硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

よく吟味してみる。 その4

2015-09-29 19:39:34 | 日記
東京五輪に5つの競技が追加されたことや、フォルクスワーゲン社の不正、福山さんの結婚報告の陰に隠れている小さな記事に目が留まった。

「法制局 公文書残さず」という見出しは僕の頭の中に「?」を浮かび上がらせるとともに、違和感を抱かせた。その内容は「集団的自衛権行使を可能とする憲法第9条解釈変更をめぐり、内部検討の経緯を示した議事録などの資料を公文書として残していないことが分かった」とあり、それは、「歴代政権が禁じてきた集団的自衛権行使がどのような検討を経て認められたかを歴史的に検証する事が困難」になるものだという。

新聞社はその理由を「公文書として残せば、情報公開制度によって十分な検討がなされたか疑念を持たれると法制局が懸念した可能性がある」と、推測しています。

情報過多で、多くの媒体に公私を問わず記録が残る時代であるから、歴史的転換でもある安保関連法案が可決した過程はすべて記録に残され、改憲の結果が乱世につながった場合でも「情報公開制度」によって、情報が開示され、正しく再検討されるだろうと思っていました。歴史は改ざんされることなく、責任の所在も明らかになるであろうと。

しかし、実際は、そうではないようなんですね。

そこで、なぜ意図的に公文書に残さなかったのかを僕なりに考えてみて思い浮かんだのは、正確な記録を残さない事が、その時代の権力者としての正しい振る舞い方なのだろうと思ったのです。無論、汚名を残さないことやお家を守る事等、個人的な思惑もあるかもしれませんが、歴史は、未来の権力者が利用できるよう、改ざん出来る余地を残しておくことが、歴史を創る者の務めであり、権力者の「慣習」なのだと思ったのです。

よく吟味してみる。その3

2015-09-26 19:16:59 | 日記
「新しい三本の矢」の概要を聞いて、困ったなと思いました。一見、魅力のある指針であるけれども、公約とは実現しなくてもよいものでもあるので、少し距離を置いて考えた。

GDPを600兆円に引き上げる為には、無駄を省き、必要なところに人と貨幣を集中することが前提になります。また、積極的に消費するには活発に貨幣が行き来する市場が必要になり、あらゆるものを購買する状況を作り出さねばなりませんが、もう、1次産業や2次産業ではその市場を維持する事が難しくなってきていると言われています。

もし、上記の考え方が正しいのであれば、人が集中していて、3次産業が盛んな場所では成長してゆくけれども、1次産業や2次産業で支えられている場所と大きな格差が出来てしまうように思います。

人は誰しも豊かになりたいという願望があるので、豊かな場所を目指して移動するのは自然な運動で、集中することを抑制することは出来ません。それが経済の発展につながる要素の一つではあるけれど、居住場所に問題が発生します。
科学が進歩したとはいえ、空に向かって人が住む場所を増やすことにも限界があり、そのような構造を持つ場所では他者からパスされることが前提であるので、その場所で人口の推移を保つことは構造的に難しいように思います。

そして、介護離職問題。このタイミングで首相が公言したのは、近頃メディアで取り上げられ話題にもなっているサービス付き高齢者住宅で起こった事件があったからではないかと思う。あの事件はこれからサービスを利用するかもしれないと考えている多くの有権者の不安を煽ったので、どのように対策を講じてゆくか指針を示さねばならない状況になったからだと思う。
僕個人が思うに、あの事件がなければ、介護離職0という指針は声に出さなかったのではと考えます。なぜなら、人材の育成や給与の見直しはあまりにもコストが掛かり、介護の市場は、3次産業ではあるけれど、福祉事業は非生産であり、貨幣を生み出さず、公費を消費するのみなので、経済成長の足を引っ張る形となるからです。

それでも、アベノミクスの考え方で介護業界を持続可能な形にしてゆくとしたならば、NPOなどの小さな施設は淘汰され、大きな施設に集約されてゆくことになるのではないかと思います。ドライな考え方かもしれませんが、福祉とはいえ、支えているのは経済であり、資本主義だからです。

