硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

虐待。

2018-08-31 17:51:18 | 日記
朝刊の一面に、児童虐待13万件という見出しを観た。気になって記事を読むと、居た堪れない気持ちになった。

児童虐待と比例して、高齢者への虐待も増加しているのは、精神的に余裕がない事が大きな要因であるように思うけれど、社会が手を差し伸べれば解決する等という簡単な問題ではないと思う。

人が個人の立場や個人の主義や主張に固執する事をいったん心の中に潜めておき、人と人がその間にある関係性に目を向けて、互いに妥協し協力し合うことが出来れば虐待は起きないはずである。

しかし、人の志向性は多様であるので、問題解決のために良かれと思う事も、相手にとっては、受け入れがたい事であって、齟齬が生じる事も起こる。

また、感情的な衝動を抑えらず、態度に出すことで、衝動を解消する方法を躊躇わず選択する人も存在しているので、技術依存や個人主義が進んでゆく過程で虐待という問題は無くすことは出来ないとも思うが、ここで忘れてはならないのは、幼少期に虐待を受けるのは「保有する身体、生存能力の差」であるが、虐待を受けた記憶は心に深く刻まれ決して忘れる事はないという事である。

成長過程で『赦す』ことの大切さを知れば、幼き日の、辛い出来事も、水に流すことが出来るかもしれないが、それほど人の感情は単純ではない。

人は成長し、いずれ衰えてゆくものであるので、「身体的な優位性」はいずれ逆転する。怒りや不快感を弱者に向けてぶつける事で、その場の個人的な感情は発散されるかもしれないけれど、自身が弱者になった時、立場が逆転したことを受け入れることが出来ないまま、個人的感情を発散する時、個人的感情を身体的にぶつけられるのは、弱者に転じた以前、虐待することを躊躇わなかった当人に降りかかってくることは、高い確率で避けられないのではないかと思う。
つまり、児童虐待は数年後の高齢者虐待を生むということである。

もし、精神的成長が容易いものであるのなら、うつ病に苦しむ人の増加は考えられないものであるし、今日の朝刊記事の見出しは記事として観る事はないだろうと思う。


老いと死について。

2018-08-29 21:49:47 | 日記
病院のエアコンが故障した為、入院中の高齢者が亡くなったというニュースが報じられていた。
病院の対応に問題がなかったか、警察は殺人事件として、事実確認を進めているという。

病院は「病気を治すところ」でもあるが、「治る見込みのない病を、残りの人生において。医療行為を含む、生きる為の最低限のケアを、対価を払うことで保障される」場所でもある。
したがって、エアコンの故障で命を縮めてしまったことは、最低限のケアの確保を怠ったといえ、エアコンの不調はずいぶん前からあったことも推測できることから、対応を先延ばしにしていたのではないかという疑念も否めませんが、責任追及の果てにその病院が機能停止してしまった時、入院中の患者さんたちの「人生」はどうなってしまうのだろうかと考えてしまいます。

しかし、一昔前のようにまだエアコンがない時代であれば、今年のような暑さでは、体力のない高齢者が生きてゆけないのは、自然の摂理の範疇であるようにも思います。

食生活が豊かになり、科学技術や医療技術や化学薬品が飛躍的に進歩し、多くの病を治すことが出来るようになっても、身体が老い不自由になった時、それでも人は幸せを感じることが出来るだろうか。

家族がいるのであれば、家族に囲まれ自身が生きてきた自宅でその人生を終えたいと願っている人さえも、病院や施設で亡くならなければならない社会構造になってしまった現在、次にそのような形で人生を終えなければならない世代の人達は、このような状況を不平不満を言わずに受け入れることが出来るのであろうか。

老いて、歩けなくなり、臥床する時間が長くなり、その先の死を受け入れるのは、死を迎える本人の問題なのである。家族であっても、親戚であっても、友人であっても、死は死を迎える本人の問題であることを、他者は本人に代わって受け入れることが出来ません。

