硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

インフルエンザはどうなの?

2018-01-31 22:16:33 | 日記
今年もまたインフルエンザに罹ってしまった。妻が先に罹っていたので仕方なしというべきかもしれないけれど、床に臥せってうんうんと唸りながらいろいろ考えた。
まず、タミフルという薬。いつもお世話になるのだけれど確かによく効いて助かっています。しかし、なぜか、今回は客観的にかんがえることが出来てしまった。

タミフルを飲んで横になっていると、悪寒というか震えが起り、身体全体に効いてきている事を感じる。身体の節々が痛くて寝返りを打つのだけれどどうにもならない。そんな時の為に頓服を処方してもらっているのだけれど、少し我慢してみる。
すると、頭の中で何の関連性もない歌謡曲が流れだしたり、なんのキーワードも与えないのに今まで考え付かなかった言葉が駆け巡ったりした。(書き留めておけばよかったなと後から後悔)

これはよくないな。と思い、頓服を服用すると悪寒は消え頭の中の不思議な現象も停止し、静かな眠りが訪れた。タミフルはよく効くけれど、やはりキツイ薬であることを再認識した。

しかし、予防接種を受けたうえでインフルエンザに罹り、治療薬のお世話になるという矛盾は、疑問を懐かせる。だから、意図的事だとしたらどうだろうか。などという考えもついつい出てくる。

もし仮に、製薬会社が某自動車会社や製鉄所のように、「数字」を求められたらどうなるだろうか。現場の気持ちを考えない上役が「数字だけに固執」したら、人の幸福より、私の利益を優先するのではないだろうか。

突然変異するインフルエンザのワクチンなのだから消費期限は短い。だから、短期間で大量生産し、消費しなければ製薬会社は損失を出してしまうことになりかねない。仮に、ワクチンを接種する事が予防の目的の一方で、インフルエンザに罹りやすい身体を作る事にもなっていたら、治療薬も同時に消費される予想は付きやすい。

もし、このような計画が私たちの知らない所で進められているのならば、何ともやりきれないし、「ナイロビの蜂」のスラム街で予防接種を受ける人々と何ら変わりがないのではとも思ってしまうけれど、日本の医療機関はそんなことはしないと信じたいし。厚労省はそんな行いを赦さない機関であると信じていたいと思うのですが・・・・・・。

小室哲哉さんへ。

2018-01-22 22:12:11 | 日記
小室哲哉さんへ。

僕はTMネットワークがとても好きでした。小室みつ子さんとの共作にはすごく救われました。ソロ活動をされたりプロデューサーとして活躍されているときは、小室さんらしいなぁと思って音楽を聴いていました。プライベートでの問題がメディアに出た時は、アーティストだし世離れしている人だから仕方がないよなぁと思いました。
だから、keikoさんと結婚された時は少し驚きました。

keikoさんが病に倒れた時、繊細な人だから奥様の看病と後遺症に悩まされるのではないかと思いました。時頼テレビでお見かけする時には、随分歳を取られたなぁと思いました。そして、現在の小室さんの音楽を聴いたとき、TMネットワークの時のような感動はありませんでした。それは僕があれから様々な音楽を聴いてしまったからなのかもしれません。

不倫報道が出た時、じっと小室さんの言葉を聞きいていました。不思議と何も感じませんでした。
ただ、背中がやけに曲がって小さくなってしまったなと思いました。

でも、いつか、小室さんやkeikoさんと同じ苦しみを持つ誰かの為にその経験をメロディにのせて励ましてください。

待っています。

信じる者は救われるのか。

2018-01-21 16:01:25 | 日記
オウム真理教による一連の裁判が終わった事が新聞で報じられていた。でも、亡くなった人は帰ってはこないし、重い後遺症を抱えている人もいて、「すべてが終わった」という訳ではなく、23年という月日を経て、新しい信者、事件を知らない若い人が年々増加しているそうです。

