硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  54

2013-08-31 10:01:28 | 日記
「ところで、工房は何処に出店する事になったの?」

「上野だよ。音大の近くにね。ちょっと大変だけどバイオリニストを目指す人たちのサポートを出来ればと思ってね。」

「へぇ~。すごいねぇ。」

「すごくないって。お祖父ちゃんが僕にチャンスを与えてくれたおかげで今の僕があるのだから、今度は僕が誰かにチャンスを作ってあげる事が使命かなって思うんだ。」

「西さんの遺志を受け継ぐのね。」

「遺志を受け継ぐなんて、そんな大層な事じゃないよ。イタリアの諺でね。Chi si contenta gode という言葉があって、それは心の満たされる人は富にも勝るという意味なんだけれどね。」

「うん。」

「その諺通り、どんなに成功したって結局心が満たされなければ幸せを感じる事って出来ないと思うんだよね。そんな事をお店が軌道に乗り始めた頃からずっと考えてて、色々な経験を通して思い至ったのは、少しでも余裕ができたらその余裕を誰かに分配する事が心の幸せを呼ぶんじゃないかとね・・・。それで、お祖父ちゃんの事を思い出したんだよ。お祖父ちゃんは多くは語らなかったけれど、きっとそうして生きてきたと思うんだ。 だから僕も真似してみようかと思ったのさ。まぁ、お祖父ちゃんのようにはなれないと思うけどね。」

私は少し熱く語る天沢君に西さんの面影を見つけたような気がした。そして、この人は今でも私よりもずっと先の未来を見続けているんだと思った。

「いつ頃オープンするの? 」

「内装だけをリフォームして使うから、来年の今頃にはオープン出来ていると思う。」

「じゃあ、天沢君日本に帰ってくるの? 」

「僕は帰ってこないよ。メインはあくまでもウィーン。今、僕のお店で修業を兼ねて働いてもらっている藤堂君という人がいるんだけれど、腕も確かだから、彼にまかせようかと思っているんだ。」

「・・・じゃあ、天沢君は帰ってこないんだね。」

「いや。これからは時々帰ってくる事になると思う。お店を開いたからって上手く軌道に乗るとは限らないし、日本で開かれる演奏会のサポートの拠点はこちらになるからね。」

「すごいなぁ。もう、天沢君じゃなくて、世界の天沢 と呼んだ方がいいのかしら。」

「いやあ、世界の天沢って、それは言いすぎなんじゃない。」と、言いながらも、少し嬉しそうであった。私は冗談を交えたつもりで言ったけれど、本当に彼の技を世界各地にいるバイオリニストが必要としているのだから、過言ではないのだろう。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  53

2013-08-30 11:19:14 | 日記
教会内にアナウンスが流れると、登志子さんは「さあ皆さん、お話は後で楽しみましょう。」と言って、私達を席に着くよう促した。
席に着くと教会はまた静けさを取り戻し追悼ミサが始まった。聖餐台に立った牧師さんが祈りをささげると、皆はこうべを垂れ黙祷した。そして説教を聴いた後、教会員さんの美しい讃美歌を聞き、皆でもう一度祈りをささげた。
不思議と悲しみはない。葬儀の日はとても涙もろかったのに、今日は悲しみという感情がバッサリ切り落とされた感じがしていた。慣れてゆくとはこういうものだろうか。でも、死について慣れてしまっていいのだろうかとも思った。

ミサはお茶会に移り、別室に用意されたテーブルで故人を偲んだ。天沢君は色々な人に挨拶をしつつ、会話を楽しんでいた。おばさまも登志子さんも忙しく動いていて、各テーブルを回り参列された方々にお礼をされていた。
部屋の隅の方では天沢君のお父さんや久貢さんが牧師さんや他の男性を交えて少し難しそうな表情で話しこんでいるのが見えた。
翠さんはこのミサに友達がいたようで、時頼笑い声も聞こえてきて楽しそうに話していた。

私は、品の良いカップに注がれたダージリン・ティーを飲みながら、テーブルに置かれていた手作りクッキーを食べていた。
すると、色々な方から話しかけられ、西さんとの出会いから今の仕事に至った話をすると、皆が口をそろえたように「西さんらしい。」と言っていた。私は、西さんと言う人物は誰にとっても変わらない人なんだなと思った。

