硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

戦争や紛争は絶えないけれど。

2023-10-29 17:42:08 | 日記
戦争や紛争の事を考えていると気がめいってくる。しかし、争いが生じてしまう原因が気になってしまう。

インターネットで安易に情報収集できるようになってはいるけれど、これという情報には迫れない。
ならばと、AIに尋ねてみるが、AIも僕がネットで調べられる範囲の答えしか教えてくれない。

テレビに出演しているコメンテーターの話もしっくりこないし、週刊誌や月刊誌の記事にもしっくりせず、現在進行形の事象であるにも関わらす、分からないという事実だけが残った。

そこから導き出された答えは、戦争や紛争という事象は、多くの要因が蔦のように複雑に絡まっていて、空気を入れ続けた風船が突然破裂するように始まってしまうものであるということなのだろうと思った。

その事から、戦争や紛争の歴史を語るときには、戦争や紛争は、「知らない者どうしが、一つの場所に集められ、それぞれの異なった動機で、殺し合わなければならない行為である」という事を前提にして語らなければ、戦争や紛争の本質を見失うのではないかと思った。

そして、貨幣が重要になった現代では、権力者と大富豪といった個人の意向によって、国やテロ組織が動かされ、戦争が始まることもあるようである。

それは、「陰謀論」と呼ばれるものであるけれど、戦争や紛争が起こる事によって、富や権力を得る者が存在する以上、その要因を全否定することはできないだろう。

戦争や紛争によって甚大な被害を受けるのは、戦争や紛争に関係のない市井の人々である事も忘れてはならないと思うし、生きづらさを感じる世であったとしても、その事実があったことで平和が享受できているなら、過去の戦争や紛争に対しても、再び争いになるような言論は慎んだ方がいいのではと思う。


kingdom・of・heaven

2023-10-17 21:06:05 | 日記
テレビでも新聞でもラジオでもイスラエルでの紛争が大きく取り上げられている。
しかし、分からない事が多すぎる。

この紛争の原因が「起源」にあるならば、「誰が誰に対して先に剣を振り下ろしたのか」が分からなければならない。しかし、誰も分からないはずであるし確かめようもない。
昔の書物に記されていたことがすべて正しいと証明する事も難しい。

かの地で去年や今年に誕生した子供たちに、「君は罪びとなのだ。だから生かしておけない」と誰が言えるだろう。
神は偉大である。しかしその偉大な紙が、生まれてきたばかりの幼子に、「おまえは敵対する者を殺さなければならない」というだろうか。

小さな争いが続いていたとしても、比較的平和な日々が送れていたならば、問題は大きな紛争になった原因を作った者にある。

武器を持たない人を無差別に殺してゆくことが、悪である。

歴史的な背景のせいにしていては、人はいつまでたっても憎しみ合うばかりである。

紛争を起こして巨万の富と権力を得ようとしている者に、踊らされてはならない。

紛争を報道し続けるならメディアは情報をしっかりと精査し、正しい情報を届けなければならないし、日本の「戦争を知らない政治家」は、日本の未来の為に、争いに巻き込まれないように外交に力を入れなければならないと思う。

カオスな未来がやってくるかもしれない。

2023-10-12 21:35:57 | 日記
介護施設での事件の記事を読む。
気にしないでおこう、もう関係ない事だしと思おうとするが、事あるたびに考えてしまう。

一つの事件は入所者を薬で殺害した事件、もう一つは廊下で仕切りせずにおむつ交換を行い、しかも交換頻度も守らずというものである。

両施設の責任者は事態を重く受け止めているというコメントを出しているが、その短いコメントを読んで、「知ってたでしょ。事前に回避できたでしょ。」と思った。

介護事業というのは、利用者が施設を利用してくれれば、それだけで一定のお金が入ってくる構造である。
しかも社会的弱者である体の不自由な高齢者が相手であり、介護は日常生活動作が理解できていれば、出来る仕事であるので、他の職種では働く事が出来ない人にとっても辛うじて働ける業種となっている。
さらに、安い賃金にたいしても文句も言わず労働してくれる人材は、利益を優先する施設にとってはたいへん都合のいい存在である。

