硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

クリスマスに思う事。

2012-12-24 15:58:35 | 日記
今日はクリスマス・イブ。ケーキ屋さんへケーキを買いに行くといつもは割と空いているのに、今日はたくさんの人がケーキを買い求めていた。

クリスマスって、キリストを愛する人でなければ関係ないはずなんだけれど、よく分からなくてもロマンテックでいいですよね。

ナザレのイエス、救いの御子の生誕日だからお祝いをする。なんか、いいですよね。

宗教なんだけれど、そうでないところでイエスを意識せず、イエスの生誕のお祝いがなされている。ひょっとすると、これがイエスが導かれた世界なのかもしれません。

もちろん、教会に集い、主を賛美することも、イエスが導かれた世界の一つといえます。

聖書を読む事も、洗礼を受ける事も大切であるけれど、そうでなくても「主の愛」を非言語で理解している方もいらっしゃる。

つまり、信仰という形に正解はないのだと思う。

組織的に機能させるのには、どうしても言葉や儀礼を通さなければならないのだけれど、無所属であれば自由である。

しかし、無所属でも主は愛してくださるのです。

信仰における難しい様々な問題は、人が起こすものであり、宗教自体には関係がない。

そこを踏まえなければ、純粋に信仰できないと思う。人が人を管理するという考え方が信仰心を濁すのだと思う。

信仰は神仏を敬うことであり、人に従うことではない。なぜならば、宣教するものが知恵者だからといって、純粋な信仰心をもっているとは限らない。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「三人の隠者」や「破戒」という物語が生まれたのは、作者にそういった思いがあったからだと思う。

昨日も述べたけれど安易に手に入る「愛」は、「愛」ではない。「愛」の本質は与えるものである。

児童書の「大きな木」や「幸福の王子」が生まれたのは、「愛」とは見返りを求めず与え続けるものなのだよと、作者が読み手に伝えようとしている重要なメッセージなのです。

与えられる方は「それが当り前である」と思い込みがちだが、それは見当違いである。与えられたら、何かをパスせねばならない。それは、感謝の言葉だけでもいいし、言葉がでないのであれば、笑顔を見せるだけでもいいのだと思う。

そういう気持ちのあるやりとりが他者との間にある隔たりに「愛」を見つける事が出来るのだと思う。

もちろん、与える側も配慮のない救済では、「愛」を知ることはできないのだと思う。

そういう事から「愛」とは、よく分からないものだけれど、分からないながらでも他者を思いやろうとする気持ちに「愛」というものが宿っているのではないかと最近思うのです。

そして、その積み重ねがイエス・キリストの説かれた「愛」に繋がってゆくのではないかと思うのです。

しかし、こういった考えも正しくないのかもしれません。

主イエス・キリストはおっしゃいました。

マタイ伝24・4-5

「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗る者が大勢あらわれて『私こそキリストだ』と、言って多くの人を惑わすでしょう。」

メリークリスマス。







介護職員のつぶやき。

2012-12-23 23:17:31 | 日記
介護職という仕事に就いてかれこれ十余年。最初は理想に燃えていたけれど、何度か燃え尽き此処の処はなんで介護職という仕事をしているんだろうと、迷うこともしばしば。と、愚痴はこれくらいにして、最近よく思う事をつぶやきたいと思います。

利用者さんの事をよく知るために、介護認定を受けるまでの人生。そして施設入所に至るまでの経過をアセスメントシートで確認をするのですが、なんだか「これで本当に良かったのか」と思う事がある。

現在に至るまでに、何度か脳梗塞になることで、その都度救急搬送され、肩麻痺になったり、言語障害が出たり、車いす生活を強いられたり、誤嚥を起こして肺炎を併発し、入院、治療を繰り返し、認知症が発症したり、ベッド上の生活になって施設入所になるケースは普通にあるけれど、もし、最初の脳梗塞で救急搬送されなければ、その時点で人生は終わっているのです。その時で終わっていれば、介護という悩みを誰もが抱えなくて済んだはずなのです。

