硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「クルディスタンを訪ねて」を読む。

2015-10-27 21:03:26 | 日記
昨日書店で軽く目を通した本ですが軽く目を通しただけでは納得いくわけがなく、図書館に行き松浦範子さんの著書「クルディスタンを訪ねて」を借りて読み耽った。

何度も言うようであるけれど、読書感想文は本当に苦手。だから思ったことだけを述べておくことにします。

じっくりと読んでみたのですが、やはり分かりませんでした。クルド人とは? という問いの立て方が間違っていたのです。そして、当事者のアイデンティティーを持ち合わせていない僕が定義できるはずがない事だけは分かりました。

クルド人の生活に飛び込んでいった著者の松浦さん自身も、自身が「エトランゼ」である事に苦悩しているのですから、本を読んだくらいで理解できるわけがないのだと思います。

しかし、読んでいると、サン・テグジュペリの著書「人間の土地」を思い起こす場面にも出くわします。思わずホロリとさせられる場面にも出会えます。

また、20世紀後半のセルビアやコソボでの紛争地の出来事も思い出されました。ウクライナでの出来事も記憶に新しいです。

民族や宗教問題に、利権や権力が絡んでくると人は混乱してしまいます。

「何が正しくて何が間違っているのかー、考えてみれば子供でも分かるような非常に簡単なことのはずなのにね。」

とても心に響く言葉です。しかし、当事者から語られる言葉には、それほどに混乱しているのだという事が読み取れ、マララユフスザイさんの本と同じように、誰かにとっては希望であり、誰かにとっては腫物であるのでしょう。

本の発行は2003年。取材はさらに前であるから、現在はどうなっているのだろうかという思いも残りました。

2003年に米国主導によるイラクへの空爆はクルドの民はどう変化させただろうか。その米国が現在支援してるシリアの反政府に対峙しているアサド政権にシリアのクルド人はそれほど悪く思っていないようであることが本当であるなら、今回も当事者でない大国が混乱を助長しているとはいえないだろうか。

考えれば考えるほど分からなくなりますが、「クルディスタンを訪ねて」から訴える人々の気持ちは、争いのない平和な世の中を望んでいるという事なのです。

そして、松浦さんのバイタリティーに驚きつつも、あと何年争えば争いが終わるのだろうかと思いを引きずりながら本を閉じたのでした。


僕たちには分からない事だけれども・・・。

2015-10-26 20:27:04 | 日記
朝テレビをつけて最初に飛び込んできたニュースが「トルコ大使館前で乱闘騒ぎ」事件だった。一気に目が覚めニュースに耳を傾けると、クルド人系のトルコ人とトルコ人との間でトラブルがあったという。

僕にとって「クルド人」という言葉は、ニュースを観ていると時頼出てくる人達で、イラクやトルコ、シリアやイランで暮らしている人たち位しか分からない。

自身も無知を恥じ入るばかりです。そこで、今日は休日であったので少しばかり調べてみる事にしました。さあ、図書館へ行くぞと計画を立てていると今日は月曜日。
行く先を大型書店に変更し、「クルド人」という文字を探し歩いてみました。そうしたら目に飛び込んできたのが松浦範子さんの書籍。表紙を開き読んでゆくと、不思議と引き込まれてゆく。しかし給料日前なので、財布の中身は小銭ばかり。仕方なしとパラパラと立ち読みさせていただいたのですが、結局、僕の頭ではクルド人とは何者であるのかさっぱりわからなかった。そこで、僕なりに分かった事、そして乱闘騒ぎになってしまった根源のうすっぺらい表層部分を述べておこうと思います。

クルド人の起源は、紀元前。ペルシャとメソポタミアの辺りに住んでいたそうですが、その周辺地域は紀元前から現在まで争いが続いているのです。
近代に入りオスマン帝国が解体。ローザンヌ条約によってトルコ共和国が出来ましたが、第一次大戦後のサイクス・ピコ協定によってクルド人の人達が住んでいたクルディスタンが分断されてしまったのです。

