硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

責任の所在は・・・。

2013-10-30 17:35:12 | 日記
某ホテルの食材偽装表示が発端で全国各地のホテルから同じような問題が浮かび上がってきています。僕はこのニュースを見て色々考え、そしてぼんやりと思った事を一石述べておこうと思います。

美味しい料理が安く食する事が出来、多くの食材が残され捨てられているほど今の日本は豊かになりました。そして私たち消費者が良いものを安く手にするためには、提供する側が同じようなモノを売る他との競争が必要となります。競い合い良いものを消費者に提供する事が利益につながるのですから、それは必然な事なのだと思います。

しかし、競争も行きつくところまで行くと、どうにもならなくなります。無理、無駄、ムラをなくし、コスト削減し、遂には従業員の人件費まで手を広げなくてはならなくなります。それでも利益を上げなければ他との競争に敗れてしまうほどに追い込まれてゆくのが競争原理なのだと思います。

食材を偽装し提供するまでに至った過程は分かりませんが、だから、その責任の少しは消費者にもあるのではないかと思ったのですね。たしかに偽装する事はいけない事であるけれど、生産者が手間暇かけて育てたり採ってきたりした資源を、その手間暇を考えないで安く提供するのは当たり前だとどこかで思っている人が多いからこのような事態になってしまったのではと思ったのです。この食材で提供される料理はこの価格より下げれば、生産者や調理者等、その料理に関わる人々の生活が苦しくなるのだと理解していれば、それほど安さは求めなくなるのではと思うのです。

競争は私達に様々な恩恵を与えてくれていますが、その恩恵というものにも、誰かの生活が乗っかっているということを忘れ、更に恩恵を求めてしまいます。
たしかに競争に勝ち抜けば、大きな利益を及ぼすでしょうし、それによってさまざまな事業活動を展開して行けるでしょう。それが民主主義や資本主義のメリットなのだと思うけれど、その事によって、このような出来事が起こってしまうのだとしたら、消費者側も考え方を転換してゆかなければならない時期に差し掛かっているのではと思ったりするのです。

安いものを求めすぎると、一部の富裕層を除いた私達は更に安い賃金で働かなくては経済のバランスが取れなくなります。誰かが涙をのむ立場にならなくては成立しなくなります。
景気は上向きとメディアでは伝えているけれど、本当のところはどうなのだろうか。
戦争や略奪は起こりはしないとは思うけれども、歴史の中で多くの文明が消えてしまったという過去を考えると、この事象は少しばかり憂鬱に映るのです。

考えさせられる事件。

2013-10-27 20:17:38 | 日記
東京都大田区での女性絞殺事件のニュースに耳を傾けていたらその結末に驚いてしまった。

彼女を殺害した後電車に飛び込んで自殺してしまったようである。

好きな人との交際というものが、好きな人の命と自身の命を断ってしまうほど釣り合いがとれるものであろうか。

三鷹女子高生殺害事件もそうであったが、その後の自身の人生を投げ捨ててしまえるほど人を好きになるという気持ちはどうにも分からない。

その人を誰にも取られたくないという所有欲が強いのだろうか。はたまた、恨みとして無き者にしてしまえと思ってしまうのだろうか。

彼はどんな気持ちで彼女の首に手を掛けたのだろうか。逆上し、息絶えてゆく彼女に気がつかなかったのであろうか。
その時、彼の中の何かが「殺してしまえ!!」と彼に囁き続けたのであろうか。

真相は分からないが、それは決して「愛」ではないと思う。どんなきれいな言葉を使い、取り繕ったとしても只の殺人でしかない。

誰も幸せになる事のない自己満足な犯罪である。それがどんな利益を及ぼすというのであろうか。

自己益に繋がらない犯罪行為は何のためになされるのだろうか。利益のないことの後には喪失感しか残らないはずである。

それに、好きな人の命を奪えば、もう逢えなくなるわけだし、自殺してしまったら恋もできなくなる。

淋しい事ばかりである。

たしかに失恋は辛い。本当につらい。仕事を辞めてしまうほど辛いものである。でも、生きていなければそれまでである。

時間は常に未来へ流れているのだから、時間が解決してくれる日が来るかもしれない。だから、それまで耐えなければならないのだと思う。そして、本当に幸せを求めるなら、外に求めるのではなく、まず自身の心を充実せねばなるまい。自身の心が充実してくれば、周りの人に安心感を与える事が出来るのではないでしょうか。そして、それがやがて巡って自身の幸せにつながるのではと思うのです。