しかし、そういう人達は、なぜかプライドが高い人が多い。

そのような人たちを上手く使うには、決してプライドを傷つけてはならない。
その為には、仕事の精度を求めるのではなく、やりたいようにやらせておくことが必要となる。

なぜ、そうしなければならないかというと、他の施設に「都合のいい職員」を取られてしまうからである。
だから、知っていても、知らないふりをしておき、「施設長はうるさく言わないからいい人」と思わせておくことが、結果的に施設に利益をもたらす事になる。
それが、職業倫理から外れていたとしても・・・・・・。

この事件は、おそらく内部告発によって明るみに出たものだと推測する。
きっと、良心が痛み「なんとかしなければ」と思った人がいたのだろう。

現在の介護施設は、ほんのわずかな「良心を持つ人たち」によって、支えられているのではないかと思うが、世代交代に失敗した事業は衰退してゆくしかなく、社会から邪魔者扱いされた老人は、良心を失った施設で、最下層の人として、みじめな思いをしながら息絶えなければならなくなるのかもしれない。

この状況を劇的に変化するためには、制度を作った政治家の力が必要となるが、勝ち組である政治家は、金を生まない最下層の人々の待遇など、選挙が終われば忘れてしまうと思う。

宗教という思想は。

2023-10-10 16:46:20 | 日記
昨日の朝刊の記事の中に、「こんなことができてしまうのか」と驚いた事件があった。

それは、東京のお寺の住職さんが、墓石業者に殺害されたという事件。

住職さんはお寺に隣接する霊園を在来仏教を信仰している人の為に考えていたのであるが、墓石業者さんは、宗派不問としたかったようである。
現時点での理由は、業者さんが霊園の販売や管理を行っていて、在来仏教に絞ってしまうと、「売りたいものが売れにくい」からと考えられている。

たしかに現在の霊園は、購入者の多種多様な要望に応えるために宗派不問とするところも増えてきているし、どちらかといえば、無宗教者の多い日本では一つの宗教宗派に拘る理由も希薄になりつつある。

その事象は、宗教がなかった頃への原点回帰といえるかもしれない。

しかし、なぜ、僧侶の命を奪ってまでも、利益を得たかったのであろうか。
ニュースや記事から推測すると、初動から不完全であり、逮捕されるのは時間の問題であった。加害者が犯行がばれないようにと考え抜いた末の犯行だったとしても、逮捕された時のリスクを考えることができたら、損失の方が大きすぎると気づけたはずである。

しかし、思考は目先の利益にフォーカスされていた。
思考の構造は、回転寿司でいたずらをする子供たちと同じであった。

犯行は積もり積もった苛立ちの末と思われるが、根本的な動機は、目先のお金の方が仏教という思想よりも尊く、命よりも重いと思ったからなのだと思うが、それは、動画がバズることが何よりも大切と考えるのと同じであると思う。
そして、それが、社会経験を積んできた初老の域に入っている人の考え方であるのが驚きであった。

お金を集めるために宗教を利用する事は、いつの時代にでも見られる事象であるけれども、「神や仏などいない」「お金が神であり私が仏である」というような浅ましい野心がないと、人を殺めたり、騙したりできないのではないかと思う。

私達は、宗教は「お金や権力」とは別次元の思想である事を忘れてしまっているように思う。

古の時代から三十三間堂が存在する意味。

2023-10-05 20:53:35 | 日記
三十三間堂に行く。

なぜか時々、千一体の観音像を観たくなる時がやってくるのである。
そして、拝観するたびに興味深くなってくるのである。

じっくり拝観していると外国のツーリストや国内の修学旅行生が慌ただしく目の前を通り過ぎていった。
若かりし頃の僕も、こんな感じだったなと思いながら千手観音像を観ていたのであるが、突然、ある考えに至った。

