

まず、「おや? 」と声が出る。設定が「ファーストガンダム」のようであるが、どこか違う。また、キャラクターから発するセリフに聞き覚えのある人物名が聞かれた。

「どういうことだろう。どういう世界線なのか? 」と考えながら見続ける。

ポップな少女達の登場で、さらに困惑。僕はリアルタイムでファーストガンダムにハマった小学生だったから、上手く飲み込めない。
しかし、面白いぞ。絵も綺麗だし、なによりもモビルスーツの動きが滑らか。関節の可動域の問題も解消されている。
しかも、米津玄師の歌がマッチしていてカッコいいぞ。
これは、観ていくしかないと、次回から続けて録画してゆくことにした。

そして、今日第2話を観てみた。 「ああ、懐かしい。すごく丁寧に物語をトレースしている。しかも絵がキレイ」と心の中でつぶやく。

ファーストのリアルタイム時代には録画機能というものは一般家庭には存在していなかった。でも、細かく覚えられているのはテレビアニメがコマ割りされ書籍化されていて、それを少ないお小遣いで購入して何度も読んでいたからである。

その事を思い出しながらも、「ああそういう世界線で描かれてゆくのかぁ」と納得。
当時はよくわからなかった「サイコミュ」も二人の対話で解説されていて、ようやく「そういう構造だったのかぁ」と腑に落ちる。
ノスタルジーを感じさせつつも、「あの時この選択をしていれば」という別の世界線の物語を紡ぎ出すとはなかなかの切り口で思わず唸る。

 現在のアニメシーンもワールドワイド化し多様化してしまっているので、新たな「ガンダムファン」を生み出すことが出来るのか気になるところであるが、それはともかく、「エヴァンゲリオン」のような結末を迎える事だけは勘弁してほしい。
(しんどいのですよね。しかし、あのスタジオカラーが制作に携わっているから恐怖なのである。まぁ観なければいいだけなのだが・・・。)
もう、誰もその世界線を望んではいないような気がするのであるが、(いや、そう思い込んでいるだけかもしれないな。今の若者も救いようのない物語を渇望しているのだろうか・・・。)
 現在の情報から推測するとこの世界線ではガルマもギレンもキシリアもデギンも生存している(あのマ・クベも生存していた!)から、戦争勃発は不可避で、いずれ、ジオンや地球連邦軍の「戦争屋」と「ゲーマー」のアマテ・ユズリハ達が「戦い」によってリンクし、「ゲーマーが戦争屋の策略によって戦争に巻き込まれてゆく」感じがする。

戦争は人類が自ら引き起こすもっとも悲惨な事象であるから、痛快であってはならないと理解しつつも、新たな視点で平和を目指す物語もあってもいいのではと、あらゆることに疲れ切った初老の男は「機動戦士ガンダムジークアクス」に思いを託すのであった。


インターネットでの交流は楽しい事もあるけれどね・・・。

2025-04-11 17:31:38 | 日記
前回の続きをもう少しだけ考えてみようと思う。

「SNS上では対面の煩わしさは解消されるが同時に深いつながりを築くことは難しいのではないか」と、問題提起してみたのであるが、信頼関係が築きにくい事で、どのような社会的影響や個人的な問題が発生するのか疑問に思った。

オンラインという「壁」を用いながら、他者との繋がりを広め、気の合う人や同志と出会うのだから、オンラインでの交流はメリットがあるいえる。しかし、オンラインでの交流は他者とのコミュニケーションをとる手段として、対面することのない他者との繋がり方で関係を構築するわけであるから、デメリットも発生するのである。

オンラインでのメリットは、「双方が互いの利益を公平に分配される」ことを望んでいる状態においてのみ発生し、「オンラインという壁」があるからこそ、「公平性の均衡」が保たれているといえるだろう。

なぜなら、まだ「公平性を保つための逃げ道」が残されている状態だからである。

しかし、「オンラインという壁」が取り払われて、直接的に対面した場合や、オンラインの壁の向こう側の他者が、最初から、詐欺目的で巧妙に仕掛けていた場合、それに乗った瞬間に、これまでの均衡が崩れる。
それは、その時、「オンラインという壁」を通して知り合った人も、「壁」を取り払って対面した人も、「公平性を保つための逃げ道」が無くなることにより、感情的に追い込まれ、即座に新たな判断が要求されることになり、感情の揺らぎと向き合わなければならなくなるからである。

もし、「壁」の向こう側の人が一貫して友好的な人であったならさらに交流が深まり、良好な関係が築いてゆけると思われるが、オンライン上では「仮の姿」で振る舞う人物であったなら、「オンラインという壁」を超えた接し方をとった時点で、取り返しのつかない状況に陥るというリスクがあることを理解しておかなければならないだろう。

それは、直接対面を果たした人は、発言が取り消す事の出来ない事で直接的に生じる問題に直面し得る可能性があるからである。
その問題の要因とは、他者に対する、これまでの発言や直接的な発言が、「オンラインという壁」によって他者にどのような影響を与えているか分からないからであり、直接対面する事で初めて他者がリアクションするからである。

具体的な実例としては、注意喚起もむなしく起こり続けている「ロマンス詐欺」や、オンラインゲームで知り合った人に会いにゆき、命を奪われてしまった女性の事件が記憶に新しいだろう。

したがって、危険回避を考えながらオンラインでの交流を進めるならば、「常に疑って『壁』の向こう側の人と接する」ことのみが、唯一の術であるように思うが、それはおそらく不可能であろう。
なぜなら、人は感情があるがゆえに、言葉に流され、盲目になり、信じ切ってしまうようになってしまうからである。
そうやっていつの時代も人類は「詐欺の天才」の存在によって騙され、様々な分断や争いを生じさせて続けてきた歴史が物語っている。
そして、国境や人種を越えて手軽につながれるデジタル機器を通して誰かと関係を築く状態である今でも、騙され続けているからである。

多様性が求められずいぶん経つが、その多様性というものは、「危機を回避できない存在も包括している」ものなのではないかと思う。
それは、思い込みという感情や、情報過多による判断ミス、異なる価値観による衝突などが個々の資質に含まれているからであり、それでも社会が多様性を推進しているのは、「他者との距離を見誤ることを前提」としているからだと思う。
しかし、その事象は誰かにとって都合が悪いから誰も教えてはくれないのだと思う。