しばらくすると、天沢君が私のいるテーブルに来て「ようやく雫に辿り着いたよ。」と言った。

聴きたい事や話したい事は沢山あるけれど、いざとなる何を話していいか分からなくなってしまった。だからと言って沈黙も耐えられなかったから、仕方が無く今後の予定を聞く事にした。

「天沢君は・・・。日本にいつまでいるの。」

「明日、成田発の12時15分の便で帰るよ。」

「あっ、そうなんだ。」

「うん。仕事も片付いたしね。」

「そうかぁ・・・。もう帰っちゃうんだね。」

「うん。せっかくだからゆっくりしていたいんだけれど、バイオリンの修理や調整を待ってくれている人いるからね。」

「待ってくれている人が・・・いるんだね。」そう言った後、私は心のどこかに少し淋しさを感じた。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  52

2013-08-29 17:21:34 | 日記
ミサの時間が近づいてくると次々に人が訪れ、さっきまで静かだった教会がにぎやかになった。
登志子さんは、「なるべく身内だけで済まそうと思っているのだけれどね。」と言われていたけれど、結局そうにはならなくなったみたいだ。でも、西さんの追悼ミサなのだから、沢山の人が駆けつけるのも今なら頷ける。
登志子さんとおばさまの姿が見えたので、ご挨拶に伺うと「よく来てくださいましたね。ありがとうございます。」と言われ、とても恐縮してしまったがこの間の印象もあってかすぐに打ち砕けしばらく雑談を楽しんだ。

すると、天沢君と翠さんが楽しそうに話をしながら教会に入って来るのが見えた。

それを見た登志子さんは「あら、イタリアの伊達男だわ。やっぱり綺麗なお嬢さんがそばにいるのね。」といって笑った。

そんな事を言われているとは知らずに、天沢君は手を挙げて、翠さんとこちらに向かってきたが、隣にいる翠さんはニヤニヤしていた。

「雫。今日は本当にごめん。午前中にどうしても合わなければならないと人が出来てしまって。」と、言うと、登志子さんは、

「あら、デートじゃなくって? イタリアの伊達男さん。」と言った。隣にいる翠さんは笑いをこらえていた。

私も登志子さんに負けじと、少し上から目線で「あら。別にいいわよ。待たされることにはもうなれちゃったから。」と皮肉交じりに答えた。

「嫌だなぁ。なんでみんなして僕をいじめるのさ。そう言われると本当に胸が痛いよ。」と、言っておどけていた。

私は「嘘よ。冗談だよ。」と言って微笑んだ。すると、登志子さんは「駄目よ。そんなに甘やかしては。」と言って私達は笑った。

前の私ならこんな皮肉めいた冗談なんて言えなかっただろう。少し心が強くなった自分がいる事に嬉しさを感じた。

天沢君は「オホン」と一つ咳払いをすると。「まあまあ皆さんお静かに」と言って、隣にいる翠さんを紹介を始めた。

「この美しいレディは、なんと今度、地球屋でカフェとして開く、オーナーの北翠さんです。そして、この北さんは地球屋でおじいちゃんとよくセッションしていた北さんのお孫さんなんだよ。」と、誇らしげに言い終わると、私と翠さんは笑ってしまった。

「なになに。何がおかしいのさ。えっ。どういうこと?」と、少し困惑している様子なので、事情を話したら、とても驚いていた。

「もう、メール交換もしたんだよ。びっくりしたでしょう。」

「まいったなぁ。それは驚くよ。そんな事があったなんて夢にも思わないから。」

「私達も本当に偶然の出会いだったからね。」そう言うと、翠さんも深く頷いていた。
私は早速、昨日丹念に教えてもらった料理を作って、みごとに夫を驚かせた事を報告した。すると彼女は「でしょう!」と嬉しそうに微笑んだ。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  51

2013-08-28 17:25:33 | 日記
「そう・・・なんですか。 」私はその言葉に少し戸惑いを感じてしまった。

「いや。これは失礼しました。では、こういう話はどうでしょう。ある時、イエス・キリストがパリサイ人と離婚について問答したのですね。その時イエス・キリストは創世記の話を用いて説いたのです。「人は神が結び合わせたもの引き離してはなりません」と、するとパリサイ人はモーゼの御言葉を用いて反論したのです。「では、なぜ離婚状を渡して妻と離別せよと言われたのですか」と。そこで、イエスは言われます。「だれでも、不貞のためではなく、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すのです」と。それを聞いていたイエスの弟子たちは「もし、妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」と言うのですよ。 どうです? 面白いエピソードでしょう。 私はイエスの弟子である。と言う人たちでもこの時点では、先ほどお話した愛には至っていないのです。だから、自信がなくてもそれで良いのですよ。」

