硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

夏の香り。

2013-06-30 19:56:15 | 日記
夜勤明けのぼんやりした体に刺激を与えるべく、午後から自転車に乗る。僕のビアンキ号は一番下のグレードであるがお気に入りである。

サイクルウエアーとパンツ。ヘルメットにサングラス。グローブを装着し気分だけはロードレーサーである。

サイクルコンピューターのスイッチを押し、靴をペダルにカキッと入れ込むと、「これからこぐぞっ!」というスイッチが入る。

川沿いの道をゆっくりとこいでゆく。南東から温かい風が吹いてきて追い風の中を進んでゆく。

ギアを一番重たい処に押し込み平均速度20キロくらいをキープしてゆく。最近はケイデンスより此方を意識して漕いでいる。

青々とした稲が美しい田園風景の中を走り国道と踏切を超え、住宅街を抜けると海に面した堤防である。

僕の主となるコースは2つ。海沿いのコースと山に登るコースである。僕の住む街は田舎であるがこのようなシチュエーションを選べる事がうれしい。

堤防に続く坂を登りきると汐の香とジメッとした海風を感じた。コンディションはオンショアで膝くらいのぐしゃっとした波が立っている。以前、ウインドサーフィンをしていたので、今でも不思議と少しだけ気持ちが高ぶる。

水平線の向こうには対岸の街がぼんやりと見える。今日はいい天気である。

しばらく進んでゆくと、海水浴場が見えた。次第にバーべキューの香りも漂ってきた。いつもなら散歩する人の姿しか見えないが、雰囲気が全く違う。そして気がつく、そうか、もう7月か。

海水浴場には水着を着て騒いでいる若者や家族でバーベキューをする家族の姿が見て取れた。

これから2ヶ月間はこんな雰囲気になる。いつの間にか夏が来ていたのであった。

誠実じゃない気がする。 その2

2013-06-28 08:11:40 | 日記
一昨日のブログ記事を書いてから、どうも腑に落ちないので、思いだしては少しずつ考えていた。

政治について、僕たちが知ることのできる情報は限られいて、場合によっては都合よく改ざんされている事があるように思う。

此処を出発点に色々妄想してみると、浮かび上がってきた事柄が出てきた。

まず、原子力。民主党も推進し稼働し続けたいのだと思う。次に電力会社の利権。それにあやかる人達が多いのではないでしょうか。やはり美味しい話はそうそうたやすく手放したくないのであろう。次に選挙。各党が論戦しあうには、その議題が必要。 その多くが廃案となったものの中にあったとしたら、廃案に持ち込まなくては選挙戦で何を打ち出してゆくかできないのではないだろうかと考えたのです。

社民、みどりの風、生活の党は、憲法違反であることを純粋に考えたと思うが、他の賛成者にはどうも利権がからんでいるような気がします。

そう考えると「なるほどね」と思える気がするのですが、本当の処は分かりません。でも、やはり誠実じゃない気がします。


二つの事件に共通するものは。

2013-06-27 20:49:17 | 日記
中学一年の男子が小学生の男児の首を絞めるという事件と、高校2年生の男子生徒が同級生をカッターナイフで刺すという事件が起こった。僕はこの二つの事件に共通点があるのではないかと考えた。

彼らの動機はまだ分からないが、自身の気持ちが誰かを傷つける事に傾いていったことは間違いない。

きっと自身の中では補えぬなんらかの気持ちの隙間を行動によって埋めようとしたのであろうと思う。

しかし、彼らはどうして短絡的に人を傷つけようと思ったのかが問題である。

そこで、思ったのが個性である。

個性的であることが肯定された世の中では、個性的である事が個人の才能を伸ばす事であると誰もが信じていたからであろうと思う。たしかに型破りな生き方で成功を収めた人もいるが、でもそれはその人の能力であって個性ではないと思う。

個性的なのはよい事である、他者の事よりも自分の事を優先した方が得る利益が大きいと信じ込んでしまったら、人を傷つける事すらも肯定的に捉えるようになるのではないだろうか。