しかし、消費税の増税や兵器の輸出といった、禁断ともいえるべき矢を放つことで、財源を補うのだとしたら、社会福祉は国民の負担の上に成り立っていると考える人も出てくるでしょう。
そのような考え方をする人なら、おそらく自己の権利を最大限に主張するでしょう。
理不尽な要求も平気で行うでしょう。そんな人間を相手に、心優しい人が対応し続けられるでしょうか。消費税増税によって、生活が苦しくなれば、経済的に子供を産むことも難しくなるでしょう。
このような、生産性の乏しい事業を人々は優しい目で見守ってくれるでしょうか。

安倍首相が声高らかに「一億総活躍社会」と謳いあげていたけれど、首相が理想とする資本主義経済は、貨幣が多いところにより多くの貨幣が集まるという構造には変わりありません。しかし、中国、上海株式市場の影響を受けてしまう不安定な市場では、低所得者である私達に、富裕層から零れ落ちる益を享受できるのか否かは、本当の処、誰にもわからないと思うのです。

願わくば、こんなネガティブな予測は吹き飛ばしてほしいと思う。


よく吟味してみる。 その2

2015-09-22 19:26:24 | 日記
今日の新聞の一面の見出しは、「政策米報告書にそっくり」「問われる日本の主体性」と言う文言であった。記事を追ってゆくと、安保政策は米国の元国務副長官と元国防次官補から出された報告書に沿ったものである山本議員から指摘されたうえで、「独立国家と呼べるのか」と批判されていたとあり、それに対し、首相は「政策は日本が主体的に判断し、米国の言いなりになるものではない」と、説明されていたとあった。

不思議な質疑応答である。日本は先の大戦において敗戦してからずっと米国の従属国であるので、独立国家でもなければ、利害が生じる政策には主体的に判断できない立場にある。

何故、このような不思議な議論が国会でなされているのでしょうか。疑問に感じる人も多いはず。それともモヤモヤさせておくことが大切なのでしょうか。

山本議員の批判に対し「日本は米国の従属国でもあるので、宗主国である米国の利益を守らねばなりません。つまり米国の意向に従うことが宗主国の利益を守る事になり、しいては我が国の国益をも守ることになるからです。」と、もっともらしく言えば誰もが「ああそうかぁ」と、納得するのではないかと思うのですが・・・・・・。

やはり、「それを言っちゃあおしまいよぉ」に、なるんですかねぇ。

よく吟味してみる。

2015-09-21 22:21:56 | 日記
安全保障関連法案が可決されました。強行採決だと批判されていますが、多数決で決められたのだから、認めなければならない事実なのだと思うけれども、新聞記事を読んでいると、国民の声は、戦争に巻き込まれるのではないかという不安で膨らんでいる。
しかし、感情的になっては見落としてしまうものもある。僕個人が目指すのは止揚。少し冷静になって情報を集めて考えてみたいと思います。

まず、案件は安全保障であるから、私たちは隣人をどこまで理解できているであろうかと考えた。
選挙にも関心が薄く日常を普通に生きている人であれば、安保法案可決に歓迎しなかった、ロシア、中国という大国についてもよくわからないままなのではないでしょうか。

そこで、少し気になった記事を拾い上げてみます。

まず、経済的にも豊かになった中国はその資本力を活かし、南シナ海の岩礁を埋め立てて、飛行場や港などの施設の建設を進めていますが、周辺国のフィリピンやベトナム、ニューギニア、台湾などはこの動きを懸念しています。

それに対し、中国の王外相は「南シナ海は中国の領土であり、十分な歴史的かつ法的な根拠を持っている」と主張しています。

もし仮に、王外相の説明がスタンダードになり、施設が整備されれば南シナ海を通る際には、スエズ運河のように「通行料」なるものが発生するのではないでしょうか。この海域は多くのLNGタンカーや原油タンカーが通るので、通行料が発生すれば、かなりの利益が見込まれます。

また、尖閣諸島や沖縄本土に近い、東シナ海のガス油田開発も大きなポイントであり、あの大きな施設が今後どのように利用されてゆくのかも注意してゆかなければなりません。

ロシアも経済が緩やかに回復してきており、ウクライナやシリアへ干渉しつつ、中国へはガスのパイプラインを通そうと働きかけています。今年の7月にはメドベージェフ首相が北方四島を訪問しており、今後の動向が気になりますが、力技で領域を広げられれば、現在の領空、領海も侵犯ではなくなります。
現状では侵犯されても追いかけてゆく手立てしかないので、緊急時には米国に頼りたいところですが、中国はアメリカにとってまだまだビジネス提携しておきたい国であり、ロシアも下手に干渉するとこじれてしまう可能性が高いので慎重にならざるを得ないのが実情だと思うのです。