改めて。

2013-10-26 16:58:42 | 日記
「耳をすませば」の私的な続編を読んで頂いてありがとうございます。 閲覧されている多いページが「耳すま」が多いので、とても嬉しいです。今振り返ってみても、頑張って物語を作ってよかったなと思っています。

僕自身もジブリ作品が好きで、「となりのトトロ」から出来る限り映画館へ観に行っています。その中でも好きなのが「耳をすませば」だったので思い入れも一入です。そしてテレビで再放送されるたびに、「この二人はどうなったんだろうなと。」思っていました。そして今年、ようやく僕自身が「その続きを」言葉で表現できるんじゃないかなという処まで辿りついたんだと思っています。

他の作品もそうですが、ここ数年に観返すジブリ作品は新たな気づきや発見があって、その作品の奥深さに感動してしまう事もあります。

そんなものですから、日常で「ジブリ作品」の話をする機会を得ると、つい熱く語ってしまう時があるのですが(苦笑)、その度にジブリファンというより宮崎駿さんの考え方や語る言葉を理解したいという気持ちが大きいな思うのです。

そういった意味では今年の作品「風立ちぬ」は、今までよりもより深い処で理解できたのではと考えていますが、宮崎駿さんの考えをそのまま理解できるようになるのには、まだまだ鍛錬が必要ですが、引退されでしまったのでその楽しみを感じる事が出来なくなって残念に思っています。

宮崎駿さんの足元にも及びませんが、その作品群の中で一つだけトライしてみたい作品はあるのです。それは「となりのトトロ」。これは「耳をすませば」に続いて思っていた事です。

コメントを頂けた方のコメントの中に、さつきとメイの事が書かれているのを読んで「同じ事を考えている人がいるんだなぁ」と、なんだかうれしくなりました。

「となりのトトロ」は、今や世界的な作品となっています。その世界観は観る人其々の中で育まれて愛されています。だから、迂闊に手に付けられないなというのが現状なのです。

でも、いつか挑戦したいなとは思っているので、もし「となりのトトロ」の続編が始まりましたら、温かく見守ってていただければ幸いです。

そして「耳すま」の続編を改めて読み返してみて、本当に不思議なんですが、他人事のように「これ、映像で観て観たいなぁ」と思いました。

ジブリ関係者の方に届けっ!!(笑)








老婆心ながら・・・。

2013-10-22 10:49:03 | 日記
つい先日、朝ご飯を食べながらテレビを見ていた時、元akbの板野さんが中森明菜さんの「少女A」をカバーするというので注目していたら、出だしが分からずに3回も歌い直してみえた。わずかな時間の情報なので、その前後は良く分からないけれど、歌い直したことと、以前にも同じような事があったという事は間違いないようです。

そして、現akbの指原さんが、これも番組で「ダンスの練習はしなくていい。」というような事を言われていた。その理由は彼女なりの考えがあってのコメントであるけれども、この若いお二人に共通していることは、「出来ない事が私達売りでありメリット」であるという事のように思ったのです。

確かに、出来ない子を応援してあげたいという気持ちは分からないでもないけれど、それが対価に代わる手段であるという認識を本人達が持ってしまうのはとても危険なような気がします。
メディアが注目し、何かしら動きがあれば拾ってくれる状況は限定された時間内であることを当人も十分承知していることかもしれませんが、でも、僕が思う危険というのは別の所にあります。

練習をしてその成果を最大限に引き出し、観てもらっている人達に喜んでもらうことが双方にとって有益な事であるんだと思う所まで高めないと、そこを目指している人達の環境は悪くなるばかりではないかと思う。もちろん狭き門を潜り、高いハードルを越えないとエントリーできない所もあるけれど、「出来なさとかわいらしさ」だけに頼ってしまうと、それを担保に売れる、売れないは別として単に「モノ」として搾取されてしまうのではないかと危惧するのです。

また、出来ない事が狭い世界であれ認められてしまうと、それが「いいことなんだ」と、勘違いする子供たちも出てくるのではないでしょうか。そして、そのまま社会に出てくると、上手く立ちまわれる子は、多少のトラブルは付きまとうが見事なまでにそのままで駆け抜けてゆく事も出来るけれど、上手く立ちまわれない子は、はじき出されてしまう。

そして非情な事に現実では後者の人が多いように思います。

だから、せっかく自身の夢をかなえて世間から注目され、誰かに影響を与えているんだと自覚するなら、きちんとパフォーマンスしたほうが、本人にも、後に続く人にも、憧れる少女たちにも、いい影響を及ぼすのではないかなとおじさんは思うのです。