本当の天才は個性的であることを意識しない。だから我が道を迷わず進んでゆけるのである。

しかし、凡人が幼いころから個性というものを肯定的に捉えられていたら、その人格は自己が中心となってゆくのではないだろうか。

彼らが自己中心的な人物かどうか定かではないが、ためらわず他者を傷つける事が出来る個性的な人達である事には間違いない。

それでも世の中はこの個性を肯定的に捉える事が出来るであろうか。

もし、それでも個性であり、肯定的に捉えるべきだといえる世の中であるのなら、知らない人に突然刺されたとしても、文句の一つも言えないようになるのではないでしょうか。そんな世の中嫌ですよね。

だから、まずは協調性という当り前な事を重んじる事から始める方が大切なのではないかと思うのです。


誠実じゃない気がする。

2013-06-26 19:27:21 | 日記
首相問責決議案が可決されたという。正直、もううんざりである。いつまで国取り物語を続ける気であろうか。

もし、本当に国民の事を思っているのなら、国会を停滞させる事に意味はないと思う。

誰がふさわしいとか誰がふさわしくないとか、そのような議論が今本当に必要であろうか。

揚げ足を取る事が、そんなに痛快だろうか。

第三者から見てみれば、詰まらない事にしか映らない。それを分かっているのだろうか。

人は其々に考え方が異なるゆえ、統制する事は難しい。しかし、総体的に観て善いのであれば、誰かは耐えてゆかねばなるまい。それが持続可能な国体の構築ならなおさらであろう。

不公平、不平等、貧富の差等は埋められぬ隔たりである。また、こんな境遇に生れたのかと自身を呪わねばならぬ人あるだろう。

そんな立場の人達に、少しでも救いの手を差し伸べる事を行うのが政治ではないだろうか。

人は完ぺきではない。政治家も然りである。しかし、人格者である事を求められる立場であるのだから、日々の言動に細心の注意を払うべきではなかろうか。

また、国民の為、有権者の為に問責決議案などと言うものが提出されないように心掛けていなければならないのではないか。

このような事態が繰り返されるたびに、この人達は政治に対して誠実じゃないのではと思ってしまうのです。


晩餐とおしゃべり。 ケアマネージャーと言う仕事の疑問。

2013-06-24 08:31:35 | 日記
昨日数年ぶりに友人から連絡があり夕食会の運びとなった。久しぶりの再会。みんな元気そうである。ここに集まった友人は、以前同じ職場で働いていた人達である。現在はバラバラになりはしたが、それぞれに頑張っている。

一つのお鍋をつつきつつ多岐にわたった楽しいおしゃべりが続く。メインは「介護」と言う仕事について。

その中でも二人のケアマネさんのお話を(愚痴といってもよいかも)聴いて色々思った事を僕なりに咀嚼して一石講じておこうと思います。

彼らの共通した問題は、世の人達がケアマネの役割りをあまり理解していないという点。

その為、他の事業所(!)や介護者が、萬事を言ってくるので大変なのだぞう。その事によりプランの作成時間等が押してしまうようである。

次に、事業所主が無理を要求する事。その事によりサービス残業しなければならなくなるのだそう。

そのような状態が続くと精神的に病んでくるのだそう。

話を聴いていて思ったのは、それらの問題の根本は介護保険制度事態にあるようである。

現場の声を反映して、制度を改定してゆけば彼らの苦労も少なからず解消されるのではないかと思うのですが、実際の処はどうなっているのだろうか。

それでなくても問題が山積しているのに、厚労省の人々はどう考えていらっしゃるのだろうか。凄く気になります。

労働条件も含めて、ケアマネと言うと介護職のキャリアアップと言う位置づけになっているけれど、その概念も破綻しそうである。

事業所は増え続けている。雇用が生まれ、高齢化に対応した箱が出来る事により、社会の不満もある程度抑制できよう。でも国が支払う公費は大赤字であり、その問題は若い世代に丸投げするのだろうか。 上がりを決めた自分達さえ安泰ならそれでよいと思っているのだろうか。