そして、海外に活躍する場を広げてしまった働く邦人もテロから守らねばなりません。まとまりのない組織が戦闘をしかけてくる状況で、非武装では隊員も含めた全員の命が奪われる危険が高くなります。

おおざっぱな情報から考えた偏った捉え方でしかありませんが、どうしてこんなことになってしまったのかという疑問が残るのです。
僕たちがあまりにも豊かさを望んだからでしょうか。少し不便であっても国内経済が地産地消のような形で賄えていれば、このような問題に直面しなくて済んだのかもしれません。

しかし、実際は現状に満足しない人たちが多数であり、いくら平和を望んでも、人の心から妬みや執着と言う気持ちまでも消えるとは思えないので、現状を維持しようとすれば、どこかで誰かがリスクを背負って働きかけなければならないという、難しい時節になってしまったのではないかと思ったりもするのです。

多種多様な人種の集まりである地球において、グローバルとは真の幸福をもたらすものなのでしょうか・・・・・・。

嘘だと言ってよ!!

2015-09-16 22:05:40 | 日記
朝の通勤途中、CDからラジオに切り替えたら「安保関連法案」の事が話されていた。気になったのでボリュームを上げると「今週中に成立させたい理由は来週から始まるシルバーウィークに地元へ帰る議員さんが地元の人たちから法案の事について聞かれないよう配慮するためなのでは」と、記憶がおぼろげであるけれどそのような事を言っていた。

それを聞いた僕はおもわず「嘘だろっ!!」と、叫んでしまった。

70年間、戦闘活動をせず、世界一治安のよい国家を作り上げた憲法第9条が崩れるかもしれないというのに、そんな理由で決めてしまうのですか・・・・・・。

「決まってしまったことだからどうにもなりません」という言い訳を飲み込ませるために・・・・・・。

・・・・・・嘘だと言ってよ。

短編「待ち受け画面の人」

2015-09-07 16:16:31 | 日記
後ひと月ほどで卒業する。経済的に厳しい環境であったが、両親からの僅かな仕送りと奨学金とアルバイトでなんとかここまでたどり着いた。それが出来たのも、中高と陸上部で鍛えた身体があってのものだったなと振り返る。しかし、本当の問題はこれからなのだ。僕たちには、奨学金を返済しなければならない義務がある。収入の少ない親には頼れないから自力で返済したいが、今、僕が選択できる方法は2つしかない。一つは収入を得る為に就職し、奨学金返済のために働くか、数年前にできた、入隊し兵役を3年勤めれば奨学金返済が免除されるという制度を利用するかである。

兵役を前向きに考えれば、規律は厳しいが、訓練の中で様々な資格を取得でき、身心も鍛えられる。上官から認められ昇進試験をパスすれば階級が上がるシステムもある。
しかし、この制度の最大のリスクは、米国が介入する紛争地域へ赴かなければならないことだ。この制度の基礎となっているのは米国の「軍人社会復帰法」と言われるもので、何十年も前からある制度らしいが、戦闘活動を経て、精神を病み自殺してしまう人が後を絶たないということを聞く。勿論、僕らの国でもこの制度を使い、兵士となって海外へ赴いた人も多く、公には公表されていないが、戦闘に巻き込まれて死んでしまった人がいると僕たち学生の間でも実しやかに噂されている。

この問題のもう一つの側面にあるのは、奨学金制度を受けているのは女子である。
自力で返済できなければ、僕らと同様に、兵役を務めるか、理系の女子ならば、国立の武器開発施設への勤務があるが、その他の女子は国立の軍事関係の企業へ行かなければならない。
勿論、自力で返済できればこの選択はしなくても良いのである。しかし、就職を選んだ人の中には、奨学金返済のための生活に耐えられず、身を売って返済している人もいるという噂である。

マイナンバー導入とこの奨学金返済制度のおかげで奨学金滞納者はほぼ0になり、経済的にひっ迫している本当に学びたい人の為にはなっていると思うが、苦労して大学に進学した理由が幸福につながっているのかを問わずにはいられない。
しかし、すべてはお金の話である。裕福な家庭の下に生を受けたならこんな苦難も味わわずに済んだだろうと思うけれど、それを言ってもしょうがない。