歌を忘れたカナリア。

2013-10-21 08:38:46 | 日記
小さい時から歌を歌う事が好きで、よく不意に歌を口ずさんでしまう。だから、カラオケが世に出てきて、当時の職場の友人とカラオケに行って歌を歌った時は心の底から嬉しかったことを今でも覚えている。
しかし、あれから幾年月・・・。結婚し、生活環境の変化を受け入れようとしているうちに、あまり歌を歌わなくなっていた。

つい先日、朝から雨が降っていて気分もすぐれなかったから、妻に「カラオケに行って来る。」と申告し、一人カラオケに行った。妻とは趣味や嗜好がほとんど会わないので、こういう場合は一人行動。

一人カラオケは3回目であるが、なかなか面白い。その理由の一つは、歌えなければ途中で切ってもいいという事。そして、どんなジャンルでも構わないという楽しさがある。いってみれば、遠慮せず歌えるのが良いのである。

受付の際だけは少し恥ずかしさを感じるので、はきはきと応対しフリードリンクを持って、そそくさと指定された部屋に行く。
後は思いついた曲を選曲して予約してゆくが、最新のヒット曲からは縁遠くなっているので、3年ほど前の曲辺りから歌い始めた。

しかし、マイクを持っていざ声を出そうとすると、声が出ない!!
出ていたはずの音域が全く出ない!!
しかも、音程を保つ事が出来ない!!

最初の内は、喉がなれるまではしかたがないかと思ってはいたけれど、6曲目あたり、更に声が出なくなり、頭痛まで起こってきた。

何とか苦戦しながらも、一時間という枠を歌いきったけれど、カラオケの終わった後の爽快感や充実感というものは感じられず、脱力感と喪失感でいっぱいになった。

歌も歌っていなければ、歌えなくなるもんだなと自分に言い聞かせつつも、どこか残念な気がしてならなかった。でも、その事によって「カラオケ」が好きではないという人の気持ちがよく理解できたのです。

介護職員のつぶやき。

2013-10-15 20:19:07 | 日記
介護職に就いてからかれこれ15年。この時間が長いのか短いのかは判断しかねるが、15年も経てば、様々な経験を通り越してちょっとの事では動じなくなってくるはずであるけれど、未だになれない事もある。
どんな事があっても、あいだみつを氏の如く「人間だもの」と、言い聞かせてみるが、我も同じ人間である。感情がある以上、不快な気持になる事がある。今日はそんな日常に感じた事を少しばかり呟いておこうと思います。

たとえば、暴言。これは堪えます。聞流し笑って済ませるように心がけていますが、気持ちが凹んでしまいます。特に認知症の人は判断ができないので、こちらがよかれと思って手を差し伸べていても、怒り、拒否し、暴言を言います。家族さんがこれにまいってしまって精神的に追い詰められてゆく気持ちはよくわかります。だから、こんな時、どうすればお互いが幸せでいられるのかよく考えるのですが、未だに答えが見つかっていません。
家族は施設に頼ることで距離を置き、その事によって気持ちに余裕ができ、自身の気持ちが穏やかである時に面会に来て心を通わせる事が出来ている様子を見ていると、社会資源の有意義さを再確認できるけれども、それを生業としてしまった者はその距離をどう保つか、どう作ってゆくかが、難しいよう思います。

これは僕の思い込みの産物かもしれませんが、事実を受け入れ、辛いと感じた事をいつまでも留めずに上手く受け流してゆく事が、自身を護り、仕事として継続して行けているのかなと思ったりしています。しかし、このように理論的に体系化するまで、ずいぶん時間をかけた割に不完全で未だに揺らいでいます。でも、それが人間というものではないでしょうか。もし、迷いがない人がいたとするならば、本当に聖人のような慈悲深い人格者であるか、対象が社会的弱者であるから、安心して無意識に高圧的な立場に立っている人かのどちらかであるのではないかと思う所もあります。

嗚呼、いけません。話を戻しますね。

認知症の人の場合、上記のように認知は出来なくとも何らかの形で感情表現するのですが、その感情をすぐに忘れてしまうという事を頭の中に入れておくことで、感情がぶつかることを回避できるケースも多い。それで、上手く回避できた手ごたえをつかんだのなら、その時、その瞬間の感情に合わせて、多少面倒くさくても、目の前の出来事を受け入れ、積み重ねてゆくなかで、かすかな信頼を回復、もしくは再構築してゆくことが、残りわずかな未来への存在する事の支えとなっているのかもしれません。