助かったがために、今までのような生活ができなくることで、もどかしさを感じたり、家族に介護負担がかかったり、施設入所が決まっても「家に帰りたい」と訴える利用者は多い。それが本当に幸せと呼べるだろうか。中には身寄りがなくて、生きてゆくにはどうしても公的な社会資源に頼らなければならない人もいるけれど、そういう人を除いて、この社会資源は必要なんだろうかと考える。

人はいつかは死ななければならない。もし、未来にも今のような福祉事業が必要だとしたら、今元気に暮らしている人達の何人かは上記で述べたケースをトレースせねばならないという事でもある。「あの人たちはいいけれど、私たちはごめんだ」というわけにはいかない。

きょうの朝刊で老人虐待件数が前年に比べてわずかに減少したという記事があったけれど、おそらくそれは表に出てきただけの数字であり、実際は増加しているのではないかと思う。なぜかというと、人は自分の意思に反するもの受容することは極めて困難だからである。施設の理念で「愛」を挙げているところは多いと思うけれど、「愛」とは、「受難」を伴うものである。その事を理解していないから、「愛」という言葉をたやすく用いる事が出来るのであろう。

また、空いている席があるのに、若者たちがエントリーしてこない職業とは非言語で「未来が描けない」という事を表わしている。
そこを進めないご両親も、その感覚に同意しているからである。でも、介護という仕事を進めないご両親も上記のような経過をトレースしなければならない可能性を秘めている。

この事を踏まえて、「人の死について」「社会福祉の在り方」について考え直さなければならない時が来ている気がするのです。

しかし、世は資本主義社会なのだから死を迎えるまでに大金持ちになってしまえばそのリスクは解消されるのも事実なのです。




香水にはご用心。

2012-12-21 20:56:49 | 日記
お豆腐料理を主とする趣のあるお店で食事をした。少し値が張るだけあって、出される料理すべてがおいしい。

料理の味とお店の雰囲気、そして窓から見える風景。大変素晴らしく、静かにすべてを噛みしめていました。

しばらくすると、アラフォーらしき女性二人組が来店し、僕の席の前を通りすぎていった後に、甘い香水の香りが残り、僕の鼻に届いた。

その時、自身でもビックリしたのですが、素材の味を味わう料理は香りが繊細であるせいか、甘い香水のにおいが僕の鼻の中でお料理の味を打ち消してしまった事に気付いたのです。

「これはいけないなぁ」と思いつつ、お茶を飲み一度気持ちをリセット。

再びお料理を頂くと、やはり美味しい。

女性の甘い香水の香りは、時にはその効果を最大限に引き出すけれど、美味しいお料理を頂くときは少し控えられた方が、そのお料理の味がより素晴らしく感じるのではないかと思ったのです。

皆さんはどう思われますか?

仕事を辞めてしまう君へ。

2012-12-20 21:17:10 | 日記
仕事を辞めてしまう君へ。

この言葉は届かないものだけれど、仕事を辞めてしまう君に送りたいと思う。

世の中は、君が思う以上に欺瞞と矛盾に満ちている。君が思うように生きようとすればするほど、挫折感を味わうだろう。

けっして世の中は、君に合せてはくれない。

味方になってくれる人がいるかもしれないけれど、その人が本心で見方をしてくれるのかは分からない。

どんなにいい人でも、君が君の気持ちばかりを優先していると、その人もいずれ君の前から去ってゆくだろう。

誰かに従うことは、時には苦痛を伴い、やりきれない気持ちにもなるけれど、従う相手によって、君の未来は劇的に変わる。

辛いこともあるかもしれない。でも、それは君の未来を思って助言しているのかもしれない。

耐えて、耐えて、耐え続けても君の未来が見えてこないかもしれない。

従った人が、君の為を思っていないかもしれない。

それでも、腐ってはいけない。その経験を君自身の手で未来につなげるんだ。

それは、君しかできない事。

それは、苦しい事かもしれない。でも、あきらめちゃそこですべてが終わってしまう。

大きな夢を持つことも大切だけれど、そこに至るには小さな積み重ねが必要なんだ。

その積み重ねには、君の小さな積み重ねを見守ってくれる人生の師が必要だ。

だから、善い師を見つけ、善い積み重ねができるよう祈っているよ。










木の枝を切るときは。

2012-12-19 17:13:58 | 日記
畑の柿の木の枝が伸びたので母から「あの柿の木の枝を切って」と頼まれた。そういえばここ何年と手入れをしていないので伸び放題であった。