「後白河上皇はなにに恐怖を抱いていたのであろうか」と。

これだけ大掛かりで荘厳な寺院を、時の権力者の力を借りてまで建立するのであるから、民の為というよりも、何かを「封じ込めなければならなかった」と考えた方が、莫大なお金と時間をかけたことにも納得がいくのである。

建立した理由は、史実によると、頭痛に悩まされていた後白河上皇が熊野権現のお告げによるものとされているが、時代は戦乱の時代である。
戦乱の時代とは、沢山の人が権力争いの末に、罪なきものでさえ殺してゆくのであるから、命を落とす人々の念もすさまじいものであったことは想像に難しくない。

念は恨みとなり呪いとなるものである。

もし、後白河上皇が鈍感な人物であったなら、見えないものは見えないはずであり、感じないものは、感じないものだったであろう。
だとすれば、頭痛の原因は、「何かに憑りつかれていた」と考えてもおかしくはないであろう。

また、境内の「法然塔」も鎮魂の為に安置したのではないだろうか。

「法然塔」の説明には、1204年に土御門天皇が後白河法皇の13回忌を行う際に法然は声楽に秀でた僧侶を集めて法要を修したとある。
しかし、その3年後、法然と門弟たちは、「承元の法難」と呼ばれる罪に問われ、門弟4人が死罪、法然と門弟7人が流罪とされているのである。

その頃、土御門天皇はまだ幼く、実権は後鳥羽上皇が握っていたと考えられており、後鳥羽上皇が判断したであろうと考えられているが、その罪が冤罪である疑いがあるのである。

もし冤罪であって、後鳥羽上皇も後に、その事実を何らかの形で知りえたとしたならば、あえて蓮華王院の境内に法然塔を安置したことも納得がいくのである。

当時は、見えないものへの畏怖は弔うことでしか拭えない時代だった。

つまり、三十三間堂とは、権力争いで殺されてしまった人々の怨念をあらゆる神仏の力によって封印し、今もなお供養し続けている、そういう場所なのではないかと思った。

「梨」と「母」

2023-10-02 09:40:24 | 日記
「梨をむいたったで食べな」と母が言う。
なぜか、去年のこの時期から、そういう行動をとるようになった。

80代とはいえ軽トラックを運転し、隣町のクリニックに行ったり、畑に出て野菜を育てたりする元気はある。
しかし、近頃はテレビの前でウトウトする時間が伸びてきている。

いつの間にか背も曲がり、身長も縮んだ。僕の部屋が散らかっていれば、散らかっているのが気に入らないのか勝手に掃除をしていたほど、マメに掃除していた人だが、自分が散らかしていることにも気が付かなくなってきている。

それでいて、僕の助言にはいっさい聞く耳を持たず、母と子の関係を固持していたいという気持ちでいるから、もやもやしてしまう。
でも、僕が子供の頃、素直に言うことを聞かなかったのだから「おたがい様かな」と心を納得をさせている。

介護職員という仕事を選んだ理由の一つに、「母が衰えた時に狼狽えないようにしておく」という目的があったのだが、我が母の事になると、「母とのこれまでの出来事」という記憶が、「受容と共感」よりも先に出てくるので、つい口調がきつくなる時がある。

真から「おたがい様」という境地に至るには、「我」がありすぎて「他」を「利」することができない。
きっと、この先ももやもやしながら、見守ってゆくしかないのであろうと思っている。

「梨をむいたったで食べな」

梨が好きなわけでもないのに、それを知っているはずなのに、なぜ梨を進めるのだろうかと考えていると、ふと思い出した。

15年前に他界した「父」が好きだったことを。

その事は口に出さず、「ありがとう。いただきます」といって、きれいに剥かれた梨を、今日も頬張る。