「はい。」

「多くの人には気持ちの揺らぎがあります。揺らぎよっては道を踏み外し、罪を犯してしまう人もいるでしょう。それでも自身が神を見放さなければ、神はあなたを見放したりはしません。生きていれば耐えなければならない事も多々あるでしょう。しかし時が満ちた時、必ず救いの手が差し伸べられるものです。だから本当に辛いと感じたら神に祈り、自身の心に問いかけ、行動し、後は成り行きに任せるとよいですよ。」

私はその言葉を聞いて、心の波が少しずつ小さくなってゆく感じがした。

「お話を聞いて頂いてありがとうございます。時々、教会に来ていいですか? 」

「いつでもいらっしゃい。あなたの前には扉が開かれていますよ。」

そう言われると、「では、ミサの準備もありますのでこれで失礼しますね。」と言って軽く会釈をされ席を立たれ、ミサの準備に戻って行った。

牧師さんの言葉が私の中で響いていた。そしてこの響きは何だろうと考えていた。たしかに強い信仰心があれば、道を踏み外したりはしないのかもしれない。でも、そこに至るまでには長い時間と心の成熟が必要となるだろう。しかし、誰だってその瞬間の感情に身を任せていたいと思うものだし、耐える事より享楽に身を投じていた方が楽しいだろう。
人は心強い人ばかりではないし、強いと言えども、自身の考えに固執し人を硬直させてしまっては、神などいらぬと言ってしまえるのも分かるような気もする。そう言った人が経済的な成功者となると、人は、貧しい敬虔な信仰者と、どちらが幸せであるだろうかと秤にかけて考えるだろう。しかし、それは人によって作られた倫理や道徳で考えるのだから良い事も悪い事も混じり合っていて当たり前なのだ。そして、それが人なのだと思う。
十字架に架けられたイエスの前でこんなこと言うと罰が当たるかもしれないけれど、私達のいる世界は、懲りもせず、矛盾した事が延々と繰り返されているのだ。

私にはまだまだ知らない事が山ほどある。それは、まったく磨かれない原石のままなんじゃないかと思ったら、急に可笑しくなって小さく笑ってしまった。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  50

2013-08-27 19:15:03 | 日記
「牧師さん。もう少しだけお話いいですか? 」

少し驚いた様子だったけれど、再び椅子に腰を下ろしこちらを向いた。

「・・・どうなされたのですか。何やら思いつめている感じがしますが・・・。」

「・・・。私自身の話なのですが、聴いて頂いてもいいですか。」

「いいですよ。何でもお話しください。」

私は、中学生での初恋とその後の失恋、そして再会。それによって生じた心の葛藤を話した。すると牧師さんは微笑んで私に優しく話しかけた。

「恋をなさっているのですね。いいですね。でも、それがあなたにとってはいけない事なのではないかと思われている・・・。」

「はい。」

「唐突ですが、聖書はお読みになった事はありますか? 」

「えっと、大学時代に少しだけ・・・。」

「ふむ。では聖書の話をしても大丈夫ですね。」

「ぜひ、お聞かせください。」

「聖書には、愛について、愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるとあります。」

「はい。」

「これは聖パウロの御言葉ですが、聖パウロは、愛は観念でなく行動であると言っています。行動なのだから、当然間違えることもある。だから、人を、自分を、赦す事から始めなさいと。そして、忍んで信じて望んで耐えたところに真の愛があると言うんですね。」

牧師さんはゆっくりと丁寧に話を続けた。

「でも、耐えるというと、少し重苦しい感じを受けますでしょう。しかし、ここで示されている、耐えるという言葉の意味は、身を呈して守らなければならない相手を護るとか、相手を落ちないように下から支え続けるという意味も含んでいるのですね。そして、そのように働き続ける所にこそ、真実の愛が生まれるのだと。」

「はい。」

「愛と言うものをそのように捉え直すと、私たちが日常で見聞きする愛という言葉の意味合いの違いに戸惑いを感じるかもしれませんが、神の御心に適う愛はそういうものだと私は思っています。」