道側に伸びつつある枝がかなり太くなりなかなか手ごわそう。梯子を掛けて柿の木に登る。いつもより景色が違い新鮮であると同時に木に登る行為がもう何年振りかに気づく。

枝払い専用ののこぎりをゆっくりと引いていく。木を切るときいつも思い出すのは亡き父の「のこぎりは引く時に力を入れるんや。」という言葉。

そうそう、引くときに力を入れる。

そして、またふと思い出す。木の枝払いをする際、横着をして木や梯子から転落して大けがをするという事。この時期には特によく聞く。

「年の瀬に、枝払いで怪我をするのもなぁ。」しばし手を止め考える。横着をするのも確かに行けない事ではあるが、木を切るというのは、人間で言うと手を切るとか足を切る行為に当たるのではないか。

そんな事を思いついた。そこで、

「ごめんね。ちょっと切らせてね。」と、木に向かってお願いする。

再びのこぎりを引く。直径15センチほどの枝を切り落とし、持ち運びが楽になるようにさらに細かな枝を払ってゆく。

しばらくすると、様子を見に母がやってきて、一言「ずいぶんさっぱりしたなぁ」

伸び放題だった柿の木を下から見上げると、きれいな青空が見えた。

「ああ、ほんとやなぁ。」


国政。

2012-12-16 20:30:43 | 日記
開票が始まりましたね。どうやら、与党が変わりそうです。しかし、それで本当に住みやすい国が出来るのかは誰にもわかりません。

だから、少しだけ思っている事を述べておきます。

たくさんの政党が生まれたのは、様々なところで「誰かがなんとかせねばならない」という問題があるからだと思うのです。

様々なところで様々な問題がある事は、問題が多様化しているという事。そして、政党が多いのは多様化した問題の先端から声を出せることができているという事である。

戦中を生きてきた人たちの証言に耳を傾けると、あの時代の言論統制は本当に厳しいものだったそう。

もし、国が一つの問題を解決しようとするならば、再び言論は力によって統制されるだろう思うのです。

でも、そうではない。言論は表面上自由を確保できている。これは平和の証であるといえよう。


しかし、仕事でも趣味でもそうだけれど、3年という月日で成し得る事は、「その基礎ができる」だけだと思う。

複雑極まりない政治という怪物が相手ならば、基礎の構築すらも危うい。

三年で実がなるのは、桃栗くらいなものである。

しかし、多くの人が求めているのはスピード感のある政治であろうから、実がなる前に腐り落ちてしまうか、早熟のまま実を摂取されるかのどちらかである。早熟のままでは本当の旨さは味わえないし、きっと味わいのない実としてしか認識されないままだろう。効率よく貨幣が動いてゆく事を多くの人が望んでいる以上、牛歩のような進歩は対象的なので理解してもらえないのだと思う。

民主党が支持政党というわけではないけれど、もっと時間を掛けなければその本質が見えてこないと思う。

多くの問題に対して腰砕けすることなく粛々と進めたタフさ、選挙のタイミングは絶妙であったし、負け戦をかってでた野田さんはいい政治家だと思うだけに、少々残念に思うのです。




「坂道のアポロン」にはまり込んで・・・。

2012-12-15 20:18:48 | 日記
昨日、2012年の彼らを想像してみて本当に楽しかったので、ほんの少しだけ言葉を追加してみました。

本来なら小玉ユキ先生に観ていただいて、「この設定でもう一丁描いてみますか!!」と言っていただけるのが一番うれしいのだけれど、新作に取り掛かって見えるので当然無理なお話。なので「坂道のアポロン」の同人誌を作成してみえる方で「これは面白いんじゃない」と思っていただけた方がいらっしゃったら、絵に起こしてくれないかなぁ。なんて、想像したりしてしまいました。