今日もまた、月一で集まるメンバーと共に居酒屋で酒を交わしながらたわいのない話をする。大学はばらばらであるが、バイト先で出会った心許せる仲間である。そして、卒業を前にした僕らの話題は、僕たちのほんの少し先の未来だ。

「で、お前、どうすんのよ」

「・・・・・・都心での就職は無理だったから、地元に帰って職を得て、奨学金を返済する努力をしようと思っている」

「・・・・・・そうか。そうするか」

「うん。よく考えたんだけど、まず、親が悲しむ顔を見たくないなと」

そう言うと、僕の前の席に座っている香奈が冗談ぽく、「わー。ひょっとしてマザコン? 」といって茶化した。隣にいた香織も「わぁー。きもい。」といって笑っている。僕は少しむっとして

「そんなんじゃないよ。親の気持ちを思うって、大切だと思わないか」

と言うと、僕の隣で当たり目をつまんでいた浩一郎が「まぁ、まぁ。そうむきになんなよ。」と言ってなだめた後、「俺の場合、両親ともに低所得者で、婆ちゃんの介護もあるから、返済の選択としては制度を使うしか手がない。親も俺が兵役に出ることを心苦しく思っていて母親は「ごめんね」って言ってる。でも、俺のわがままで進学したこともあるから、ごめんねって言わせていることを心苦しく思うよ。だからさ、お前の気持ちよくわかるよ」

といって、肩をたたいた。僕は少しうれしくなり「おおっ。分かってくれるか同士! 」といって握手を求め浩一郎と固い握手をした。それを観ていた女子は「なになに。熱い友情ってやつ? 」といって笑った。なんというか、この二人は本当に遠慮がない。

すると浩一郎が「それはそうとお前らはどうするの? 」と二人に聞くと、ルックスに自信ありの香織は満面の笑みを浮かべ、

「へへっ。そんなの決まってんじゃん。素敵な旦那様を捕まえて幸せに暮らすの」と言った。

香織はいつも自信に満ち溢れている。その根拠のない自信はどこからくるのだろうかと思うけれど、それでも香織はルックスからは想像できない天性の賢さを兼ね備えているから大丈夫なのだろうと思う。しかし、香織の隣でジョッキを開けている香奈は少し顔を曇らせ「私は香織みたいにはできないなぁ」と呟いた。

「香織は可愛いし賢いから乗り切っていけるかもしんないけど、ここに住み続けようと思ったら普通のOLの収入では、生活するだけで精一杯。その上に奨学金を返済しようと思ったら、制度を利用するか、ダブルワークしないといけなくなると思う。男の人は大変だけれど、私たち女子には選択がまだ寛容だから、才能がなければ寮生活を強いられるけれど軍事企業で働きながら自分のスキルを高めてみるという可能性もありなわけだし、そう考えると一概に否定的な感情ばかりじゃないけど・・・・・・」

「けど? 」

「好きになった人が兵士になるんだったら、ずぅっと心配してなくちゃいけなくなるじゃない。もしかしたら死んじゃうかもしれない。そうなったら私、私、きっと耐えられなくなって・・・・・・自殺しちゃうんじゃないかと思う」

といって、ずいぶんな量の酒も入っていたせいか子供のように「うわぁ~ん。」といって泣き出した。香織はとなりでしょうがないなと言う感じで背中をさすっている。香奈は浩一郎の事がずっと好きだったからだ。普段勝気な香奈は友達以上の距離感で浩一郎としゃべっているのに、勇気がでないといって告白していない。僕と香織は、告白するチャンスを何度も作ってみたけれど、最後まで告白できなさそうだ。
浩一郎は泣きじゃくる香奈にハンカチを差し出し「ほれ、これで拭けよ。化粧が流れ落ちてるぜ」と冗談を言うと「ばか! 浩一郎はほんっと女心を分かっていない! 」といって、枝豆を一つ掴むと思い切り浩一郎に投げつけた。

「おっかねぇ。」といって笑う浩一郎。でも、ここで一番不安なのは浩一郎自身なのだろうと思った。

僕らは何度もここで酒を酌み交わし、様々なことを語った。あと幾日か経てば、それぞれがそれぞれの道を歩んでゆき、こうやって飲むことが出来なくなると思うと寂しい気持ちにもなるが、新自由主義と格差社会の中では今以上の困難に出会うだろうから、寂しがっていてばかりではいけない。そう、僕らは現実を生きていかなければならないのだ。

