硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

恐怖。

2014-07-28 20:32:27 | 日記
朝からニュースで持ち切りである長崎県の女子高生殺害事件。どうして殺害に至ったのかその同機が気になって仕方がなかった。

夕方のニュースで「人を殺してみたかった」という報道を見て、考えていた同機の中の一つであったがやっぱり怖いと感じた。

僕の妄想では、最初は自宅に帰るメールを送り帰ろうとする彼女を引きとめようと試みるが、それでも帰ろうとする彼女に腹を立て、鈍器で腹部を殴ると、目の前の友人は声にならない唸り声を上げ、見た事もない歪んだ表情をみせた。この辺りから加害者の思考は腹を立てていると言う感情から猟奇的なものへ変化してゆき、床にうずくまった彼女の後頭部を殴り、痙攣している彼女をおとなしくさせる為、紐で首を絞め殺害したのではないかと思われる。

このように妄想するだけでも、気持ちが悪くなってくる。

さらに、身体切断であるが、おそらく物言わぬ彼女に向かって普段のように話しかけながら作業を行ったのではないかと思われるのだが、もう考えるだけでも恐ろしい。

もちろん、妄想であってこんなことが当っていたら、僕自身にも鬼畜な部分が存在するのではないかと思ってさらに恐ろしい。

そして、なぜ人を殺してみたかったと思ったのかを考えてみて思い浮かんだのは、人の死が日常から切り離されてしまっているという事が、人の死に興味を持つ事に繋がるのではないかと思ったのです。

人が息を引き取る瞬間に出会い、その後どのような手続きを踏んで灰になるのかを大人と一緒に体験していれば、おそらく殺したらどうなるのだろうかという思考には結びつかないと思う。

現代は人の死を切り離し過ぎているように思う。老いてゆく人の経過を、病が蝕んでゆく人の経過を、目の当たりにしていれば、精神がぶっ飛んでない限り人を殺したいという欲望は湧かないのではないかと思う。

しかし、思考がそこに行きついたのには、人を殺しても私とは違う誰かが責任を取ってくれるだろうとか、親が護ってくれるだろうという幼い判断が働いていたからなのかもしれないとも思ったのです。

色々考えては見えるけれども、最終的には、加害者の女子高生には悪魔が宿っているのかもと思うと恐くて仕方がないのです。



そして思った事。

2014-07-25 20:11:05 | 日記
昨日の続きを事あるごとにぼんやりと考えていました。

すると、そもそも人(異性)を好きになる気持ちとはどんな気持ちなんだろうかと言う所に突き当たった。

そして、すごくシンプルな問いかもしれないけれど、シンプルなだけに誰もが頷ける回答が出来るのだろうかと思ったのです。

さらに、シンプル過ぎて解らない人が多いから、少女を誘拐したり、ストーカー行為をしたりしてしまうのではと思ったのです。

好きになることとは、いつもその人と一緒に居たいと言う気持ちではあるけれど、所有したいという気持ちとは違う。

本気で好きになる気持ちは、相手の気持ちを最大限に優先することであると思うから、所有したいとか束縛したいと言う気持ちはそれに相対する気持ちであるから好きと言う気持ちではない気がします。

だから、どんなに時間を掛けようとも、恐怖で縛られようとも、そこに幸福が育まれないのだと思うのです。

人を愛するという気持ちは、なかなか分からないものですが、好きになると言う気持ちが分からなければ、人を愛する気持ちと言う尊く慈悲深い感情にも到達できないのだと思ったのです。













彼は夢の中で生きてゆきたかったのだろうか。

2014-07-24 09:09:06 | 日記
少女を誘拐し、その少女の事を「妻」と言ったという事に得も言われぬ感情を抱いた。

なぜ妻なのか。また、調教という言葉が彼にとってどんなことを意味していたのだろうか。

恐怖が「愛」に変わりえる事があるのだろうか。

調教によって「愛」は芽生えるとでもいうのだろうか。

そんな夢物語のようなことはありはしない。もし、それが出来る男なら、少女を誘拐する必要などなかったであろう。

二次元の少女は年を取らず、思考もそのままで、見た者の理想を永遠にとどめておいてくれるが、少女は生きているし、思考も広がり成長もしてゆく。

おそらく彼はそのズレを受け入れられないと思う。

なぜなら、彼はきっと自分の描いた夢の中で生きてゆきたかったのだろうから・・・。


えも言われぬ不安。

2014-07-19 16:06:01 | 日記
マレーシア航空の旅客機がウクライナ上空で撃墜されたと言うニュースを見て思った事を少しだけ述べておこうと思います。