この事件、事故は、設備投資を渋る個人病院に向けての警鐘であり、私達にとっても避けて通る事の出来ない、「老いと死について」を問いかけているのかもしれません。

厚生労働省と国土交通省と文部科学省にお勤めの皆様はどう考えているのかしらん。

2018-08-23 20:30:24 | 日記
台風が近づいてきた。暴風雨警報が出れば安全確保の為、営業時間を短縮し、利用者さんを送らねばならない。しかし、自然の事なので正確には読めない。
また、夏休み中であるため、学童保育を利用している児童たちも同じ理由から帰宅させねばならない。
したがって、双方で働く職員はやきもきする。

安全に帰宅させねばならないという共通点は同じであるが、ここには目立たない問題点が潜んでいる。

通所介護の現場は、「主婦」の方が多い、しかも、介護の仕事は時間に融通が利くので子育てを並行している人も多く、その中にはシングルマザーや、親と同居していない人もいるのである。

つまり、暴風警報が出れば、我が子を迎えに行くために、台風接近の中、利用者を送る前に帰宅せねばならない従業員をたくさん抱えている事業所が存在するという事である。

双方とも社会保障事業の一環である為、構造的に仕方のない事ではあるが、このような構造を持ってしまう事を予測していたのだろうか。

事業を大きく展開させることは、それだけ人が多く必要となるのは必然であり、双方のどちらかに関りがある人がどちらかに従事すると、どちらかに負荷が掛かるのは明白である。

資本主義社会をうらやましく思いつつも、そこで踏ん張っている、男性職員や家庭を持たない女性も、その不条理に気づくときが来て、「こんな不公平な事はやってられない」と、いつか匙を投げてしまった時、手遅れではあるけれど、その問題がようやく表面化するのではないかのではないかと危惧するのです。

ナビゲーションシステム

2018-08-20 21:38:45 | 日記
職場の送迎車が新車になった。しかもナビ付であった。この仕様は当たり前なのかもしれないが、僕の車にはナビはないので物珍しい。
さて、まず、車に乗り込みスタートボタンを押すと、(このスタートボタンというシステムもいまだに慣れない)ブルルンと軽やかにエンジンがかかる。と、同時にナビの電源も入り、まず、「携帯電話とつながっていません」と車が言う!!。 おろおろしながらも、社用車なんだしと無視し、サイドブレーキを踏んで解除し(足でサイドブレーキってねぇ)ギアを入れると、ナビさんは今日の日付を丁寧に教えてくれた。偉いものである。

新車は軽快に走る。信号で止まると、エンジンが止まる。ブレーキを話すとエンジンがかかりスタートするのであるが、このレスポンスが気に入らないので、アイドリングストップ機能は早々に切ってしまう。軽いハンドルは車を軽やかに操舵しサスペンションは路面の凹凸を緩やかに吸収する。いい時代になったもんだと感心していると目的地が見えてきた。車をいつのも場所に止めると、ナビさんが信じられない言葉を語りだした。

「この付近は盗難が多発しています。車から離れる際は・・・・・・・」

しばらく呆然とするが、気を持ち直し、車から降りる。勿論施錠は忘れずである。
この付近は盗難が多発しているという情報は、昔から少しばかり治安が悪いという噂を聞いていた。しかし、僕の持っている情報は十年以上も前の物であるから、まさかとは思ったが、以前と変わらず低所得者の集まる地域で、今では多国籍になり、より複雑になっているとは思うが、それをあえてナビが注意喚起するとは。
それが時代であり安心を担保しているのだとは思うが、情報がどこから得たものなのかが理解できない。

もし、仮に、その情報が誤報であったらどうだろう。ただ、不安を煽るだけでしかない。
転ばぬ先の杖という役割もあるだろうが、それでも、違和感は残る。
いつか、このシステムに身をゆだね、信頼しきってしまった時、私達は何を獲得するのであろうか。
それとも、それが、人類を次のステージに誘う使者なのであろうか。

突然雨が降り出した。雨脚が早くなり、ワイパーのスイッチを入れる。ガコガコという音をたてているワイパーブレードは相変わらずあの形をしていて、ブレードに装着されているゴムは一生懸命にウインドウに振り落ちてくる雨粒を振り払っていた。

大切な事は目に見えない?