エリートと呼ばれる人達は、社会の底辺の者たちから、広く薄く搾取することで安定を図ろうとしているのだろうか。

逆に「今の状態に不満を感じているなら、人に頼らず自身で努力しろよ。」と言っているようにも思う。

負け犬の遠吠えかもしれないけれど、彼らの話を聴いていてそんな風に思った。でも、彼らは今日も「今日の仕事」をなんとかしようと職場に向かっているのである。

厚労省のエリートの皆さん。介護を持続可能な事業にしようとお考えなら、もうちょっと働きやすい制度に作り直してください。
そうでないと、そこに集う者がいなくなってしまう気がします。

それが真の狙いなら仕方がないけれどね。












悲しいコメント。

2013-06-22 16:59:04 | 日記
ログインしてみるとコメント欄にコメント。嬉しくなって開いてみると、予言のようなものが記されていた。

読んでみると、求道者にとって大変悲しいものであった。

旧約、新約を含めて数千年の月日の中で神の声を聴けた者は数えるほどである。それを預言者と言う。

それは伝道する為に選ばれた使者である。

聖書は「物語」であり、「神の御言葉」であって「予言の書」ではない。したがって聖書は字義解釈してはならない。だからこそ『喩え』で語られているのである。また、預言者たちによって信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示である。

なぜこのようなコメントをくれたのか、その心情は測りかねますが、次の御言葉を貴方に送ります。どう解釈するかはあなたの内なる神に問うてみてください。

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうする事によって貴方は彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」

ローマ人への手紙 12章 20~21

上京雑記。

2013-06-21 15:26:26 | 日記
宿泊は横浜関内にあるカプセルホテル。ここ数年のパターンである。少しばかり古いが、繁華街の真ん中で安くて使い勝手がよいので、必ず此処に宿泊する事にしている。最初の年は地理がよく分からないままぐるぐる歩きまわり探し当てたホテルであったが、今では周辺のどの駅で降りても迷わずに辿りつけるまでになった。しかし人ごみでの疲労は相変わらずである。

関内に宿泊する理由はジャズである。通りを歩けばよい香りを漂わせた夜の蝶がひらひらと舞っていてふいに気が緩む。しかし高級車を取り囲むスーツ姿のこわもての男達、パトカーの巡回、ホスト達の叫び声、等々に危険を感じ気を引き締めなおす。

目的のジャズバーは分かりにくい処にあるが大変気に入っている。ビルの地下へ通じる狭い階段を降りてゆくとそこにある。

演奏はすでに始まっており、若いバーテンダーに案内されて足早に席に着く。客は数名であるが、僕としてはゆっくりと出来てよい。

柔らかめのソファーに腰掛け、メニューの中からビールとフライドポテトを注文。

日常にこのような空間があり、好きな時にジャズの演奏を聴きに行ける環境は羨ましい限りである。目の前で演奏する一流のプレイヤー達。選曲もなじみのある曲ばかりでとても嬉しい。

ボーカルの入る演奏は、歌声の印象が残るが、今回はジャズメンの演奏が素晴らしすぎてボーカルの印象がかなり薄い。

バンドマスターはボーカルの女性にかなり気を使っている様子であったが、それでもなぜか演奏が勝っていたように思う。

正面のカウンターでは常連さんと思わしき紳士が2人でバーテンダーの方と楽しそうに会話されている。

時頼聞こえる大御所芸能人の話に聞き耳を立てつつも、話し方が標準語であるのでなにかのドラマを見ているようでもあった。

冷えたビールは疲れた体に染み渡り、心地よい演奏が心を癒してくれる。大変贅沢だと思いつつも、年に一回の事なので考える事を忘れて楽しむ事に専念する。

いつものように2ステージを終えた処でチェックし、店を出る。通路で休憩してたpianistに軽く会釈をし階段を上がると、まだ沢山の人が行き来していた。いつもこの時間は仕事以外は布団の中である。また僕の住む街では暗く静かである。

その事を考えると笑えてきてしまう。

少しお腹が空いていたので、通りのコンビニでパンを買う。商品を選びレジに持って行きお金を払う。この際に小さいころからの習慣で「ありがとう」を言うのであるが、支払いを済ませいつものように「ありがとう」を言うと、店員のお兄さんが目を丸くして驚いている表情が見えた。