もし、仮に「テロ」だとしたら、誰がどこに向けて行ったのでしょうか。

現時点では制空権はないのだから領空侵犯を犯したわけでもなく、空に国境は存在しない。また、航空会社はマレーシアにあり、利用者は多国籍な民間人なのだから、撃墜したとしてもテロ行為の意味を成さないと思うし、多くの国から反感を買うだけのような気がします。

また、戦闘状態なのだから侵入してくる者が悪いとか、侵入させた国が悪いという論理は責任転嫁のようで誰も納得しないと思います。

これが、きっかけになって世界に飛び火しなければいいのだけれど・・・。争いならなければいいのだけれど・・・。

世界はこれ以上の被害を出さぬように知性を働かせてほしいと思う。




それはデザートなのか?

2014-07-14 20:06:59 | 日記
母が丹精込めて作ったトウモロコシが食卓に並んだ。

物心ついたときから、この季節になると食卓の上には茹でたトウモロコシがざるに入れてあり、食べたいと思った時に食べるのが普通の行動であった。

しかしである。妻の中ではどうも違うらしい。

おかずと共に出てきたトウモロコシ。僕がご飯の途中にトウモロコシを食べだすと、

「えっ。何で今食べるの?」

と、怪訝な顔をして尋ねてきた。僕もその問いに対して怪訝そうに、

「え。どういうこと?」

と、聞き返すと妻曰く「トウモロコシはデザートでしょ。」と、疑いもなく言い放った。僕はその言葉にザラッとした違和感を覚え、「トウモロコシは普通に食べるよ。」と反論した。しかし、妻は納得いかない様子で、「そうかなぁ。」と、生返事をした。

田舎育ちの僕と町育ちの妻とは至る所で価値観が合わないが、まさかトウモロコシの所在についてまで合わないとはと驚いた。

相手の素性をよく解らぬまま結婚すると、未だにこういう事故が起こる。

トウモロコシさんの居場所はどこなんでしょうね?

ワールドカップの行方は。

2014-07-10 20:53:52 | 日記
いよいよ決勝戦となったサッカーワールドカップ。相変わらずダイジェストニュースで結果を知る程度の関心であるけれど、ブラジル、ドイツ戦の結果を観てふと思った。

エースのネイマール選手の負傷による戦線離脱とディフェンダーのチアゴ・シウバ選手の累積警告による欠場は目立たなかった選手にとってはチャンスであり、新たなヒーローが出てくるのかと思いきやあっさりと大敗してしまった。

そこで思ったのが、天才と呼ばれる人の存在の大きさである。どんな組織でも天才によって引っ張られてゆく強さというのはとても危うく脆い。

その反面、際立ったのがドイツの強さである。間違いなく強い。幾度もの苦難を乗り越えて現在に至ったドイツと言う国。

また、ヘーゲルやカントやフィヒテといった大先生を輩出した誇り高き民族であるから、国を意識する気持ちはどの国よりも強いような気がします。

次のアルゼンチン戦には天才メッシいる。当然彼へのマークは更にきついものになる。総合力かはたまた個人技か。

そう考えると両チームともディフェンダーの動きが勝利のカギになるかもしれないと思いつつも不精な僕はダイジェストニュースで楽しむのです。



いつやるか?

2014-07-05 20:33:23 | 日記
僕はどうも期を逃してしまう性格のようである。

この間、事のついでに立ち寄った靴屋さんで、一足のスニーカーに一目ぼれをしてしまった。以前からスニーカーがほしくてちょくちょく見て回ってはいたけれど、なかなかこれと言うものに出会う事がなかった。しかし目の前にあるスニーカーはまちがいなく僕の感性に訴えかけてきた。

そっと手にとってじっと眺める。色と言い、デザインと言い文句なしである。しかも、プライスダウン商品と明記してあるので値段も5000円以内とリーズナブルでこれは買いだと思い、財布を広げて見ると1000円札一枚と小銭が少々しかなかった。