「・・・深いですね。もし、その愛が真実なら、私、そこに到達する自信がありません。」

「雫さんは素直な方でいらっしゃる。あなたの話に耳を傾け続けていた西氏の気持ちわかる気がしますよ。」そう言って、微笑まれた。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  49

2013-08-26 16:51:25 | 日記
牧師さんは、スッと隣の席に腰をかけ、聖餐台の後ろに飾られている西さんの写真を見つめた。その写真は綺麗な花々と共に私達に微笑みかけているようにも見えた。

「ありがとうございます。」

「西氏が医師だってことはご存じですね。」

「はい。」

「彼は長い間、人の死について葛藤がありました。救える命と救えない命があるのはなぜかと。また、当事者ではない誰かの望みによって、救ってはいけない命と、救わなければならない命が存在するという矛盾も彼を苦しめていました。でも、西氏はその矛盾から逃げ出さず、真摯に受け止め、時には祈り、時には赦しを乞い、すべての苦しみを神の御手にゆだねていらっしゃいました。」

「はい。」

「彼の働きは本当に神のみ心に適ったものでした。早くに奥さんを亡くされ、激務が続く仕事、子育てにと、苦難の道を歩まれながらも、教会の修繕に力を貸してくださったり、隣に幼稚園があったでしょう。それも西氏の協力なくしては実現できなかったものなのですよ。」

他を利する為に我は神によって生かされている。それが西さんの生き方であった事を私は知ることとなった。とても偉大な人であったのに、私は事あるごとに愚痴をこぼしに行っていた。今思うと、とても未熟な事をしていたんだなと恥ずかしい気持ちになった。

「私、西さんには事あるごとに愚痴を聞いてもらっていたんです。そんなに偉大な方だったなんて知る由もなくて・・・。とても失礼な事をしていたんだなと思うと、少し恥ずかしい想いがします。」

「雫さん。それは違いますよ。」

「えっ。」

「むしろ、西氏は喜んでいたのではないでしょうか。医師という立場を退いてからも誰かの役に立つことが出来る事の喜びを。」

私は思った。西さんと言う人物は限りなく純粋な心の持ち主であったのだと。

「・・・西さんは敬虔な信仰者だったのですね。」

「はい。彼は沢山の人を救い導いたと思いますよ。」

「お話して頂きありがとうございます。」

「どういたしまして。」

牧師さんは、そう言うと軽く会釈をして席を立とうとした。その時、私はすがるような気持ちで衝動的に牧師さんを呼び止め、私の今の苦しみを吐露してしまおうと思った。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  48

2013-08-25 09:21:49 | 日記
「あの。ひよっとして牧師さんですか? 」

「はい。私はこの教会で主に仕えさせて頂いている聖と申します。あなたはたしか・・・この前の葬儀の時、途中からいらした方ですね。」

私の事を覚えていてくれていた事に驚きを感じながらも、理由があったとはいえ途中から参列した事を恥ずかしく思った。

「私、杉村雫と申します。その節は、失礼しました。」と、平謝りをした。

「いいんですよ。気になさらないでください。西氏もそう思っていると思いますよ。」

低く柔らかい言葉で、語りかけられるとそれだけで癒された気分になった。

「ありがとうございます。なんだか癒されました。」そう言うと、牧師さんは静かに微笑んだ。

私はクリスチャンであった西さんがどんな人なのか以前から気にはしていたけれど、宗教的な話は人によってはタブーだからずっと避けていた。
でも、牧師さんなら、話を聞いても気を悪くなさらないのではと勝手に思い込み、思い切って西さんの事を聞いてみる事にした。

「あのっ。少しだけお話聞かせていただいてもよろしいですか。」

牧師さんは笑顔で「よいですよ。」と快く応じてくれた。

「西さんには学生時代からとてもお世話になっていたのですが、西さん自身の事はあまり知らないで来てしまいました。それで、一昨日の葬儀の後で登志子さんやおばさまから西さんの若い頃の話を聞いて、どんな人だったのかようやく輪郭が見えてきたのです。
ただ、信仰者・・・、クリスチャンとしての西さんはどんな方だったのかは知ることもなくて・・・。」