近現代の中東の歴史を探ってゆくと、必ず突き当たるサイクス・ピコ協定。

確かに紀元前から気性が荒い人たちであるけれども、イギリス、フランス、ロシアの国々が彼らの土地を分けしてしまったために、多くの問題が生じてしまったように思うのです。
強い者が統治する事が是ならば、強い者になろうと思うのが人情ではないでしょうか。

話を戻しまして。

トルコで暮らすクルド人の人達はクルド語を使うことを2000年頃まで禁止されていたとい言います。また、ノーベル文学賞受賞者のトルコ人、オルハン・パムクさんが、アルメニア人虐殺問題について公の場で発言した為、国家侮辱罪に問われました。
なぜそこまで弾圧されていたのか。
ここが分からないところなのですね。起源がソロモン王から追放された「精霊」だからでしょうか。それとも、アッシリア帝国の暴君デハックの怨念がそうさせているのでしょうか。

ただ、僕個人が思うのは、自己主張の強い人達からはナショナリズムやアイデンティティーは無くならず、その人たちに畏怖の念を抱いている人がいて、その差異に付け込んで利益を得ようとする人がいるから平和が訪れないのだろうかという事です。

その考えに至った言葉が松浦さんの本のなかに綴られていて、とても印象深く心に残りました。それは彼女だからこそクルドの人が語った言葉なのかなとも思いました。

「心の原点は故郷にある。だから僕たちはずっとここで暮らしてゆく。あなたにはそのいいところだkを知ってもらえれば十分だ」

自国は混乱を極めているけれども、宗教間や人種間などで起こる内戦が皆無な日本で暮らしているのだから、熱い思いは心の奥にそっと忍ばせておいて、平和ボケと自虐する国の幸福を感じていてほしいと思うのです。

問いの立て方。

2015-10-24 21:47:06 | 日記
少し前に就職希望の女の子が面接に来るという話を聞いた。若返りを図れない絶望的な介護現場には貴重であり、重き門をたたいてくれたのだから、採用されるだろうと思って、お会いできる日を楽しみにしていたのであるが、いつまでたっても来やしない。そこで主任さんに「面接希望の女性はいつから来るのですが」と尋ねると、
「お断りしました」
と言った。
動揺を隠すことができず、何も考えずに「なぜですか? 」と聞いたら、
「ギャルみたいな子で、印象も悪く、採用してもどうせすぐに辞めてしまうから」
と言われた。
返す言葉が見当たらなく「そうでしたか。残念ですね」とだけ答えた後、違和感が残った。「何かが足りない」と。
そして、また考えた。ここに足らないもののヒントがあるはずだと。

数日後、その答えは突然舞い降りた。それは、「問いの立て方が逆であるのではないか」と言うものだった。
つまり、介護現場では「すぐに辞めてゆくだろう」と言う問いの立て方はよくなされるけれど、自身に対し「どうして私は尊敬されないのだろうか」という問いの立て方はしない。
離職率が高い理由がそこに潜んでいるような気がするのです。

「離職する側の問題」だけではなく、「離職に追い込んでゆく人々」に大きな問題があるような気がするのです。

しかし、残念ながら人間は虚栄心や自尊心を放下することが困難である。したがって、介護現場で「どうして私は尊敬されないのだろうか? 」という問い立て方がスタンダードにならない限り、担い手は減少してゆくしかないのだろうと思ったのです。


あれから。

2015-10-21 21:20:37 | 日記
ここ数日、横浜市のマンション傾斜問題が大きく取り上げられています。テレビでは居住者が施行会社の担当者に詰め寄る姿も映し出されていて不快に思った。でも、ふと思った。同じような場面をずいぶん前に観た気がする。そして、それはすぐに思い出された。2005年に発覚した構造計算書偽造問題の時だ。あの事件は辛辣に報道されていたので印象も深い。

しかし、あれからたった10年。しかも、今回はマンション自体が傾斜しているというのだから酷い。マンションの施行に関わったすべての人たちの記憶にも構造計算偽造問題事件は色濃く残っているはずであるし、その事で多くの人が迷惑を被った事も、同業者として覚えているはずだろうと思う。