それでも、お店には沢山の靴が陳列されているのだから、そうそう売れていく事はあるまいと高をくくり今度のお給料で買えば良いと思ってその店を後にした。


それから5日後。恋人に会うときのような心持で足早に陳列棚へと直行してみると、そこには新しいスニーカーが・・・。

「おかしい。たしかここの棚に陳列されていたはず。」そう思い、お店の中をぐるぐるまわったがやはりその姿が無かった。

しかし、大手のスポーツメーカーの靴だからほかの靴屋さんでも置いてあるはずと気を取り直して回って見るが、どこにもないのである。

そして大きくため息をつく。しかし、今はネットの時代である。検索すれば出てくるぜっ!と意気軒昂に探すが、やはり同じカラーの靴は見つからなかった。

思い返せば、ほしいなと思うものが目の前にあっても、「次の機会でいいや。」と思い、見送ってしまうと無かったりいたことが度々僕の身に起こっていた。

最近でも、本屋さんに行くたびに目をつけていた本があって、「これは絶対誰も買わないだろうから、お金に少し余裕が出た時に買ってやろう。」と思っていたら、ある日突然その本が棚からなくなっていた時、もう一人の僕がいるのではないだろうかと疑うくらいに落胆した。

また、ずいぶん前に女性と映画の話をしている時、笑顔を見せながら「その映画私も見に行きたいんですよねぇ。」と言われて、「これは脈ありか!!」と思いつつも、「じゃあいっしょに観に行く?」という言葉を喉で押し込めてしまい、あいまいな言葉でごまかした揚句、今度言われたら誘おうと思っていても、二度と同じシチュエーションにならなくて落胆したことが幾度かあった。

チャンスは逃してはならない。十分理解しているけれど、そのチャンスが「いつ」なのかよく解らないのが玉にきず。

かなりの「へたれ」である事を自覚しつつも、この性格をいつか打ち破ってやりたいと思うが、培ってきた性格なのでなかなか治らないのではないかと思う。






無題。

2014-07-02 21:32:23 | 日記
ここ2年程の間に高齢者から戦時下での話を聞かなくなったように思い、年齢を調べてみると、終戦を迎えた時に今の高校生くらいの人がメインになってきた。

時間は常に未来に向かって流れているのだ・・・。

僕が介護職を続けていた理由の一つには、「戦中」の貴重な体験を人の声を通して聴けた事があります。
時には感動し、時には悲しんだりと語り部を通しての貴重な追体験は僕にとってとても有意義なものでした。
しかし、語ってくれた人たちの中に戦争体験を語り終えた後「こんな話は誰も聞いてはくれなくてねぇ。」と言われたかたが何人かいらっしゃって、当時それがどういうことを意味しており、どう返事をしていいか分からなかったので、ただ「そうなんですねぇ。」と言って同意していましたが、常になぜなんだろうかと言う疑問が付きまとっていました。

その頃から不思議と少しずつ読書量が増えてゆき、次第に視界が広がって行くと、それがどういう意味を持っていたのかぼんやりとではあったが理解できるようになり、辿り着いた答えの一つが、戦争が終結した後に多くの人達がその時間を「否定」する事を選択したからではないだろうかというものであった。

しかし、それは日本特有の文化のなかで培われてきた人柄というものが大きく作用し、また、そうすることで途切れることなく生き延びてきたのだと考えると、おそらく、江戸から突然ちょんまげを「否定し」明治に移った時もこんな感じだったのではないだろうかと推測ができる。

さて、昨日、集団自衛権の閣議決定がなされ、今日の新聞に大きく報じられ様々な人が意見をのべていた。

しかし、此処にも当事者が存在しない。そして何かが足りない気がしました。

それは、僕個人が思うのは、人が周りで理不尽な暴力によりバタバタ死んでゆく状況が身体にしみ込んでいる人達が思う国が主体となって行う武力行使と、体験を介せず武力行使を行おうとする人達の言葉の重みに雲泥の差があると感じ、実体験を通している人達の「戦争はいけない」という言葉には隙がないからであるのではと感じたからです。

それは、身近な人が戦争によって命を落とす事によって、深く辛い悲しみを、自身に与えられた時間の中で負い続けて行かなければならない事を知っているからであり、それは何十年と言う時間を経ても、当時の出来事を思い出しては涙してしまうほど深い悲しみなので、話の聴き手にも強く印象深く記憶に残る。

しかし、人の生命に限りがある以上、心の痛みを伴った記録を保管するには想像力を働かすしかない。

そう考えると「思慮の欠如。」これが人類にとって最も手ごわい相手なのかもしれない。

その手ごわい相手を国会がどう審議してゆくのか冷静な目をもって見届けたいと思います。