「坂道のアポロン」ファンの方、ご感想お待ちしております。

「坂道のアポロン」に、ハマってしまい。

2012-12-14 19:17:12 | 日記
以前から気になっていた「坂道のアポロン」というアニメ。とりあえず一話だけ観てみるかと軽い気持ちで観てみたら、やっぱりハマってしまい、続きのDVD3巻を一気に観る。(笑)

原作があるという事で書店にてボーナストラックを購入。マンガでも面白い。

そこで、もし、彼らが実在したら2012年の現在はどうなっているのだろうか。と考えだしたらなんだか面白くなってしまい、思わずノートに走り書きをしてしまった。

きっと、こんな感じなのかなぁ。

川渕千太郎 63歳 神父兼教会に併設されている孤児院「聖母の家」の責任者。島内の高齢化に伴い老人介護事業も検討中
千太郎の妻。58歳 「track4」のロケットを拾ってもらった失語症少女。「track5」時では福祉大学生、21歳 洗礼を受けクリスチャンとなっている。1985年に千太郎と結婚、女児を出産 現在はソーシャルワーカー兼施設長として千太郎と共に孤児院を切り盛りしている。 なお女児は現在27歳 父母の影響を受け、保母として佐世保市内の保育園勤務。

西見薫 63歳 佐世保市民病院勤務。院長補佐。後進を育成しつつ診療所への支援等地域に密着した医療に力を注いでいる。また、福祉事業に携わる千太郎やその妻との相談にものり公私にわたり共に歩んでいる。
西見(迎)律子 63歳 元小学校教員 2児の母 出産後 教員を退職し専業主婦へ。教会員としてボランティア活動を行いつつ、現在も心身が繊細な薫を支えている。相変わらず相思相愛な二人である。

西見 長女 1980年生まれ。 現在32歳 中学校教員 学生時代、吹奏楽部に所属しテナーサックスを担当。教育学部卒業後、赴任先の中学で教鞭をとる傍ら吹奏楽部顧問として活動中。 既婚しており 夫 他校の教員 35歳 と共に幸せに暮らしている。

西見 長男 1982年生まれ。 現在30歳 高校卒業後、大阪の大学へ進学。祖父勉の影響もありコントラバスも使うが、マーカスミラーのプレイに感動し、エレキ・ベーシストとして学業もそこそこにバンド活動に夢中になる。(その為ギター、ドラム、キーボードもそこそこにプレイできるようになる)そのまま大阪で就職しバンド活動していたが、28歳(2010)帰郷。その後、今までの培った経験をもとに「ムカエレコード」をライブハウスに改築、経営し、その傍らミージックスクール行っている。地元でのライブも行っており、薫似の甘いルックスに加え、巧みな演奏を奏でるそのライブに偶然千太郎の長女が来ていて、彼に恋をしてしまったらしい。

桂木純一 67歳 東京の某出版社 副社長。現在も甘いルックスとトランペットとチェットベイカーばりのボーカルは健在。キレのある思考と言葉を持つため、業界はもとより、多方面からも「政治家になられては」と、押されるが学生時代の苦い経験からその話題が出ると巧みな言葉でけむに巻いてしまう。 双方の実家との絶縁状態は双子の誕生によって解消され現在は良好な関係を保てている。

桂木(深堀)百合香 63歳 1978年双子を出産。子育てが一段落すると、東京の美大へ入学。卒業後、バイト先での関係で舞台美術を請け負う仕事の担当となる。現在も仕事をしつつ日展等(絵画)への出展も行っている。

桂木 長女 1978年生まれ 34歳 誰もが憧れる天賦のルックスの持ち主。中学生の頃からモデルを始める。都内の高校卒業後、オートクチュールのモデルも務める傍ら、父親譲りのリズム感を開花させ、ジャズボーカリストとしてCDも出している。現在も活躍中。既婚 夫 34歳 出版社勤務。余談ではあるが彼女のデヴューに一番喜んだのは千太郎である。