そう言った後、言葉に詰まってしまった。知ることの意味と、そこには知ってはいけない事もあるかもしれないという不安に襲われたからだ。それでも、牧師さんは戸惑い言葉詰まる私に手を差し伸べてくれた。

「ほう。西氏の事ですかな。」

「はい。信仰者の前での宗教の話はタブーだと思っていたので避けてきたのです。」

「なるほど。あなたなりの心遣いですね。雫さんはお優しい方とお見受けしました。では、少しだけお話しましょう。」

耳をすませば。 彼と彼女のその後  47

2013-08-24 21:02:58 | 日記
目が覚めて、時計を見ると午前11時になろうとしていた。頭痛はしっかり取れていて体もシャキッとしていた。内心ホッとしつつ追悼ミサに行く準備に取り掛かった。
シャワーを浴び、着替えをして、鏡の前に立つ。いつもは軽いメイクで済ませるのだけれど、ルージュの色はどうしようとかチークはどうしようとか柄にもなく考える。でも、慣れていないからまとまりがつくはずがない。
「やめた。いつもの私でいい!」と、心に決め軽いメイクで済ませる。時計を見ると12時を少し回っていた。家を出るにはまだ少し早いけれど、何処でもたつくか分からないから早めに家を出ることにした。

コートを手に取り袖を通したらこの間の情景を思い出し胸がきゅっとした。そして、メールでは平穏を装ったけれど、やっぱり天沢君が迎えに来てこれなくなった事をとても残念に感じた。
 
「ぐずぐずするな!私!」と、自身に気合を入れ直しコートを羽織って外に飛び出した。

日中だと云うのに外は薄暗くどんよりとした灰色の雲が空一面を覆っていた。空気も冷たく吐く息が白くなるほどだった。朝の天気予報でお昼から雨か雪になると言っていたのを思い出し、慌てて折りたたみ傘を取りに戻った。
私は慌てると色々な事を忘れてしてしまう癖がある。それが短所の一つである事を自覚しているから、何度も治そうと試みるのだけれど、慌ててしまうと治そうと思ってる事も忘れてしまうので、なかなか修正には至らない。だから家を出る前に、もう一度忘れ物がないかゆっくりと確認してから家を出て駅へと向かった。

電車に乗り、一駅先の河原駅で降りて教会に向けて歩いてゆく。平日の昼過ぎだから人も車もまばらで、街は静かな午後を迎えようとしていた。
教会に着くと駐車場にはもうすでに何台か車が駐車されていた。教会の扉をゆっくりと開けると、数人の人が手際良く追悼ミサの準備を進めている姿が見えた。
私は登志子さんやおばさまに挨拶しようと辺りを見回したが、おばさまのご長男である久貢さんやそのお子さん夫婦は見つける事が出来たけれど、お二人の姿を見つける事が出来なかった。久貢さんは私と目が合うと手を止めて会釈をしてくれたので、私もお辞儀をした。

時計を見るとミサまでまだ一時間半もある。やっぱりちょっと早すぎたかなと思ったけれど、外に出るのもおっくうだったから、椅子に座って時間が来るのを待つことにした。
前に来た時は周りを見る余裕すらなかったけれど、ステンドグラス等のアールヌーヴォー調のデザインが所々にみられ、とても素敵な建物である事に気づいた。
きょろきょろあちこちを見ていると、準備の様子を見ていたスーツ姿の老紳士が此方にやってきて「こんにちは。お早いですね。」と、声をかけてきた。
戸惑いながらも「こんにちは。」と、挨拶して老紳士をよく見ると、葬儀ときに聖餐台から説教をしていた人だった事に気づいた。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  46

2013-08-23 17:15:29 | 日記
メールを見ると、「明日、ぎりぎりまで仕事が入ってしまったので迎えに行けなくなりました。本当にごめん。」と、記してあった。
文面を見てほっとしたような、がっかりしたような複雑な気持ちになったけど、深く考えずに、「わかりました。仕事忙しいのですね。私なら大丈夫ですよ。では、明日教会でお会いしましょう。」と、短く返信したその後で、うかつにも「あっ、絵文字使うの忘れた。」と、思わず口に出してしまった。すると、テレビを見ていた優一が「えっ。雫って、絵文字使ったっけ? 」と、問いかけてきた。