しかし、それでも、人は目の前に益に盲目になってしまうのである。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」この諺は、人類が存在する限り永遠に上書きされることはないのだろうと思った。

介護離職0

2015-10-18 22:40:49 | 日記
安倍首相が述べた新しい三本の矢の一本の介護離職0について色々考えていた所、介護に関する新聞記事を読んで、介護離職0というのは職員が離職するのを防ぐのではなく、介護によって離職せねばならない人を無くすというものだということが分かった。本当に思い込みはいけないなと反省しつつも、担い手不足が顕著になった現場はどうやって改善してゆくのかが分からないままなのです。

さらに、もう一つの記事に目が留まった。それは一見関係のなさそうな投資関係の記事のなかにあった。

担い手がいなくなれば事業自体が成り立たなくなるというリスクは常にあり、現時点でのテクノロジーではオートメーション化も無理なのに、そのような状況下であっても投資家さんの中には介護事業への投資は是であると考えている方もいらっしゃるようです。

もし投資理由が、財源が大赤字でも、人材不足でも、需要があるのだったらサービス付き高齢者住宅のような個人資本の流入が期待できる業種には成長が見込めるという読みならば、介護職員として従事し続けるなら、その投資先へ従事した方が希望もあるのかもしれません。しかし、某施設で相次いで起きた転落事故を考えると、問題はやはりお金ではなく別のところにあるように思う。

本当に介護離職0を目指すならば、介護を必要とする人すべてを収容できる特別養護老人ホームを必要な分だけ作らなければなりませんが、その為には財源を確保する必要があり、保険料の徴収等を抜本的に見直さなければならなくなります。
職員の離職0は介護離職0につながるのであるから、職員の離職を食い止めることに力を注がなければならないと思うのだけれど、小子化と人口減少は進んでゆくものであり、若者をあてにできない状況は私たちが選択した生活スタイルの責任でもあるのだから、政府も、「政府ばかりの責任ではないではないか」と主張すればぐうの音も出ない。

新しい三本の矢と言うのはそれも含んだ上での指針だとするならば、なんとなく腑に落ちるのです。

「相棒」を観る。

2015-10-16 18:12:05 | 日記
録画しておいた「相棒」を観る。楽しみと言うか、風物詩のようになりつつある。僕自身も歳を重ねたから、右京さんへの憧れ的な感じも消失し、当たり前ではあるけれど、ようやく娯楽として観られるようになったなと感じた。

さて、感想はといえば、感想を述べるのが苦手であるので思ったことを簡潔に述べておこうと思います。

新しい相棒となった反町さんも神戸さんの時よりも泥臭い感じがして話の立ち上がりとしてのキャラクターとしてはなかなか良い感じである。だから今後、冠城さんとしてどうやって広がりを見せてゆくのか楽しみです。

ストーリーも奥行きがあって楽しめたけれども、番組自体が長いのである程度のパターン化は否めないように感じました。

昨今の事件はドラマよりも壮絶なので、形が少しそぐわなくなっているのかもしれませんね。

役者さんや撮影スタッフは熟練しているので、ここは脚本家さんの踏ん張りどころかもしれませんね。

でも、相棒ファンには変わらないので、今シーズンも楽しんで観させていただきますね。

人の心は複雑。

2015-10-13 14:02:35 | 日記
ずいぶん前に退職された方が新しい施設の中心的存在として活躍していると人づてに聞いた。

その人は新しい施設を立ち上げるために、一部の職員さんと利用者さんを新しい施設に勧誘していったそうなのであるが、僕と入れ違いであった為、実際にお会いしたことがないのですが、介護現場では時頼このような宗教的な話を耳にするので、その度に「会って話がしてみたい」という興味を抱きます。
それは、「その人が保有している非言語的なもの」に惹かれていくのだろうと考えるからなのです。
そして、今回もやはり同じような興味を抱き「会って話がしてみたいなぁ」と言ったら、「なぜ? 」と疑問を投げかけられました。そこで、前述のようなことを説明してみると、周りにいた職員さんから一斉に「違うよ。そんなのお金に決まっているじゃない」と否定された。