桂木 二女 34歳 天賦のルックスを持ちながらも、ショウビジネスには無関心。文系の大学を卒業後、父純一の出版社に入社。現在はファッション雑誌の編集長。撮影現場でカメラマンからモデルを進められるも姉の事もあってか、かたくなに断り続けている。 独身。

迎勉 83歳 1979年 一人娘律子の結婚後、しばらく独居。「ムカエレコード」を1994年まで営業。レコードからCDへ移行しつつあるなかでも、レコードにこだわりつつけるも時代の波には勝てず。閉店後しばらくは音楽を通じての仲間と交流しつつ年金生活を楽しんでいたが、風邪をこじらせ喘息再発、体調を崩す。2000年に律子宅へ身を寄せる。握力の低下によりコントラバスを使う事が難しくなるが、律子と薫から「サイレントベース」をプレゼントされ、「こがんもんベースじゃなかっ。」と拒否しつつも最新のテクノロジーに驚き、今では愛用している。西見 長女とのセッションは彼女が高校生時代に果たされており、スタンゲッツを彷彿させるテナーサックスの巧さに「プロになれ!」と進めていた。その場にいた千太郎、薫、も長女の才能を認めていたが、本人は「そげんもんきょうみなか。」と一蹴されてしまう。長女は照れ屋さんであったので、その場はそのように発言したが、後にジャズよりも吹奏楽の方が楽しいからと、父、薫にこっそりと語っている。
2010長男が帰郷し、ライブハウスを開きたいと相談を受けるも最初は渋ったが、(彼はロックを主としていた為)謙二(コントラバスの最初の持ち主)の遺志を引き継ぐ為に承諾。薫の共同出資で「ムカエレコード」はライブハウスへと姿を変えたが、現在も音楽の好きな人たちが集まる場所となっている。ちなみに西見長男がジャズをプレイする際はそのコントラバスが受け継がれている。

「音楽がある限り…。」

こうだといいんだけどなぁ。

小玉ユキ先生。勝手に妄想してごめんなさい。 




ああそうかと思った瞬間だった。

2012-12-12 23:26:34 | 日記
今朝のニュースで尼崎連続殺人事件の容疑者の女性が自殺したと報じられたとき、僕は思わず「ああそうか」と呟いてしまった。