また、家族さんに認知症を説明する際、僕は「先祖がえり」と、よく表現します。赤ちゃんのような行動に戻ってゆき、やがて無になると。しかし、自身が過ごして来た時間の中で自身の親が赤ん坊のようになってゆくことはとても受け入れがたい事。でも、今までアップロードし続けていた頭脳を初期化しメモリーを限りなく0にしてしまう事が認知症であるのだから、自分の力で生きてゆく事が出来なくなるのも必然なのですね。でも、赤ん坊とは違い、頭脳が赤ちゃんでも四肢はそのままというケースも少なくないので、社会的な援助が必要とされたのだと思います。もちろん、それは社会的に求められた経緯の一つの要因でしかありませんが、必要とされたのだから施行され、現在に至るのだろうと思うのです。

このように述べていると、本当に他人事のように思いますが、実は誰もが地続きな事で、そろそろ自身が「その援助される側に移行」した時、何処に居たいかを考えなくてはならない所に差し掛かっているように思います。これからますます高齢化してゆく中で、自身がどうあり続けたいのか考えておくことが、上記のようなリスクを回避できる一つの術かなと思います。フェミニストである上野千鶴子氏は「おひとりさま」を提唱されていますが、誰もが上野氏のように強くは生きられない。誰に傍にいてほしいかとか誰から愛されていたいとか想う人も多いはず。それならば、現在、誰を大切にし、誰を愛しているかがそこに繋がってゆく気がしてなりません。

覚悟を決めれば一人で死ぬことも恐くありませんし、死が終わりでないと思えば死を迎える事さえも楽しみの一つとなる。また、行き当たりばったりの人生でも、方法によっては上手く切り抜けられるかもしれません。ようは、気持ちの持ちようでどうにでもなるということも割と肯定的に捉える方ですが、それでも人にやさしくしていれば、いずれ人にやさしくされるのではないかという気がするのです。もちろん綺麗事だけでは済まされない事の方が多いから、社会問題となっているわけですが・・・。

皆さんはどう思われますか?

深夜のお供。

2013-10-15 05:13:04 | 日記
ふと夜中に目が覚めるときがある。どうしても寝付けない時は、音楽やラジオを聞く。
特に「ラジオ深夜便」という番組は、20代の頃、僕をジャズの世界に誘ってくれた思い出深い番組である。したがって、流れてくる曲は現在のヒットチャートではなく、ヒットチャートに熱狂する世代が「知らないなぁ」という曲が多い。しかし、最近になって僕自身が一緒に口ずさめる曲が増えてきたように思う。
そんな時「久しぶりに聞くなぁ、この曲。」と、当時の事を思い出しながら聞いていたりするのだけれど、カラオケでよく歌っていた曲がこの時間枠で流れた時、ふと我に帰った。

洋楽に関しても、ソウルやブルースが掛ると、小さい頃、テレビから流れてきた音楽である事に気がつく。この事象は、懐かしのメロディーというものが確実に戦後から高度成長期へと移行していることを意味している。

歌は世につれ世は歌につれと誰かが言っていたけれど、その言葉がどういう意味だったのか最近になってようやく分かってきた気がします。

そして、後10年も経てば深夜枠の懐かしのメロディーは「ザ・ベストテン」を観て、音楽に慣れ親しんだ時代の人達がメインになってくるけれども、それは、時代は留まらず、常に未来に向かって流れているのだという事を音楽を通して体感させてくれる役割がラジオという媒体なのかもしれないとも思ったのです。


多感な時期の欲望と希望

2013-10-12 08:35:52 | 日記
テレビのニュースを観ると、ストーカー殺人の事件についてかなりの時間を使って報道している気がします。
そして、どうしてここまでこの事件について煽るのかその実態がネット上のあちこちで論じられ取り扱われている。

そして僕はこの事件に関してとても憂鬱な気分になります。この話題に触れると気持ち悪くなります。
でも、思った事を述べておこうと思います。

二人が出会い、ある限定された価値観の共有が二人を親密にし、濃密な日々のなかで快楽に身を焦がし、少しずつ生じた心と体の乖離に違和感を感じ、力技で反発した結果が現在の状態であるように思う。

少年は、自身の未熟さを自身を大きく見せることで隠し、少女は自身の未熟さを自ら否定して、無理やり大人になろうとしていた。

そんな二人が出会ったのであるから、この結末は必然であったのかもしれない。ただ、科学の進歩は未熟さを補ってはくれない。
人の欲望は移行するものであるから、誰かが彼らの欲望を弄ぶだろう。