こういう場合、議論を展開しても空気が悪くなり得るものもないから、「ああっ。そうなんですね。やっぱりお金でなんですね」と同意すると、その場はとりあえず収まったけれど、僕の中では違和感が残ったのです。「人はそこまで単純であろうか」と。そして、彼らがなぜ「お金で動いた」と考えたのか気になったのですね。

同じ職種の職場を新たに立ち上げるのであるから、最初から上手く利益が出るとは限りません。そういうことが分かっていれば、「利益」と言う言葉は簡単に導き出されないと言えます。だからといって、そのような構造を知らないから「人が動くのは利益」と言う結論はあまりにも単純で、彼らが「人が動くのは利益だ」と考えるのと同じ。

そこでまた考えた。仮にお金で動かすとしたら現在の給料よりいくら位上乗せすれば心が動くのだろうかと。しかし、前職よりも高い給料を約束したとしても、「お金で動く」人たちならば、確実ではない利益を信じてついてゆかないと思うのです。
また、約束した以上、確実に対価を払わねばならないので引き連れてゆくにも勇気がいったはずです。
しかし、現在は活躍されているというから、成果を上げたといえ、ついて行った人たちの理由も「彼の潜在的なポテンシャル」とだったと推測できるのです。

そう考えると、彼らが「利益」と言う言葉を選択したのは、自分が理解できる範囲以上の「できる人」は認めないという、嫉妬と言う感情が「お金である」と言わせたのかもしれません。
逆に仕事はできないけれど、従順である人に対しては不思議と寛容な場合が多い事を考えると、嫉妬と言う感情表現もあながち外れていないのではと思えるのです。

しかし、この会話に潜む問題の本質は嫉妬ではなくて、他を認めない人の典型的な思考は、硬直していて、柔軟性や向上を求めるのは困難であるところなのですが、介護現場ではよく見られる風景であり、そういう人が発言力を持っていれば職場は彼らの意のままであるけれども、エスケープの場所として所属している人でも、心までは動かないといえ、お金で職業を選んでいない人は、嫉妬と言う感情を自身の中に見つけられない人に見切りをつけて業界から去ってゆくと考えても違和感がないのです。
そして、介護と言う仕事は大きな利益を生まないのですから、お金をばらまくにしても設定は低く、お金を上乗せするにしても微々たるものであるし、さらに主となる人にも魅力がなければ、人は集まらず、緩やかに衰退してゆくことしかできないという結論に至ってしまうのです。

SEALDsさんの活動は批判できるものだろうか。

2015-10-03 21:39:43 | 日記
シールズの中心メンバーの奥田さんに脅迫状のようなものが届き、被害届を提出したという小さな記事を読んで思ったことを一石。

改憲に反対する活動が全国で行われ、その様子があらゆる報道機関によって報道出来ている状況は、私達にも自由が保障されている事を示しています。

しかし、活動に対しあらゆる手段を用いて圧力をかけ止めさせてしまうような世になってしまうと、私達の自由も制限されてしまいます。

彼らの行動は誰かにとっては都合の悪い事かもしれませんが、行動や言論が統制され、権力者にとって都合の悪い人間は排除されるという世は、私達に幸福感を与えてくれるでしょうか。

彼らの行動が理解できないのであれば、脅迫という手段を用いる前に対話し考える事が必要ではないでしょうか。

知性を働かせるとは、そういうことではないでしょうか。

シールズさんも、多くの人たちを巻き込んでいるのだから、一時期の高揚した感情に流されることなく、常に着地点を求めながら、相対する人たちとよく議論し、活動を昇華させてほしいと思うのです。
世の中は理不尽な事で満ちているけれど、道理から外れることなく、世界で最も治安のよい国のデモンストレーション活動として、その名が歴史に遺る様に振舞ってほしいと思います。