その時「しまった。此処は田舎ではないのだ。」と我に返ったが、都会ではこういう場で「ありがとう」は言わないのだろうかとしばし考える。

コンビニを出てホテルに向かう途中、なんだかよく分からない人達が騒いでる。無理に楽しもうとしているのか、楽しんでいるのか分からない。また、そこには行き場を失ってしまった人がベンチに腰を掛け、しけもくを吸っていたりと人生の明暗が入り混じっている。その様子を見て少し心がくたびれる。

長居は無用と足早にホテルに向かう。無愛想なホテルマンにカギをもらい、風呂に入りカプセルに潜り込む。映りの悪いテレビを観つつも、耳に残ったジャズの演奏が頭の中で再生される。大変心地よい。テレビを消し目を閉じると深い眠りに就いた。

気がつくと朝の6時であった。ペットボトルのお茶を飲みつつニュースを観て7時まで過ごす。7時ならば朝食が摂れる店もあるだろうと思っていたからである。時間になり、軽く洗面をし鍵を預けて土曜日の朝の街へ出る。クラブの前ではホストとその客であろう女性が何やら騒いでいる。当初は「なぜこんな時間に!!」と驚いたものであるが、今ではもう慣れてしまった。時代は移り変わっているが、新しい人達がその場所にエントリーをして誰かの後を引き継いでいる。本当にエネルギッシュな街である。

朝の通りは、昨晩の余韻を残しつつ家路へと向かう人と、犬の散歩、早朝ジョギング、職場へ行く人が交差していた。それでも行き場を失った人たちが店の軒先に腰を下ろし、皺くちゃになった競馬新聞を観ていた。誰もが同じような新しい朝を迎えても、新しい朝が来ない人もいる事を知る。

背伸びしてゆっくりと歩いていると、女性と目が合う。するとにわかに近寄ってきて「これから呑みに行かない?」と誘われる。朝の7時過ぎである。彼女はまだ夜の続きであろうことは分かったが、その言動には衝撃が走った。思わず関西弁で「ないわ~。ないない。あらへんで~。ごめんなぁ~。」といってお断りした。女性も少し笑っていたが諦めてくれた様子であった。

スタバに入り、なれないメニューに戸惑いながら朝食を頂く。窓に面した席に座り行き交う人をぼんやりと観ていた。

お客は僕一人であったが、暫くするとキャリアウーマンがさっそうと入ってきて、日常動作のようにメニューを注文し迷わず席について、鞄から経済紙を取り出して朝食をとりながら読んでいた。 これさえもドラマのようである。

次に入ってきた男性は少しくたびれた感じであった。どこかで働いた後と見え、朝食を机に置き椅子に座ると、オーディオプレイヤーのイヤホンを耳に入れそのまま寝てしまっていた。

都会に来ると人の流れがこうも違うものかと感心しつつ、消費すること、貨幣を運動させる事が重要課題である街ではこの現象も必要なのだなと思いながら、スタバを後にした。

天気予報では、少しぐずつくといっていたが初夏を感じさせるほどの快晴であった。






少女たちは何をみたのか。

2013-06-20 08:16:46 | 日記
昨晩ニュースをぼんやり見ていたら、あるニュースに身体がざわついた。「集団パニック?」というものである。

少女たちは体調不良を訴え過呼吸を起こし、救急搬送されたという。

心療内科のドクターがその現象について心理学的アプローチで現象の仮説を説明していたが、大変違和感が残った。

あくまで仮説であるので、言葉に信憑性が無いのは仕方がない事である。

したがって「原因は不明」である。

僕がこのニュースを見て直感的に感じたのは「怪異」である。

多感な時期の女子高生が観たもの。最初の人物が気づいたもの。それは、すべての人が観れるものでなく一定のチャンネルをもつものが体感できる現象であるらしい。

また、そのような感性は歳を重ねるごとに緩やかに感度が落ちてゆくという。


今回のような出来事は原因不明で片づけられる事が多いように思う。それは原因不明で支障が無いからである。

しかし、これを学校内のリスクの一つと考え再発防止に役立てようとするならば、どうしてそうなったのか知っておかなければならないと思う。

もし赦されるならば、最初の目撃者から丁寧に聞き取りをすることが真実に迫る唯一の手段であろうと思うけれど、不可能なのではと考える。なぜならば、人は恐怖を感じた現象には口を固く閉ざすからである。