彼らが信仰していたもの、もしくは親が信仰していたものは、少年少女にとって無意味なものであったのだろうか。

それとも、蛇に唆され善悪の知識の木から成る実を食べてしまい、「エデンの園」から追放されてしまったのだろうか。


その際に、神は女にこう仰せられた。

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する事になる。」

亡くなった少女の原罪が赦される事を祈るばかりである。


あとがき

2013-10-11 08:21:15 | 日記
「犬を飼うということ」いかがでしたでしょうか。 この物語を思いついたのは報道番組で「保健所」の実際を見たからです。
その時、とても切ない気持になって考えていたんですが、タイミング良く小説の公募があったので、この切ない気持をはきだしておこうと思って物語の創作に取り組んだのです。

そして、5年の間寝かしておいた自分の言葉をもう一度掘り起こして整える作業はとても有意義なものとなりました。
これも、飽きることなく僕の文章を読んでくださる皆さんのおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

また、明日から通常ブログに戻りますが、物語を期待してくれる方は、いつまた始まるかもしれませんので、ゆっくりと気長にお付き合いください。

「犬を飼うという事」最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。

「犬を飼うという事」  最終話

2013-10-11 08:15:40 | 日記
次の日、学校でまたみんなと遊んでいると、次郎君が突然思い出したように、

「むつき。そういえばさ、あの問題どうなったの? 」

と、聞いてきた。昨日の夜、お父さんから答えを教えてもらったばかりだったから、余裕をもって、

「へへへっ。答えはわかりました。」

「おおっ!それで、それで!」

問題につき合ってくれたみんながいっせいに聞いてきた。でも、お父さんのように長い説明はできないから、最も大切な事だけ言う事にした。

「お父さんが言うには命を尊ぶ事だってさ。」

「命を尊ぶ? 」

「うん。でもさ、どういうことだかよくわかんないでしょ。」

「う~ん。たしかに難しいね。」

「次郎君は、犬を飼っていて犬の命や気持ち生き方を考えた事ってある? 」

「いやぁ、ないなぁ。 犬がいると楽しいなって思う事はあるけれど、それだけかなぁ。」

すると、吉行君も、「そこまで、考えないでしょ。ふつう。」と、言った。

「そうだよね。そこまで考えないよね。だからさ・・・。」

みんなが注目している。僕は自分で決めた事を言ってみた。

「飼わない事にしたんだ。」

そうしたら、いっせいに返事が返ってきた。

「なんだよそれぇ」

「そうよ。おかしいじゃない。」

「あれだけ考えておいて、飼わないのかよ。」

「うん。今はその方が犬のためには良いと思うんだよ。」

と、言うと唯ちゃんに「へんなの。」と、冷たく言われた。その時、唯ちゃんの可愛らしさが歪んで見えた様な気がした。

その日のお昼休みに、僕は如月性にお礼を言うために職員室に向かった。

「失礼します。」

「田辺君。どうしたの?」

「先生。答えありがとうございました。」

「あら、さっそく伝えたのね。それで、答えは合っていた?」

「間違いでは無かったよ。」

「よかった!」

「でね。犬を飼うつもりだったけれど、もう少し考えるとことにしたんだ。」

「へぇぇ。それはどうしてなの?」

「犬の命を尊ぶと言うことがよくわからないから。」

と、答えると、先生はニコッと笑って、

「良い答えだと思うわ。今は難しくて分からないかもしれないけれど、きっといつかわかる日が来ると思う。その時、むつき君は素敵な人になっていると思う。楽しみだわねぇ。」

なんだか、照れくさい。でも、先生に助けてもらわなかったら出せなかった答えだと思ったから、

「先生ありがとう。」

と、お礼を言うと、先生もうれしそうに、

「また、問題を出されたら先生にも教えてね。一緒に考えよう。」と、言ってくれた。

職員室を出た僕は、廊下を歩きながら、答えが見つかるまでのことを考えていた。ここまでたどり着くにはずいぶん時間がかかったけれど、次郎君が言ってたように、犬が家にいたら可愛いとは思うけれど、その犬の命を尊ぶ事が今は出来ないんじゃないかと思う。それは難しく考えすぎなのかもしれないけれど、今の僕にとっては間違った答えではない。

「うん。やっぱり今はこれでいいや。」

そう思った時、今までには感じた事のない、いい気持ちになった。

「犬を飼うという事」  15

2013-10-10 20:37:41 | 日記
「たしかに飼ってみなければ知ることのできない事もあるし、これから犬を飼おうとしているむつきからしてみれば、お父さんは弱虫とうつるかもしれない。でもね・・・。」