店員さんがオーダーストップを告げに来ると、皆は「もういいよね」といってうなずいた。すると香織が「ねぇ、記念写真撮っておこうよ。何年もこうやって飲んでんのに、この集まりだけだよ。写真一枚も取ってないのは」といって、ブランド物のカバンからカメラを取り出した。

「ちょっとお兄さん。これで写真撮ってくれない? 」

忙しそうに後片付けをしている店員さんを躊躇せずに呼び止めると、「さあ、みんな集まれ!! そしてこれでもかっていう笑顔を見せるんだよ! 」と言った。
僕らは香織の方に回ると「浩一郎は香奈の横に座って! 君はこっち! 」といって、意図的ポジショニングした。僕は「やるなぁ」と感心していると、店員さんが作り笑いをして「撮りますよ」といってシャッターを切った。香織は女優のような笑みを浮かべ「ありがとうね」というと、作り笑いをしていた店員さんの表情が和らぎ、少し照れたように「いえ」といって再び食器をもって奥へと消えた。
香織は酔っぱらいながらも懸命にカメラを操作し、「送信!」といってパネルをタッチし右手を上げた。すると僕らの携帯の着信音が一斉に鳴り、メールを開けるとそこには楽しそうに笑っている僕らの姿が写っていた。浩一郎の横でメールを開いた香奈は写真を見ると、嬉しそうにはにかんで、その写真を浩一郎に気づかれないようにこっそりと待ち受け画面にしていた。

介護職の近未来。

2015-09-01 16:32:18 | 日記
介護職員と言う仕事に従事してから早十数年。時の移り変わりの中で、なぜ介護保険導入時より職業的評価が下がり、担い手不足に陥ってしまったのか考えてきましたが、堂々巡りをするばかりで、着地には至りません。しかし、業界自体がある種のループの中に留まり続けているから思考もループしてしまうのではないかと思い、新たな糸口を求め考えているうちに、ある共通点のようなものを発見しました。
しかし、それは個人的視点の発見であるので正しさは保証できませんが、批判にさらされれば個人の力では決して見えない新たな地平に至るきっかけになるかもしれないと思ったので、ここにまとめておこうと思いました。

介護施設では、医学的見地から判断せねばならないこと多いため、判断のできる看護師の資格を有する人に発言力があります。その為か施設によってはあらゆる場面で看護師の考え方に配慮しなければならない事がありますが、その発言が介護職員の成長を促すものであれば問題ないのですが、看護師の発言によりしばしば現場が混乱してしまうことがある為、医学的見地以外の部分では介護職員とフラットな関係が築ければ混乱する事もなくなるのではと思いました。

そこで、まず介護士と看護師の間にはなぜ格差が生じているのかを考えてみたのです。

介護施設では看護師の在籍が必要不可欠である為、運営してゆくには、資格保有者を確保せねばなりません。しかし、看護師の力を必要とする医療現場でも担い手不足の問題抱えているので、待遇面で劣る介護施設で資格保有者を確保するのは一層困難な状況です。
また、介護と言う仕事は医療の延長線上にある為、当初より医師会や看護師会と言う組織にとって益をもたらす構造でなければならなかったと考えると、医療現場的構造をそのまま受け継いだ形になっていると考えるのが妥当であるから、介護士は看護助手以下の立場であると認識されても仕方のない事なのでしょう。

しかし、看護師なら、キャリアアップがあり、技術も磨け、労働に対する報酬がしっかりとした医療現場に身を置き続けたほうが、メリットは多いはずなのに、技術も磨けず報酬構造も異なる介護現場へ身を置く事を選択したのかが疑問が残るのです。

それに対して、介護士は、資格自体がぼんやりとしており、資格のハードルの低さゆえ職種を変えようとすると対価を得る手段がなくなるという状況に陥ってしまう人もいるほど、多岐にわたった諸事情を抱えている人が多いのです。だからといって未熟なままでいいという訳ではなく、曖昧な資格であるのだから、できる事を確立する努力を怠らないことが看護師に肩を並べる道筋ではないかと思うのですが、それでも平等になる事はありません。
医療現場では看護助手や准看護師は正看護師になるという道筋があり、耐えねばならないことに耐えれば看護師になれることができますが、介護職員にはキャリアパスの手段がないので、介護現場で看護師が看護助手や准看護師と接するように接されても介護士にはピンときません。狭量な介護士なら「なぜあの人にこき使われねばならないのか」と感じる人もいるではないでしょうか。ですから、介護現場で従事する看護師はその構造の違いを理解し発言を考えてゆかなければならないことが、役目の一つであると思うのですが、看護師の多くは医療現場的に考えるため発言もそのようになってしまうのだと思うのです。