他の生徒に連鎖したのは、最初の目撃者が拡声器の役目を果たし受信できるものがそれに共鳴したのであろうと考える。

また、共鳴した彼女たちは、感覚的に体感したので「何を観た」のか分からない人が多いのではないかと思う。

私達の世界は依然として知らない事で満ち溢れている。それは不意に平凡な日常に訪れるのである。

彼女たちが元気に日常に戻る事を願うばかりである。





「中学生丸山」はとても面白いぞ。

2013-06-19 08:37:19 | 日記
映画館の割引チケットが手に入った。その瞬間観たい映画が決定した。「中学生丸山」である。

監督は、今やNHK朝ドラの脚本家である宮藤宮九朗さん。ちょっと変わった人であるが彼の作品を見るたびに天才だなと思ってしまう。

物語の前半は癖のあるくだらない面白さの連続である。映画館が貸し切り状態だったので我が家に居るかの如く、思わず笑ってしまう。

しかし、中盤から後半にかけての展開の早さ、面白さのちりばめ方、伏線の回収の見事さは秀逸である。この感覚は少年漫画をぱらぱらめくってゆく感じに近い。そして最後には前半のばかばかしさが生きてくるのである。此処を目指していたのかと気づくとおもわず感動してしまう。


また、キャストも最高である。この役にはこの人でなければならないという人ばかりである。

でも、僕の住む地域での放映時間は一日一回しかも夕方である。こんなに面白いのになぜ?と思ってしまうけれど、朝ドラを作っている人と言えども、映画となればマイノリティーなのだろう。

観る人にとっては、くだらな無さ過ぎと思う人もいるだろう。お金返せという人もいるだろう。でも、僕にとってはひさしぶりに大当たりな映画であった。

本当に面白いんだから。

理解しがたい事件

2013-06-16 13:40:31 | 日記
実在女性を装いネットの掲示板に痴漢行為を求めたというニュースを見た。書き込んだのは税務職員。実行犯は元介護士。

そんな掲示板がある事にも驚きであるけれど、掲示板に書き込んだのが当人であると信じていた男もビックリである。

動機はおそらく嫌がらせであろう。精神的に追い詰められてゆく者の気持ちを考えない人達に閉口してしまう。

インターネットは大変便利で、誰かの生きる糧になっている素晴らしいツールである。しかし、誰かを傷つけてしまうツールでもある。また、使用する者の良心を問われるものでもある。しかし、人はいつの世も道を踏み外すものである。

また、経済効果等も含めて此処まで進んでしまえばいまさら後戻りもできないであろう。したがって使用する者の成長が伴わない以上、危うきツールと疑いつつ使用せねばなるまい。


また、違和感を感じたのは誘導したのが税務職員で使われてしまったのが元介護士であるという点である。

元なら無職でいいように思うが、あえて元介護士と発表されたのはなぜだろうか。

しかし、あえて発表された事により、社会的地位、社会的格差というものが顕著に出てしまったように思う。

つまらない自己中心的な行為によって、女性が被害を受け、介護と言う仕事に就く人の倫理観の希薄さが露呈してしまったように思う。

そう考えるとすべてにおいて救いようのない事件であると思う。

上京雑記 

2013-06-15 08:00:31 | 日記
新橋駅の改札を左に折れ、「ゆりかもめ」の表示を目で追いながら歩いてゆく。時間は15時を少し回ってた。日差しは初夏のようであり、下車するたびに身体がくらりとした。計画上では有楽町で下車しそこから歩いてゆこうと思っていたが、駅前の三省堂書店で僕の住む街では置いていない書籍を探すが、都心においても見つからず相変わらず自身のマイノリティーさにため息が出て、歩く気力を失ってしまった。

ゆりかもめに乗るのは2度目であるような気がするが、記憶が定かではない。平日のこの時間、ウォータフロントに向けてゆく人はどんな人たちなのだろうかと思いながら、ゆりかもめ新橋駅の階段を上がってゆくと周りから異国の言葉が飛びかう。また、修学旅行生の小集団が行程表を片手におしゃべりをしていた。