容疑者の女性は、人の命と引き換えに対価を得ていた。それが一番自身にとって最良な貨幣の獲得方法であったのだと思う。

もちろん、そんな行為は「人」のすることでないが、この方法の大規模な行為が国家間による「戦争」でもある以上、こういう思考性は人ならば誰かしら考えるものである。

だから、容疑者の女性も人の命と引き換えに貨幣を得ることに躊躇わなかったのだと思う。

その原動力は自身がルールであり自身の益を最大化する事が目的であるからではないだろうかと考えられ、それを「生きる意味がない」という言葉が示していると思う。

自身の欲望に素直に従う生き方が、女性にとっての「生」である。それが他の「法」によって、自身の欲望を制限され拘束される事はつまり「死。」

したがって、逮捕された時点で容疑者の女性は「死」を望んでいたはずである。

どこまでも、自分勝手な人であるが周りを気にせず我の欲望の赴くままあらゆるものを消費し続けたその思考には驚かされる。

きっと、容疑者の女性の前では「倫理」や「道徳」や「正義」も皆無であっただろう。

どうすればあのような人格を形成できるのであろうか。それとも、もって生まれた気質であったのだろうか。

女性の自殺ですべてが闇に葬られたが、しかしそれは女性が最後に望んだ「欲望」であるから、自殺するという行為すらも戸惑わなかったのだと思う。




恋愛ってなんだろう。

2012-12-10 19:58:34 | 日記
人を好きになる事。それは素敵な事です。しかし、恋愛となると少し分からなくなってしまう。

少年の頃は素直に「好き」と言えたけれど、歳を追うごとにつれ、「置かれた状況」や「背景」まで考えてしまう。

それは、もう「好き」という気持ちではないように思う。

恋愛は本当に素晴らしいし、日々の辛さも忘れるほどの力を持つ欠かせないものだと思っていました。

しかし、恋愛は恋愛であり、生活とはまた別のもの。相思相愛ならばこのような邪心は働かないけれども
凡人である以上どうしても気持ちが揺らぐ。

そして対象を変えれば、恋愛というものは輝きを取り戻し、心ときめくのだろうかとも考えてしまう。

それも何か違うような気がする。

只相手の感情が穏やかであり続けるように気を使い続ける事が愛ならば、私の気持ちはどこに向けたらよいのだろうか。

気持ちは見えないものだけに確かなものはないけれど、確かにそこにあるんだと信じる事が大切なのだろうか。

歳を重ねるごとに、汚れてゆく自身の気持ちを理解できるけれど、それを理性で制御し続ける事が出来るほど強くはない。

何かに夢中になれば、道を踏み外す事もないのかな。それともすべてを諦めてしまえば楽になれるのかな。

改めて恋愛というものを考えると、本当によく分からないものになってしまったように感じるのです。


さよなら。ブルーベックさん

2012-12-07 19:17:58 | 日記
jazz pianistのデイブ・ブルーベックさんが亡くなられた。

僕の聴く音楽はjazzが多い。 フリークまでとはいかないが間違いなく好きなジャンルである。

好きなプレイヤーも多い。しかし、中でもブルーベックさんは僕にとって少し特別でjazzの扉を開いてくれた人である。

出会いは十数年前、工場勤めの夜勤帰りご飯を食べつつラジオ聴く習慣があり、またこの頃、聴くラジオ局がオールナイトニッポンからラジオ深夜便に変わったころであった。

ある日、いつものようにラジオをつけご飯を食べていると、どこかで聞いたメロディが流れてきた。たしか何かのコマーシャルで使われていた曲であり、そのコマーシャルと音楽がとてもぴったり合っていてとてもかっこよかった印象が残っていた。

フルコーラスを聴き終えるととても感動してしまって、音楽終了後、パーソナリティさんが曲の紹介をしてくれるとその場にあった広告に走り書きでメモを取った。

デイブ・ブルーベックで「take・five」

その週末、名古屋のタワレコまで行き、よく分らないまま購入したアルバムが「time・out」という名盤である。

僕が最初に名前を覚えたジャズプレイヤーであり、jazzという音楽の楽しさを知ったのである。

その後、ラジオ深夜便で掛かるjazzに耳を傾け、耳に残る音にはメモを取りCDを購入するというパターンを繰り返し、jazz・giantsと呼ばれる人達を通して、日本のプレイヤー達にも耳を傾けるようになって、ライブにも足を運ぶようになった。そして、jazzはいつしか僕の生活の一部となってしまった。その元がブルーベックさんなのです。(もちろんラジオ深夜便にも感謝である)

あちらでもピアノを弾き続けるんだろうか。いつかライブで「take・five」を聴きたいものである。




「大きな木」という絵本

2012-12-05 19:36:05 | 日記
職場の本棚に「大きな木」という絵本があった。訳は村上春樹氏。村上氏の名前にひかれ何気に手に取り表紙をめくる。

成長してゆく少年と「リンゴの木」の話。ほのぼのとした展開に思わずほほが緩む。しかし、ページを開くたびにほのぼのとした心持が消えてゆく。かわいい絵と短い文章はあっという間に僕をその世界に引き込んでいた。そして、最後のページに辿り着いたとき、思わず涙腺が緩みそうになった。

遺憾と思いつつ、村上氏のあとがきを読む。「大人の人も子供も何度も読み返してほしい」というメッセージが心に響いた。

なんだろうこの絵本。とても気になったので、早速ググってみる。

レビューを読んでみると、泣いてしまったという人が結構いて安心(笑)

また、最初に訳された方の方が善いというレビューも見られ、これにも興味がわく。

これは自身で購入し、読み込むしかないですね。

リンゴの木は本当に幸せだったのか。少年は最後まで心を痛める事はなかったのか何度も読めば、それがわかる日が来るのだろうか。

いや、わかるのではなくて、木の気持ち、少年の気持ちが身体化したとき、人として少し成長しているのではないかと思う気がするのです。

総じてこの絵本を好きな人って、きっと心の優しい人なんだろうなぁと思うのです。




衆院選だけど。

2012-12-04 16:55:28 | 日記
今日から各党の一声が始まりましたね。ニュースで掻い摘んで各党の主張を紹介していたのを観て少し不安を感じたのでその事を一石。