しかし、ネットにつながれば固定された情報が溢れかえっているのに、なぜ人は盲目になれるのでしょうか。奇跡を見せることが出来なかった人にどうして惹かれてしまうのでしょう。
布教をする人々の言葉には、どんな力があるのでしょう。
神や仏の伝説的な言葉を独自に解釈したものが、普遍であるとなぜいいきれるのでしょうか。
たしかに日々起こる理不尽な事件や災害を目の当たりにし、こんな世の中があっていいのだろうかと思うし、個人レベルでも、どうして人はこうも自分本位なのだろうかとは思う所もあります。
だから、世間と「私」の間に壁を作り、「私」と同じ価値観を共有できるコミニュティーで、神や仏の言葉を根底に置いた言葉を信じ、争いのない世界で生きてゆくことはたしかに神を喜ばせる行為と信じれるかもしれません。しかし、それが本当に正しい人生の過ごし方なのでしょうか。
僕は懐疑主義者かもしれないけれど、神や御仏が共に歩んでくださっていると思うならば、むやみに人を傷つける事を許してくれるとは思えないし、教祖は神でも仏でもないから、教祖の解釈の入った言葉を厳格に信じて生きることで幸福になれるとも思い難いのです。
そして、親に依存するしか術のない現世と遮断されたその2世達の現世とのギャップによる苦しみを想像すると、はたしてそれが本当に正しいのかという疑問を払拭できないのです。

多様性を否定するつもりはありませんが、多様性を認められた世の中だからこそ信仰できるのだから、個人の幸福というのも多様性に満ちているのだという解釈には至らないのでしょうか。

人の気持ちは複雑です。「愛」は混乱を招くものかもしれません。でも、思いやりがなくなってしまえば、人命を奪う事に何も感じなくなってしまうかもしれません。
その世界は本当に素晴らしい世の中なのでしょうか。

(おおっ、まるでヤマト2202のガトランティスのようだ。)

差別や格差。

2018-01-15 21:31:38 | 日記
つい先日「ナイロビの蜂」という映画を観た後、トランプさんの差別発言騒動が報じられていた。

「ナイロビの蜂」は2005年の映画なのでご存知の方も多いかと思いますが、貧しさゆえに搾取される人々が存在する国をこの21世紀に観ると、どうすることもできない現実なのだと思うと同時に、スラムの人々は生きる為に懸命に生きているんだと云う事が伝わってきます。

また、貧しさゆえに、平然と賄賂を要求したり汚職をしたりする役人や、人を動物と同じように殺す事で対価を得る人が存在する事も事実なようです。

トランプさんは果たしてどちらをさして批判しているのでしょうか。それともすべての人を含めているのでしょうか。

この映画のように、列強国が大きな対価を得る為に、貧しい人々から生命を搾取しているのだとしたら、批判できるでしょうか。

また、馬や歩行が主な移動手段としている民族に、サブマシンガンが渡っているのはなぜでしょうか。

物語はミステリーサスペンスでもあり、純粋なラブストーリーでもあるけれど、そこに託された多くのメッセージは多くの人々に届いているだろうか。

レイチェル・ワイズの魅力も打ち消してしまった『ナイロビの蜂』。いろいろ考えてみて思ったのは、恐らくこの先も人種差別は無くならないであろうし、社会的格差は広がるばかりであり、格差や人種差別がなくならなければ多様性社会というのも世界全体規模としては構築できないのではないかと思う。

スターウォーズ

2018-01-03 15:54:55 | 日記
御正月休みも今日まで。昨日に続いてもう少しだけ述べておこうと思います。

スターウォーズといえば「フォース」 選ばれた者達が用いることが出来る不思議な力ですが、30年の月日を経て、それが、本当はなんであるのかようやくわかった気がします。

フォースのメタファーとは、つまり、「何かを信じる力」ではないでしょうか。

「信じる力」の対象は、他者であったり、愛であったり、希望であったり、夢であったりするのだけれど、自身の正しさを信じこんでしまうと、原理主義的な思考に陥り、極端に傾倒した場合、他を排除しようとしてしまいます。

それを「暗黒面」とたとえます。暗黒面が誰にでも存在するのは、信じる力が誰にでも備わっているからであり、思考が極論に振れてしまうのは、自身の正しさが人を導くと思い込んでしまうからかもしれません。