窓際の席が開いていたので程よく座る。定刻通りに動きだした車両はビルの合間を縫うように敷かれた線路をゆっくりと走る。この光景は昔見た近未来の想像図を思い出させる。左側に海が見える。一昔前なら工業地帯だったのだろうか。その前はまだ海の上で漁場だったのであろうか等と色々考える。しかし、時頼観る生活感のあるマンションをみると、ここも生活の場である事を知ることができた。汐留等のテレビ局が身近に在り、高速道路と鉄道が行き交う。わずかな海の向こうにお台場が見える。日常がこの風景であると田舎の風景などは大変退屈なものであろうと思われる。

車窓からふと眼を下にやると、倉庫が見えた。その窓には「密輸防止」の大きな文字。続いて461-961という電話番号(白い黒いと読ませるところがなかなか巧い)が表示されていた。 密輸と聞くとドラマの中の言葉でしかないので大変驚く。かと思えば高校の体育祭が行われていて元気よく子供たちがグラウンドを駆ける姿もみえた。よく考えると東京と言う街は、これが標準であるから栄え続けるのだろうと思った。それが正しい事だとは思わぬが、いつの世も悪が蔓延らなくては都市が成り立たぬのは必然なのだといえよう。清濁呑みこんでこそ成長があるのだろう

お台場で下車。ダイバーシティに展示してある「ガンダム」を観る。子供の頃はパイロットになりたいと夢見た事もあったが、今ではそのときめきも感動もない。とりあえず写メに収め再びゆりかもめお台場駅に戻る。ゆっくりと走る車窓から、東京タワーやスカイツリーが見えた。気がつくと日差しがゆっくりと西に傾き始めていた。 


君はなぜ福祉の職業に就いたのか。その2

2013-06-12 09:05:38 | 日記
新聞を開き記事を読む。情報が更新されている。どうやら一年半の間に3つ施設を変わり、最後に落ち着いた施設での勤務態度は良好で関係者は今回の報道を受け「信じられない」ようであった。

記事を読むと、入居者からの反応も良好で普段は本当によい人であった事が窺える。

しかし、事件が起こった施設に身を置いていた数日の間にいったい何があったというのだろうか。

その動機は「目立ちたかった」からだという。どういう事だろうか。急変の第一発見者になれば目立つのであろうか。

おもわず頭を抱えてしまう。

高齢者ならば急変は普通であるし、それがその人の寿命かもしれない。老健等 終身でない施設ならば、早期発見も大切かもしれない。しかし特養ならば、静かにその人の人生の最後を看取る事が特養職員がやるべき事なのではないかと考える。

人生の最後の最後に誰かに寄り添ってもらえる事が出来る。それが施設の唯一のよいところなのではと思う。

しかし、そうではないようである。今回の事件が自身のスキルを他の職員に認めさせる為に行ったのは、おそらく誰よりも早く急変に気づくことが仕事ができる事を示す材料となると思ったからである。だとすればあまりにも短絡的である。 

入社して数日でそういう経路に至った理由は何であろうか。ひょっとすると施設の体質が彼をそのように思わせたのかもしれない。しかし、それでも人の命を引き換えに行う事ではないし、彼の中の正義感がそうさせていたのだとしたら、傲慢極まりないと思う。

しかし、その施設での出来事を彼なりの成長の糧と考えると現在の職務に対する態度も頷けるように思う。

彼はどう思いどう考え、この事件を引き起こし、上手く切り抜けようとし、次の職場にどのように生かそうと思ったのだろうか。

真相は分からない。


また、この事件は少し特殊であるように思う。

報道はこの事件を一見最近のように思わせるが、三年も前の出来事で、施設のある関東地方では5月末に報道されていた。

このズレは何を意味するのだろうか。

彼の言動も含め、施設の対応、地元警察や死亡診断を行った病院の判断、そして報道。身近で起こっている出来事なのに、霧がかかっていて大変見通しが悪い。

不信感が募るばかりである。

君はなぜ福祉の職業に就いたのか?