「うん。」

「生き物を飼うということはどういうことなのか、よく考えてほしかったんだ。」

僕はようやくお父さんがどうしてこんな難しい問題を出したのかが分かった。

「犬を飼いたければ、ペットショップに行ってお金を払えば好きな犬を飼う事が出来るし、子犬が出来て飼えないからというお宅から貰い受ける事も出来る。」

「うん。」

「僕達からしてみれば、それはとても簡単な事だけれど、犬にとっては重大な事なんじゃないかな。大事にされるか、粗末に扱われるかが決まるんだから犬にとってはとても不安なんじゃないかと思うんだよ。」

「不安? 」

「うん。不安だよ。それが如月先生の言っていた気持ちというものだよ。」

「ああっ。そういうことなんだ。」

「気持ちと言ってもね、僕達人間は、自分の都合のいい事だけを見ようとして、都合の悪い事は気がつかないようしてしまう所がある。だから、犬が抱く怒りや不安、恐怖といった気持ちはわからないようにしようとするし、犬は人の言葉を持たないから、いっそう理解しようとしないんだと思うんだ。」

「・・・。」

「本当に飼い犬の事を家族の一員のように想い何を考えているのか理解しようと努めている人もいるけれど、そこまで考えている人は少ないんじゃないかなと思う。」

「そうなの? でも、犬を飼っている家っていっぱいあるよ。」

「むつき。毎年、保健所に持ち込まれる犬の数ってどれくらいか知ってる? 」

「えっ。そんなのしらない。保健所って何? 」

「保健所って言う所はね、家で飼えなくなった犬や猫を処分する所なんだよ。」

「処分!!」

「おどろいた? 処分というんだよ。お父さんはこの響きがとても嫌いです。でも、年に8万匹の犬がこの日本という国で処分として扱われているんだよ。」

「・・・・。」

「でも、処分される命は僕達と同じ命だと思うんだ。」

「うん。」

「それでね。どうして保健所に持ち込まれるのかは分からないけれど、持ち込むのは人間なんだね。」

「・・・。」

「それは、少なくとも8万人の人が犬の気持ちや生き方を考えていないという事でもある。」

「・・・生き方? 」

「うん。生き方。まず、人と犬は時間の流れ方が違う。そこをよくわかっていなければいけないと思うんだよ。」

「うん。」

「犬も人と同じで、次第に年をとって体が動かなくなってゆくけれど、人よりもうんと早い。だから子犬の時のように動かなくなった愛犬は受け入れがたいかもしれないし、そんな姿を見ていて辛くなるから、目をそらしたいと思う気持ちもわいてくるかもしれない。でも、犬からしてみれば、最後まで一緒に過ごしてきた人たちのそばに居続けたいと思っているんじゃないかなと思うんだ。」

「うん。」

「その気持ちが分かるのなら、その先に待つ死というものも飼い主が背負わなければいけないという事でもあると思う・・・。ちがうかな。」

「うん。」

「犬は飼い主との思い出を、僕たちが思っている以上に大切に思っているかもしれない。だから、命が絶えるまで、共に生きてゆかなければいけないと思うんだよ。そして、死を迎えても悲しまず、苦しまずに受け入れることが家族の役割だと思うんだ。」

「・・・。」

「もちろん、居なくなった時の淋しさはあるけれど、それにとらわれずに僕たちは生きていかなければいけない。そう言う事をきちんとわかった上で犬と共生してゆく、それが犬と人との正しい関係だと思うんだ。」

「う~ん。よくわからないよ。」

すると、それまで話を聞き入っていたお母さんが

「犬は犬であるという事を忘れない事。そして寿命は人より短いと言うこと。命があると言うことは僕達と一緒。犬は私達みたいに話せないけれど、犬にも気持ちがあると言うことを忘れて、僕達の都合で飼ってはいけないと言うことよ。」

「そういうことなんだ。考えもつかなかった。」

「お母さん正解です。」

「へへっ。どんなもんですか。」

お母さんが笑っている。お父さんもうれしそうです。

「いいかい。犬はおもちゃとはちがうんだ。ほしくなったら、お金を出して買えるかもしれないけれど、いらなくなったからといって、粗大ごみに出すことはできない。もしできるとしたら、それは命と言うものを考えていない。命は捨てられない物。尊いものなんだ。それはわかるね? 」

「うん。」

「今の僕たちは奇跡的に豊かな世の中で生きているから、犬を飼う事が出来るんだよ。でもね、豊かであれば豊かであるほど、命もお金で買えるという、とてもひどい考え方をする人がでてくるんだよ。でも、それは特別な感情ではなくて、誰でもどこかに持っている気持ちでとても危険な事なものなんだ。その事をわかっていてほしいのです。それがわかったうえで、犬が飼いたいと思うのなら、お父さんもお母さんも賛成です。」