少し話は外れてしまいますが、昨今の西アジアはイスラム教圏であることは知られているけれども、その昔は他宗教な地域で、特にシリアなどはとても多様性に満ちた社会でしたが、多様性社会であったが故に危険が膨張し(土地柄、短気な人が多かったといえるのかもしれません)、内戦によって邪悪で不寛容なテロリスト集団を生み出してしまいました。

その国で戦いが終わらないのは、剣を持つ人々が「正しさを信じ」戦いは人を導くと信じているからですが、しかし、その正しさは「アメリカ的資本主義」な社会であるのか「イスラム教原理主義的」な社会であるのか、それとも、アサドさんの思い描く社会が正しいのかは、(isは社会の構築というより、個人が覇権を握りたいという欲望によって動いているようなので、あえて外しておきます)信じ方によって見方を変えてしまいます。

だから、スターウォーズも帝国側から描くと、(フィンさんのような人がトルーパーになるまでの詳細な過去)少し見方が変わるかもしれません。

誰もが持つ「フォース」。それを正しく伝承するには、マスター・ヨーダの言うように「失敗したことを教える」必要があるのですが、人は未来へ進むために「忘却」を選択してしまう(ジェダイマスターである、スカイウォーカーも最初は忘却を選択していましたね)ものなのかもしれません。だから、ファーストオーダーが台頭してしまい、再び争いが始まってしまったといえるでしょう。

不寛容な「フォース」は人を苦しめますが、寛容な「フォース」であれば、争いは無くなります。しかし、不寛容な心は寛容な心を赦しません。(ダークサイドの人達は失敗を認めていません)だから争いは続いてしまうのだという事を「スターウォーズ」という物語は私達にそっと語り掛けているのではと思えるのです。

スターウォーズ 最後のジェダイ 再び。

2018-01-02 22:57:34 | 日記
姉と姪が帰郷し、また、三人で映画を観る機会を得た。今回は「スターウォーズ 最後のジェダイ 字幕版」であった。
2回目だけれど、やはり面白く、新たな発見が多い。前回はうっかりして吹き替え版を観てしまったが、今回は字幕版にしてもらったところ、セリフに微妙な違いがいくつかあり、セリフによって場面のニュアンスも少しばかり違ってくることに驚きつつも、今回は、封切られてから幾日か経つので、少しだけネタバレを含みつつ感じたことを一石。

「多様性社会を維持するには愛と赦しが必要である」というメッセージは、レジスタンスの「ポー」さんと「フィン」さんを取り巻く環境が表しているように思いました。

たとえばポーさん。独断専行で動き、多くの犠牲を出したり、反乱軍の中で反乱を起こしてしまい、レイヤさんやホルドさんの頭を悩ませるのだけれど、レイヤ達は彼を赦し、また、「フォースと共にあらんことを」という言葉を譲り合う場面は、多様性社会の寛容さを見事に表していたと思います。

対して「フィン」さん。ファーストオーダーのコミニュティでは、あい変わらず番号で呼ばれ、裏切り者であるが故に「クズ」呼ばわりされ抹殺されかけてしまいます。命令に対して服従することが絶対であり、不寛容で赦しも愛も希薄である男性至上主義の縦社会を多様性社会である反乱軍と巧く相対させています。

しかし、格差のある安定した社会。富裕層が優遇される社会を形成する為には、力を持たなければ維持できないという事実も含まれていて、たとえば、ハン・ソロがよく出入りする酒場では荒くれ物もたまり場となっていて、個人的、または小さなコミニュティの中での小競り合いが絶えないことを表しています。その小さな力を軍隊という大きな力で小競り合いを小競り合いで留めていると言えます。でも反乱軍は、その小競り合いも多様性であると認めているようなので、(たとえば、レイの出生は明らかになっていないけれど、スクラップ集めを生業にしてしまった彼女の境遇を考えると)善悪の判断は、その場の環境によって左右されるのではと思いました。

まだまだ多くの事を述べておきたいけれど、これ以上のネタバレはタブーだと思うので、「スターウォーズ 最後のジェダイ」が世界に向けて伝えたいのは、カジノの牢屋にいた謎多き男と同じ立場になってしまうけれど、(彼の言葉って、脚本家、ライアン・ジョンソンさんの本音かもしれません。)

「もう、戦争なんてやめたら」ではないかと思う。