2013-06-11 09:46:23 | 日記
朝から憂鬱なニュースを目にする。介護福祉士の職員が「入所者女性を暴行死させる」というものである。

関係者の容疑者に対するコメントに聴き入ると「よい青年」と言う印象だったらしい。

しかし、次々に暴行しあの世に追いやった事が事実だとしたら彼は死神ではないだろうか。

暴行に至った動機はおそらく、「対象者が自身の思い通りにならなかったから」である。

対価を払い、意図をもって暴力を振るわれ、死に至らしめられる。戦場ならまだしも、それが行われたのは社会福祉事業所の中である。

職業上のモラルの低下という次元の話ではない。

問題の要は、雇用する側がなぜ彼の資質を見抜けなかったのかという事である。

資質をある程度見抜けていても雇用せざるを得ない運営状況だったとするならば、それも問題である。

待機者の緩和が求められて久しいが、事業所が増え雇用が生まれても、「そこで働きたい」という人がいなければ政策自体が本末転倒である。

メディアを通して危機感を煽り、国民一人一人に自立を促し介護保険を徴収しつつ出資を減らし財政をプラスに転じさせるには介護業界自体を下流下層に追いやり、職業としての地位を劣化させればよい。そして、さらに安い雇用条件を受け入れる人材によって安定を図る。これが本来の目的ならば今の状態は彼らの掌にあるといえる。

真相はどうなんだろうか。

話がそれてしまったけれど、彼はなぜ福祉の職業に就いたのだろうか。僕は現場を通してずっとそれを考え続けている。しかし答えは出ない。

しかし、行いが粗い人のある傾向は認められる。それは職業を選択する際に「この職業しかなかったから」という理由でエントリーしてきている人が多いという事である。それでも職員間で助け合いがあれば、最悪の状況は回避できるのではないかと信じているけれど、自分に甘く他人に厳しい人達の集まりの中では、もうどうにもならない。

綺麗事だけでは世の中渡ってゆけない事は重々承知しているけれども、このような事件が起こるたびにこの業界に諦めを感じてしまうのです。

本当にどうなってゆくのだろうか。







上京雑記 その2

2013-06-09 20:57:48 | 日記
メディアから伝わるサブカルチャーと「シュタインズゲート」の舞台を一目見ておこうと秋葉原の駅に降りるとさっそく「萌文化」を目にする。東京芸大美術館に立ち寄ったすぐ後なので、不思議な感じがするが、違和感がない。僕の変わった嗜好性による感覚かもしれないけれど、これも一つのアートと言えるのでは考える。

改札を出るとシュタインズゲートの世界であった。少し感動。でも、人の多さ、目眩がするほどの広告に圧倒される。これが日常である事が逆に不思議である。時間は14時前。お腹もすいていたので昼食を摂るべく飲食店を探す。しかし目に付くのは衣食住に関わりのないものが多数であるが、地方にはないモノが普通に陳列されている事には少しばかり羨ましさを感じる。

17号線に出て万世橋とは反対方向に歩く。しばらくするとメイドさんがチラシを配っている姿が見えた。ふむ。これも体験しておくかと、メイドさんに尋ね案内していただく。さりげなく聞いたつもりだが、実はかなり勇気がいった。

メイドさんの言葉はかなり早い出力で、恥ずかしさもあってか上手く聞き取れないまま狭いビルのエレベーターに案内される。
後からスーツ姿の青年数人がキャリアに荷物を載せ入ってきた。今の仕事を辞めるとか辞めないとか言いながらも8日に行われる総選挙のチケットを片手に、もう一方の手には「まゆゆ」の選挙ポスターを持ってさりげなくこちらに向け、明日のアリーナ行きの話していた。狭いエレベータなので目があったがなぜかお互いに「にやり」としてしまった。

エレベーターの扉が開くと、「おかえりなさいご主人さま!!」コールである。

嗚呼。来てしまったなと戸惑いつつも、メイドのお嬢さんに案内され後についてゆく。

歳の頃は、友達の娘くらい。それだけでもかなり抵抗があるが、いいおじさんであるので気持ちを見透かされないように爽やかに応対する。席に着くと目の前に座りこまれに少し上目使いにシステムの説明を「萌」っとされる。萌っとしながらもその料金システム自体はかなりクレバーである事に気づく。しかし「入国」してしまえば拒否することなど出来ない状況にもっていかれるので承認するよりほかに選択が無いのである。