僕はすこしうれしくなった。先生の言っていた事も少し分かるような気がした。

「で、むつき。どうしますか?」

「・・・少し考えさせて。」

「いいよ。待っているよ。」

「ところで、お父さんは如月先生と知り合いなの。」

「おおっ。どうしてそれを。」

お母さんがまた笑っている。

「ほらほら、お父さん。大変な質問だわねぇ。」

「いやだなぁお母さん。如月先生はね。大学生の時の後輩です。一緒に勉強したんだよ。」

「へぇぇ。じゃあお父さんも先生なの?」

「はははっ。先生じゃないよ。」

少し弱った顔してまたお茶を飲んでいる。その様子を見てお母さんも笑っている。

「参ったなぁ。それはまたいずれ説明するよ。」

お父さんは困っていたけれど、なんだかとても嬉しそうだった。

「犬を飼うという事」  14

2013-10-09 08:58:35 | 日記
「残念。本当にいい答えだけれど、ちょっとちがいます。」

「ええ~っ!」

その声に、お母さんは大笑いをしている。お父さんも少し笑いながら

「お母さんそんなに笑っちゃぁだめだよ。」

とお母さんに言っている。

「ひどいよ。そんなに笑わなくても。」

「ごめんなさい。すごいおどろき方だったから。ついね。」

お父さんはお母さんにお茶のお変わりを頼むとゆっくりと話し出した。

「むつき。答えを出すまでにずいぶん時間がかかったね。その間ずっと考え続けてた?」

「う~ん、正直に言うと最近はあまり考えて無かった。」

「それはなぜだと思う?」

「う~ん。友達もあんまり犬の話をしなくなったからかな。」

「うん。それです。」

僕は何のことだか分からなかったから、

「それは、どういうことなの?」

その問いにお父さんはゆっくり答えだしました。おかあさんも静かに聴きいっています。

「問題を出したのは、本当に犬を飼いたいかどうかその気持ちを見たかったんだよ。むつき位の年頃は、気持ちが変わりやすい物だからね。実は僕もむつき位の頃、どうしても犬を飼いたくて、亡くなったおじいちゃんに頼んだ事があるんだ。でね、犬を飼う事になって、しばらくは世話をしていたけれど、日がたつにつれ、散歩させることも餌をやる事もめんどうくさくなって、結局おじいちゃんが世話をしてたんだ。」

「うん。」

「それで、僕はと言うとおじいちゃんに言われた時だけ、時々散歩に出かけたり、餌をやったりで、犬を飼う事ってどういうことかわかってなかったんだ。今思うと、犬が来るところまでは想像できたんだけど、毎日世話をすると言う事まで思いが及ばなかったんだ。でね、ある日、僕が散歩に連れ出した時、散歩が途中で面倒くさくなって犬の首輪をはずしたんだ。そしたらすごくうれしそうに走っていって、何処かに行ってしまってね・・・。」

お父さんはお茶をもう一度飲んで、ゆっくり続きを話した。

「でね。見えなくなった犬は、大きな道へ飛び出して車にはねられて、それで、死んでしまったんだ。僕はすごく悲しくって泣いてしまってね、こんな事なら犬を飼わなければよかったって思って、それ以来、犬は飼わないことにしたんだよ。」


「犬を飼うという事」  13

2013-10-08 08:02:28 | 日記
きっと、先生の答えは間違っていないはず。だって先生の答えだから・・・。ひざを抱えてソファーに座ってじっとしていると、お母さんが、

「今日はなんだかおとなしいわね。なにかあるの?」

「今日ね。先生に答えを教えてもらったんだ。」

「よかったわねぇ。いよいよね。でも先生の答えが合っていると思う?」

お母さんは相変わらず鋭い。僕もこれが正解と思うのだけれどなんだけれど、お父さんが考えている事と同じかどうかはわからない。

「わからないけれど、でも先生の答えだから大丈夫と思うんだ。」

「じゃあ、ちょっと楽しみだわねぇ。」

「うん。」

僕はドキドキしながらお父さんの帰りをじっと待った。待っている時間はなかなか進まないしとても長い。テレビを観ていてもつまらない。
それでも僕はじっとお父さん帰りを待つ。お母さんは時々僕を見てはくすくすと笑っている。
午後7時。街に待ったお父さんが帰ってきた。

「ただいま」

「おっ疲れ様っ。」

「何々、今日はやけに元気がいいね。なにかいいことあったの?」

「今日はね。むつきから、なにやら発表があります。」

「おっ。いよいよ来たかぁ。」

廊下からお父さんとお母さんの楽しそうな話し声が聞こえてくる。
いよいよこの日が来た。僕はドキドキしながら食卓へ向かう。お父さんもお母さんも僕を待っていて、二人ともニコニコしている。