2018-08-07 21:27:47 | 日記
シロナガスクジラ子供が日本の浜辺に打ち上がった。とても稀少な事だという。

連日の猛暑、東から西へと移動した台風、リュウグウノツカイの動画、局地的な豪雨。

海外では砂漠に雪が降ったり、北欧では30℃を超える碑があったといった現状が見られた。

これらの様々な小さな事象は、捉える事ができているけれども、その小さな事象が示している大きな変化は私達には分からないのかもしれない。

雨ごい。

2018-08-06 21:21:10 | 日記
数日前、テレビのニュースを観ていると、東北地方で雨が降らず、稲の成長に影響が出るので、どこかの神社で雨ごいの儀式をしている様子が流れていた。

非科学的であるけれど、僕の住む県でも雨ごいをして数日後に雨が降ったことを記憶しているので、意外と馬鹿にできないということを肌で感じていた。

今日のニュースで東北地方が豪雨で浸水している地区があると報道されていた。

偶然か、必然かは判定できないが、なぜ雨ごいの儀式が脈々と受け継がれてきたのかを考えると、やはり、私達には理解できない大きな力が私達を包んでいる捉えた方が、自然であるように思った。それと同時に、大きな力を育む自然に対して敬意を払わないと、大きな力は私達にその大きな力はどんなものであるのかを私達の眼前で見せるではないかと思ったのです。

島本理生さん。「ファースト・ラヴ」

2018-08-04 20:30:33 | 日記
少し前から気になっていた本が書店に並んだ。ずいぶん前にも同じことを書いたと思うけれど、直木賞や芥川賞を受賞した本にはあまり興味が湧かないのですが、たまたま聞いていたラジオ番組で紹介されていて、頭の中にこびりついたのが島本理生さんの「ファーストラブ」でした。
ラジオ番組の内容は忘れてしまったけれど、その時、何故か「読まなければ」と強く思いました。

そして、しばらくして直木賞を受賞。その日の帰り、書店を何件か回ったけれどどこも置いていなくて、店員さんに尋ねると「在庫がない」とのこと。
書店に並ぶのをじっと待ち、何日か通ってようやく購入。休みの日の楽しみに取っておいて、半日かけてじっくり読んだ。

学がない僕が、島本理生さんの作家としての力量を推し量ることなどできはしないけれど、読み終わってからも、ずっと、あの世界観を引きずってしまっているので、気持ちを整理し消化するべく思ったことを述べておこうと思いました。

作品の世界から離脱できないのは、自傷行為をする人や、歪な関係をもつ母と娘というケースも、職業柄出会ったことがあるので、よりリアルに感じることが出来たから、実際に同じような体験をして苦しんでいる人がいるというメッセージが強く伝わってきたからなのかなと思いました。

しかし、物語の中心を引っ張ってゆく女性は、抑圧された環境を、他者の手助けにより、辛うじて上昇して見せたけれども、不誠実な男性という存在が悪なのか、はたまた、誠実ではない男性に依存する事でしか自身の存在を見出すことが出来ない女性の弱さがいけないのかという問題提起には落としどころが見当たりませんでした。
でも、実際、見つける事が出来ない事の方が多いので、もやもやした感じを意図的に残しているのかもしれません。

そして、僕がこの本を通して最も印象に残った言葉は、主人公が自身の母親の母親像ついて、
「若かりし頃のこの女性は、時代か、教育家、個人的な資質か、もう現代では機能していない、たくさんの過ぎ去っていったものたち。」
と、考察していた箇所です。
この件を読んで、本当に驚きを隠せなかった。しかし、主人公とその夫の関係を考えてみたら、この言葉は、きっと書き手の、世に向けた宣言だったのかもしれないと思いました。
それは、フェミニズムやジェンダーフリーという言葉で括るもの少し違うのかなとも感じました。

しかしながら、もし、この推察が的を射ているとするならば、今まで機能していたものが、過去の価値観によって支えられていたとするなら、機能しなくなったものの代わりに、誰がどのように支えてゆくのかという問いに、作家として、文学を通して答えていかなければならないのではないかとも思いました。

どうしてそのように思うかというと、文学というものの定義はよくわからないものだけれど、夏目漱石先生は、「牛は超然として押してゆくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」とおっしゃっているからです。

なんだか、上から目線になってしまいましたね。ごめんなさい。