メニューはシンプル。お腹もすいていたのでオムライスのセットを注文。

以外にもメイドさんのコスには不思議と萌っとしない。それは彼女らが懸命に職務を全うしようとする気持ちが伝わってくるからであった。そして目の前で飲み物や食べ物に「あい」を注ぐ儀式をインストラクションするお嬢さんは、この空間でのコミニュケーション以外は不器用であることが言葉や行動の節々に認められるので、心の中で「がんばれ!」と囁いてしまうのであった。

でも、頑張ってメイドさんと共に「もえもえ」と唱えると、不思議なものでおもわず顔がほころぶ。

空腹もあってか「猫の絵」が描かれたオムライスは美味しい。しかし、この空間には馴染めず地に足が付いていない感じがしていた。

しばらくすると海外のお客さんがみえた。「海外からも認知される文化なのだなぁ」と感心しつつ様子を窺っていると、一人のメイドさんが流暢な英語でシステムの説明を行い始めた。接客姿勢もスムーズで安定感があり、安心してみていられる。

そのスキルの高さに少しときめいてしまうが、やはり友人の娘さんと同じくらいの年頃なので気持ちはあっさりと消える。

オムライス美味しく頂戴し、レジへ赴くとセットの中の記念撮影がまだである事に気づかれる。システムの説明を受けた時点で理解していたけれど、このままスルーしてくれないかなと思っていたので、少し焦る。仕方がないと覚悟を決めメイドさんのいいなりになる。

写真に落書きまでしていただき。エレベータに乗り込むまで萌文化を十分堪能。

そして、またしばし考える。このような空間が唯一他者との交流場所でありオアシスであるという人も存在しなければ、この事業は成り立たなくなるのではと思いつつも、依存してしまうと喪失してしまった時に気持ちを補完は可能なのだろうか。執着は人を追い込む嫌いを抱いているのでそこに潜む危険性はどんなものであろうかと考えたのです。しかし、改めて考えなおすと人の心は移ろいやすいものでもあるので変な考えをしなくてもよいかとも思ったりしている。


狭いエレベーターの扉が開くと眩しいくらいのモノと空梅雨の日差しが差し込んでいた。通りに出ると改めて人の多さに驚くと同時に、突然目の前で鋭利刃物を振り回されたらかわす術はないのではと頭の中を過ぎると次第に前から歩いてくる人の動きに敏感になってゆく自身に驚く。

平和で、ある人にとっては夢のような時間と場所である。それが突然不条理な暴力によって現実に引き戻された時の絶望感を考えると胸が痛くなる。そんな事を考えながら次の目的場所までの切符を購入。

時刻表を確認せずプラットホームへ通じる階段を上るとやはり電車が入ってきた。素晴らしいと思いつつ、足早に乗り込み秋葉原を後にした。

昨日、帰宅後のニュースで5年前の昨日あの無差別殺人の事件があった事を知った。そして、なぜ人ごみのでそんな事を考えたのだろうかと不思議に思ったのです。








上京雑記。その1

2013-06-08 21:04:19 | 日記
僕の住む町は田園に囲まれ、公共交通機関のバスが2時間に一本しか走らない場所にある。したがって上京すると本当に驚きを隠せないのと同時に考えてしまう事や発見も多かったので、田舎者の思いを素直に書き記しておこうと思います。

今日はその第一話。

山手線や京浜東北線に乗りながらふと思う。時刻表を気にせずとも乗り逃がしにおける時間のロスはほとんど無い。本当に素晴らしいなと感じながらも、過密運行が生む経済効果、これに対応するエネルギーの消費量はどれくらいなのだろうかと考えた。

そして火力、天然ガス、水力等の発電のみでこれを賄えるのだろうかと思った。

利便性を高めてゆくとエネルギーの消費は避けられないという証明であり、エネルギーの供給によって維持されているという現実がある。

それは、あの中で生活していればごく普通の現象であるけれど、非常時には一瞬にしてその利便性を失うと言う事でもある。

しかし、その危うさをも包括することが都市が発展し続ける条件なのではと思ったのです。

そう考えると、誠にエキサイティングである。