「いただきます。」

ご飯を食べていても、味もよくわからない。

ご飯を食べ終えて、お父さんがいつものようにお茶を飲んでいたら、お母さんは小さな声で「早く、早く」と、僕に言ってきた。

僕は大きくうなずいて、勇気を出してお父さんに話を切り出した。

「お父さん。あのね。答えが見つかったよ。」

「おおっ。ついにきたね。じゃあ答えを聞きましょう。」

「犬の気持ちを考える。です!」

「おおおっ。気持ちですかぁ。いいねぇ。いい答えだね。」

その答えにお父さんもうれしそう。お母さんもニコニコしている。これは正解だと思っていると、お父さんは、

「その答えは、むつきが考えたの?それとも誰かに聞いたの?」

と、聞いてきた。僕は正直に答えなければきっとお父さんもお母さんもがっかりするだろうと思ったから、ありのままを答えることにした。

「如月先生に教えてもらったんだ。」

「如月先生かぁ。」

「そうなのよ。むつきも友達も、上手く答えが見つからなくて、先生に頼んだんだって」

「へぇ。先生に聞いたと言うのはなかなか考えたなぁ。」

「じゃあ、正解だね!!」

そう言うと、お父さんは静かに湯呑をテーブルにおいてニコッと笑った。

「犬を飼うという事」  12

2013-10-07 16:48:38 | 日記
その日の放課後、家に帰ろうとしていると如月先生が僕のほうに走ってきた。

「田辺君! ちょっと待って!」

「なんですか。せんせい。」

「少し前にあなた達からもらった問題だけれど。すごく考えちゃったから時間がかかってしまいました。」

「待ってましたーっ! 」

「本当にゴメンね・・・。それで答えなんだけど、むつき君のお父さんは犬の気持ちを考えなさいといいたかったんじゃないかなと思う。」

「あ~っ。なるほど~。犬の気持ちかぁ~っ。そんなこと考えもしなかったよ。さすがだなぁ。」

そう言うと、先生は照れながら、

「間違っていたらゴメンね。でも間違っていたら先生もまだまだと言うことになるかなぁ。」

と、またも意外な答えが返ってきた。

「ふ~ん。先生でも間違えるの?」

「うん。先生もね、先生であっても知らない事が沢山あるのよ。だから、学ぶの。そして凄く考える。学校で教えてくれないこともあるから、自分で調べたり、先生の先生に教えてもらったりするの。だから間違える事だってあるのよ。」

「え~っ。そうなの。先生の先生がいるの?」

「もちろんよ。先生と言うより師匠かな。」

「師匠?先生よりえらいの?」

その言葉に先生は笑いながら

「えらいかぁ。そうだなぁ。師匠って言うのは、えらいとかって言うのではなくて、尊敬できる人かな。生涯かなわないと思う人。お金持ちになるとか、社長になると言うのではないのよ。損得なしにその人から学びたいのね。だから師匠から怒られても、怒られたことに怒らないで、真面目に学び続けたいと思うの。」

「えっ。先生も怒られる事があるの?大人なのに怒られるの?」

その事に僕はびっくりして変な事を聞いてしまった。でも先生は嫌な顔をせずに

「もちろん。今でも怒られてしまいます。むつき君たちを叱るように先生も間違った事をすると、その師匠から叱られます。そんな時、辛くなって止めてしまいたいと思う時もあるけれど、それでも、私は弟子だから師匠から学び続けたいと思うの。」

「弟子?」

「そう、弟子。」

「怒られても、その人から学び続けたいと思うから、弟子であるの。」

「ふ~ん。生徒じゃないの?」

「師匠と弟子は先生と生徒とは少しちがうのよね。」

僕はますます分からなくなった。

「どうちがうの?」

「う~ん。そうだなぁ。学ぶ姿勢かな。ちょっと難しいなぁ。上手く説明できないけれど、いつかきっとわかる時がくると思うわ。」

「どうしてそう思うの?」

「お父さんかなぁ」

「お父さん?なんで?」

「犬を飼う事で問題を出すお父さんなんてなかなかいないもの。きっとお父さんがいつか教えてくれると思うのよ。」

「ふ~ん。そうなの。」

「うん。とてもいいお父さんだもの。」

僕は先生がお父さんの事をほめてくれて、とてもうれしくなった。

「先生ありがとうございました。お父さんに言ってみるね。」

「もし間違っていたら、お父さんの答えを教えてくださいね。」

「うん。」

僕は、今度こそ間違いないと思った。そして、犬も飼えるんじゃないかとも思った。