そして、さらに問題なのは、同じ介護職員が何故か看護師側に回り、気の弱い介護職を振り回す立場へとスライドしているという状況が、現場の緊張を高めています。そのような歪な状況下で耐えている間は、一見ヘーゲルのいうところの「主人と奴隷」と言う立場が現れるようにも思うのですが、そこにはすべての人を拘束するほどの真の権力構造というものは見当たらないので、主人と奴隷と言う関係性は存在しません。しかし、退職しない以上、矛盾を受け入れなければならないという精神的に難しい作業を強いられてしまうのも明白な事実なのです。

これが担い手不足の原因の要因の一つと言えると思いますが、真相究明と改善を図らない政府は担い手不足の解消を外国人労働者によって解消しようとしています。
国民一人当たり八百万円近い借金を抱えている国体なのですから、権利ばかりを主張する自国民に投資するよりも、低賃金の労働力で現状を維持した方が得策であると考え方は間違いないと思うのですが、それは過剰搾取が目的であるともいえます。
サルトルの言葉を借りて少しばかり文言を変えるなら、「外国人労働者に対する過剰搾取は日本の資本主義にとっては必要なものなのだ」と言う狙いも見え隠れします。
しかし、外国人労働者を積極的に受け入れるということは、治安の維持と言う問題に大きく関わってきます。
勿論、経済が上昇し続け、給与が適正に払われているうちは問題ないかもしれませんが、経済が下降した時、ドゥルーズとガタリの言うように「不安定な雇用においやられた大衆が存在し、その生計は公式上国家の社会保障と不安定な給与によってのみ維持される」という状況になれば、自国民の労働者も同じ立場に陥ることになるのではと危惧するのです。しかも、外国人労働者の賃金が安いために、職を奪われる可能性の高い自国民の不満が外国人労働者へとむけられる危険性を孕んでいるようにも思いますが、暴力で拘束力を担保する企業でもない限り、差別が生じる前に違う職種へと移ってゆくことは現時点の現場を見れば明らかであると思います。

つまり、どんな対策を取ろうとも、心理的な障壁が取り除かれない事には介護現場の担い手不足は解消しないであろうという結論に達するのです。

以前にも述べましたが、介護現場は一つの共同体であるのだから、職種間の格差を無くし、看護も介護も自己の権利を抑制し共に支えあい、向上心を持ち、企業として、人材育成にコストをかければ、事業として生き延びてゆけるチャンスも巡ってくるかもしれないと思うのですが、閉ざされた保守的な体質のままでは発展は難しいと考えられます。

そして、なによりも、介護と言う仕事が「対価を払うことで尊厳を維持する。場合によっては他者の価値観によって個人の生活に強制的に介入する」という、矛盾に満ちた事業である為にどんなに言葉を尽くしても説得力に欠けてしまい、そのような方向の定まらない状況では、職業としての魅力を失ってゆくのは必然であったのかもしれません。しかし、それは介護事業が企業として成り立たなくなりつつあるということでもあり、供給が追い付かなくなるという致命的な問題を解決できない理由であるのかもしれません。

それでも、同じ施設に留まっている人の多くは、マイペースを保て、ローカルなコミュニティーが確立していて、施設に寄りかかる事でしか生きることの出来ない利用者との相互依存という関係を介護保険制度が支えることで成り立っていて、株式会社のように突然倒産と言う形にはなりにくいことの安心感が働きやすさにつながっているのではないかと思うのです。

しかし、介護保険制度自体が流動的であり、人間の価値観自体も流動的である為、供給側が硬直していては、地方商店街のように緩やかに衰退してゆく事は避けられません。また、多様性の承認と核家族化という社会現象が女性の社会進出と関係があるのだとしたら、介護現場も女性が主体であるのだから、核家族化と少子化と言う社会の動きが職場でも踏襲されるのは自然なことなのではと思えるのです。しかしながら、現時点では社会福祉の役割を満たしているのだから、問題が山積しているとはいえ介護業界はすでに成熟した形となっていると言えるのかもしれません。