各党共通して言えるのは「今の日本じゃ駄目だ」という論調。

「悪い」「悪くなった」どちらでもよいけれど、そこに至るまでの過程はどうなんだろうと思った。

なかには誰かのせいで悪くなってしまったといわんばかりの主張もみられる。

でも、それって変ですよね。異論はあったにせよ「過程」は皆さんで構築してきたはずである。

そんな問いには「そんな事言っている場合ではない」とおっしゃられるかもしれない。

しかし、悪くなった原因は、どこかにあるはず。でないと「悪くなった」とは認識しないでしょう。

完璧で完全な世界はないけれども、皆さんが口をそろえて「悪い」といわれるのは「悪くなった原因」が存在するからでしょう。

では、悪くなった原因をなくさない限りエラーは出続けるはず。それが今度の選挙を通して改善できるのでしょうか。

もし、善くなるならどんな幸福がもたらされるのだろうか。

僕自身は「低所得者層」であるけれど、今の世の中そんなに悪くはないと思うのです。

立場によって気持ちは様々であるけれど、上を見すぎたり求めすぎたりするから不足感を感じるのではとも思う。

また、それは持って生まれた資質とか才能とかで左右されたりするものであるから、正解はないんだと思う。

どうでしょうか。


大事なのは…。

2012-12-03 20:02:31 | 日記
前職場の方から5年ぶりくらいにお食事のお誘いがあった。やはり5年という月日の流れは懐かしさを感じるが、再会するとすぐにあの頃に戻れる。お互いの無事をたたえ某ファミレスのドリンクバーで乾杯。

あの頃のこと、現在の事等、話は尽きる事はなく楽しい時間が過ぎる。

しかし、僕の話題となると少しばかり様子が変わった。それは、僕の「現在の仕事に対する考え方」と「あの頃」との差が大きすぎて「あの頃の僕の方がよかった!」と皆さんが口をそろえたのです。

5年という月日のなかで、僕は「本」に出会った。本が僕に「君が読む本だよ」と囁いてくる。僕はそれに従って遅かりし読書を始めた。あの頃は自身でもびっくりするくらい熱く「この業界を変えてやるぜ」位の勢いで取り組んでいたのだけれど、現在は「変えられない世界もあるんだよ」というところに行きついた。その説明をすると、皆さんは「僕らしくない」と云ったのです。

その言葉を聞いてとても戸惑ってしまったけれど、皆さんの「どうしてあの頃の方が良かったのか」という説明を聞いていて僕自身は「いい方向に進んでいる」と納得した。その説明をしどろもどろに語ってみたところ、「あなたは神様になりたいの?」と言われ思わず絶句してしまった。

介護という仕事は、つまりは「隣人愛」であるし、「忘己利他」の精神を必要とする。こう捉えると宗教的ではあるけれども、他者の生活を支える仕事として考えてゆくと、思想的にそこに至ることは自然であると思う。この5年間の読書はそういう抽象的なテクストを理解するためであったと思うし、今思えば私はそれが「知りたかった」のだと思う。でも、僕は「知らないということを知って」力尽きそこで立ち止まってしまった。

それゆえに、現在の心境を語ろうとする言葉は「以前のように力を持たず」上っ面を滑るだけで、彼女たちにうまく説明ができなかった。

彼女たちはとてもがっかりしていた様子だったけれど、僕はどこかに不安感を感じながらも「仕方がなのかなぁ」と気持ちを着地させた。

少年ジャンプの主人公のように変わらず突き進むことは憧れであるしかっこいいと思う。しかし、真実を知りたいと思う気持ちは精神を成長させてくれるのではないかとも思う。

彼女たちは「それは諦めだ」と一刀両断したけれど、答えはないと思う。

だから、人にとって変わってゆくことも変わらずにいる事もどちらも大事なのだと思う。