私は思わず「私だって女子だもの。絵文字くらい使うわよ! 」と、少し感情的に答えてしまったら、

「え~っ。何で逆切れしてんだよ。なにも悪いって言ってないじゃん。」と、指摘され、我に帰った。

「あっ。ごめんなさい・・・。なんで逆切れしちゃったんだろう。私おかしいね。お酒のせいかなぁ。」

「お酒のせいにする? それとも単に絡み酒? 」

言う事言う事が心を見透かされているようで悔しかったから、「お酒のせいでも、絡み酒ではございません。その証拠としてこのボトル、全部飲んでみせましょう! 」と少し上から目線で言ってやった。

でも、優一は私が飲めない事をよく知っているから、「お酒飲めないくせに。そんなに飲んだら、もどすか、すぐ寝ちゃうでしょ。」と言ってけらけら笑っていた。本当に悔しくなった私はワインの栓を再び開けてほんの少しだけ飲んでやった。

翌朝、昨晩のワインが堪えたのか二日酔いになってしまった。ワイングラスに2杯半位飲んだだけでこれだから、お酒は本当に合わないんだなぁと思った。朝ご飯とお弁当をかろうじて作って、「今日は本当にごめんなさい。」とリビングのソファに倒れながら彼を見送った。優一は行き際に「ほら見たことか。調子に乗るからだよ。」と嫌みを言って職場に向かった。

私は「面目ない。」と言って、ソファから手を振った。

今日は追悼ミサだからお昼までには何とかしなければと、あせりにあせったけれど、急にはどうする事も出来ないと悟った私は、優一がたまに飲む二日酔いの薬を飲み、再びソファに倒れこんだ。
横になりながら、こういう時の神経だけはどうして図太いんだろうかと自分自身に呆れつつも、いつしか眠りに就いてしまっていた。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  45

2013-08-22 15:26:46 | 日記
「そう言えばさ、明日、西さんの追悼ミサだったよね。帰りは何時くらいになるの? あんまり遅いようなら、外でご飯食べてこようか? 」

「え~っと。たしか午後2時から1時間位だから、そんなに遅くならないと思うけれど・・・。」

「そう。じゃあどうしよう。」

「そうだなぁ・・・。おこずかい余裕ある?」

「うん。それは大丈夫。」

「じゃあ、甘えちゃおうかな。」

「いいよぉ。今日は気合入れてご飯を作ってくれたんだから。」

「ありがとう。じゃあ、甘えちゃうね。」

優一は本当に優しい。私は彼のこの気遣いと優しさが好きだ。それでも、たまに気を悪くして、かんしゃく起こす時があるけれど、それだけで嫌いになれないのは、怒る方も怒ってしまう理由があるし、怒られる方にも怒られてしまう理由があると思っているからだ。
それが理不尽な怒りだったとしても、それが人間は感情の生き物であるという証であるし、完璧な人格者などそうそう存在しないという証明なのかもと思うと、怒られても幾分気持ちが楽である。それが、知らず知らずの内に身につけた、私の心の盾というか処世術なのかもしれない。

人は他者に対して完璧を求めてしまうものであるし、しかも我の怠慢を忘れて求めてしまう。それが分かっていればいいのだけれど、なかなか分からないものだから、すれ違いが苦しみとなるのかもしれない。もし完璧な人格者が存在するとしたならば神か仏か天の使いだけだろうと思いながらも、完璧な人格者という言葉に西さんの姿を想い浮かべていた。

食事の後片付けを終え一息つく。ワインを飲んだせいか程よくふわふわして、明日天沢君に逢えると思うと、少し心が浮き立つ自身がいる事を自覚した。「駄目だなぁ。私。」と、思い冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぎ一気に飲み干す。

すると携帯がメールの着信を知らせた。高鳴る鼓動を抑えつつ携帯を開くと送信者は天沢君だった。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  44

2013-08-21 13:20:37 | 日記
帰り道の途中でスーパーに立ち寄り、翠さんに教えてもらった食材を購入して、会話の記憶をたどりながら時間をかけて夕食を作った。つまみ食いをしてみるとなかなかの出来栄え。思わず顔がほころんだ。一通りの家事を終え一息ついて時計を見ると午後七時になろうとしていた。するとインターフォンが鳴って玄関の扉が開いた。

