硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「風立ちぬ」 君さりし後 24

2014-08-31 07:43:46 | 日記
翌朝、静まり返ったホテルの食堂で朝食をとりながら新聞を開くと、この混乱のさなかにも新聞が機能している事に安心を覚えた。そして、東久邇宮内閣が誕生し新たな国作りが始まった事に希望を抱きつつも、同時に英霊の無言の凱旋が始まっている事を知り心が痛んだ。

次郎はゆっくりと出発の支度を済ませ、想い出の高原ホテルを去ると、奈穂子が過ごしたサナトリウムへと向かった。

鉄道を乗り継ぎ、小渕沢駅から再び中央線に乗ると、空が一層近くなり、次第に八ヶ岳の姿もはっきりと見えてきた。
小さな駅舎の富士見駅に降り立つと、高原療養所のしるしの付いたハッピを着た、歳をとった小使いの男が、次郎を迎えに来ていた。次郎一人だけが列車から降り、改札に向かうと、その男が、

「堀越さんですね。」

と、声をかけてきた。次郎は、

「はい。堀越です。よろしくお願います。」

と、言って一礼をすると男は「こちらへ」と言って、駅前に止めてあった自動車へ案内した。自動車に乗り込むと男は黙ってエンジンをかけ、古びた小さな家が一列に立ち並んだ村の方向に向けて、緩やかな登り道を走りだした。
奈穂子はどんな気持ちでこの景色を見ていたのだろうかと次郎が考えていると、小使い男が気を利かしてか、場を紛らわすかのように話しかけてきた。

「今日も暑いですなぁ。堀越さんは、此処は初めてですかな。」

「ええ。初めて訪れます。」

「そうですか・・・。此処は何もないですが、空気が美味いから身体にはとてもいい。きっと良くなるはずだ。」

次郎はその言葉に微笑み、ミラー越しに「そうですね。」と返事をした。

雑木林の向こう側に赤い屋根が見えると、男は「あの赤い屋根が療養所です。」と、言った。

サナトリウムにつくと、簡単な診療を受けた後、病棟の2階の6畳ほど部屋の一室に案内された。板張りの床に、真っ白に塗られた椅子と卓とベッドと、小使いが先に運んでおいてくれた次郎のカバンがぽつんと置いてある光景は淋しさを感じたが、バルコニーに目をやると、先ほど通り抜けてきた村と畑の向こうに南アルプスとそれに連なる山々の姿が見えて気分が和らいだ。次郎は空気を入れ換えようと窓を開けると、さわやかな風が吹いてきて白いカーテンをふわりと揺らし、次郎の身体を抜けてゆくと、次郎は不意に浮かんだ言葉をつぶやいた。

「風が立った。・・・生きる努力をせねばならぬ。」

「風立ちぬ」 君さりし後 23

2014-08-31 07:35:48 | 日記
翌日、次郎は再び荷物をまとめ家を出た。母と加代は笑顔で見送ると、次郎も明るく振舞い「行って参ります。」と言って、いつまでも見送る二人に何度も振り返り手を振った。
朝靄立ち込める藤岡駅から朝一番の汽車に乗り、高崎で乗り換えると奈穂子が眠る軽井沢へ向かう汽車に乗った。
奈穂子は生前、次郎と再会を果たしたあの軽井沢村で永遠の眠りにつきたいと願っていて、それを聞いていた里見氏も奈穂子の最期の願いをかなえてやりたいとその亡骸を軽井沢の教会の墓地に安置した。

軽井沢村に到着すると、次郎は奈穂子と再会したあの高原のホテルに向かった。
駅前の家並みを抜け、ホテルに向かう細い一本道を歩いてゆく。相変わらずの暑さであったが、高原の木々の影に入ると高原独特のひんやりした風を感じた。森を抜けると奈穂子が写生していた小高い丘が見えてきた。此処も戦火を免れ、あの頃と変わらぬ姿を残していて安心と懐かしさを感じた。
ホテルにつくとロビーでは多くの外国人が出発の準備を始めていた。どうしたのかコンシェルジュに話を聞くと、どこかの国の大使館の人々が疎開先として一昨日まで利用していたが、終戦を機に大使館へ戻る準備をしているのだと言っていた。少しばかり混乱しているものの今のところは宿泊できるというので予約を入れ、荷物を預けるとホテルの近くにある丘の上の教会に隣接した墓地へ歩いて行った。

ホテルからさらに丘を登ると小さな教会があり、そこからは浅間山の雄大な姿が見えた。次郎は道すがらつんだ野花を手に、墓標前に立つと、帽子を取って奈穂子に語りかけようとしたが、複雑な思いは言葉にならなかった。

あの時、すべてを投げ出せれば奈穂子に寄り添っていられた。しかし、そうすれば次郎に関わるすべての人に迷惑がかかり、その上に何もかも失ってしまう非情で暗黒な時代であったが、それは言い訳にしかならないことも十分わかっていた。

「・・・随分待たせてしまったね・・・。仕事が終わって・・・戦争もおわって・・・ようやく穏やか日々が訪れたよ。」

次郎はしゃがむと花を墓標の前に置き、

「日記読ませてもらったよ・・・。苦しい時、辛い時、傍にいてあげられなくて出来なくてごめんね・・・・・・」

と話しかけた後、黙ったまましばらく奈穂子の墓標を見つめてた。そして、想いを絞り出すように

「たとへわれ死のかげの谷を歩むとも、災いをおそれじ、汝、我と共にいませばなり・・・。」

と、聖書の詩編の一節を詠んだ。

空には入道雲が天高く立ち昇っていたが、どこかでツクツクボウシが鳴いていて、野に揺れる若いススキは穂を広げようとしていた。