「ただいまぁ。」

「おかえり。今日はどうする。」

「おなか減った。ご飯にするよ。」

「じゃあさっそく準備するね。」

着替えに行く彼。今日は絶対驚くはずと期待しつつ、食卓に料理を並べた。

「おおっ。今日は何。何かの記念日? 」

「へへへっ。今日はスペシャルメニューでございます。」

「ひっとして、どこかで頭ぶつけた? 」

「あっ!何、今の。もう食べてもらわなくって結構です。」

「あ~。ごめんなさい。お料理のご説明お願いします。」

「うむ。それでよろしい。では、本日のメニューをご案内いたします。」

「まず、こちらがラザーニャ・プロバンス。こちらが焼きトマト。そして、ピストゥスープでございます。フランスパンと共に召し上がってくださいませ。ご希望であればワインも用意してございます。」

「おおおおっ。すごいじゃん。ひょっとしてお総菜コーナー物? 」

「むっ。何か言った? 」

「なにもいわないよぉ。」と、言って笑っている。これは少し釘をさしておかねばなるまい。

「四の五の言わず食べるべし!」

「すいません。では、いただきます。」

彼の表情をじっと見つめる。私の作った料理を一口含むと表情が緩んでゆくのが分かった。しめしめ目論見通りだ。そう思ったら笑いそうになったけれど、ぐっとこらえた。

「うまい!これ。どうしたの。お店で食べてるみたいだよ。」と、言って驚きを隠せないようだ。

「へへへっ。すごいでしょ。これね。ある人に教えてもらったんだよ。」

「ある人?」

「きょうね・・・。」私は今日地球屋に行った事、そこで翠さんに出逢って地球屋の行方を聞いた事を話した。優一も少し驚いていたけれど、「でも、よかったね。地球屋の事。ずいぶん心配していたみたいだから。」と、言った。いつだったかひとり言のように言っていた事をきちんと聞いていてくれて、また、それを覚えていてくれた事がとても嬉しかった。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  43

2013-08-20 07:28:34 | 日記
「じゃあ、今は準備中? 」

「はい。 今は知り合いのカフェで働かせてもらっていて、ノウハウを習得しているところです。 それと去年、調理師の免許も取ったから、美味しい料理も作れるように修行してます。」

「すごい! でも、いろいろ大変じゃないですか? 」

そう言うと、彼女は少しはにかみ、ほうきで床を掃きながら話を続けた。

「え~。全然すごくないですよ。それに好きな事だからあまり苦にならないです・・・。まぁ、お金とか準備とかはさすが四苦八苦してるけれど、彼も手伝ってくれるって言っているし、お祖父ちゃんやお父さんも協力してくれるから何とかなりそうです。それに西さんが私の夢に賛同してくれて、このお店をビックリするほど安くで譲ってもらえたから実現できたんです。だから私の力なんてほんの少しだけなんですよ。」

そう言う彼女を見ていて、ああこの人なら地球屋を大切にしてくれそうだと思った。そして、西さんが誰かのために働いた軌跡を見つけた事に感動した。

「謙遜なさらなくてもいいと思います。私なんかじゃ絶対無理ですもの・・・。オープン楽しみですね。」

そう言うと、彼女は初めて笑顔を見せて快活に答えた。

「はい。私もすごく楽しみです。だからなんとか年末くらいにはオープン出来るようにと、準備を進めています・・・。あっ、そうだ。もし差支えなければオープンが決まったら連絡さしあげましょうか? 」

私は「よろしくお願いします。なんだかわくわくしてきました。」と言ってアドレスを交換した。翠さんとは友人になれそうな気がする。何となくそう思った。
その後、調理師でもある翠さんにお料理の調理法の相談をして盛り上がったけれど、これ以上彼女の手を煩わせてはいけないと思い、話を手短に切り上げた。
去り際に「また、かならずきますね。」と言ってお別れのあいさつをすると、翠さんも「お待ちしています。」言って店の外まで出てきて私を見送ってくれた。

地球屋は新しい主を迎えて次の世代に引き継がれてゆく。西さん亡き後、地球屋は無くなってしまうのだろうかと思っていたけれど、翠さんのような人が西さんの想いを引き継いでくれて本当によかったと思った。

図書館のそばに繋がる急な階段をゆっくり下ってゆく。眼下には杉の宮の町並みが見える。
足取りは軽く、初めて地球屋を訪れた時と同じような心持がした。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  42

2013-08-19 07:43:29 | 日記
「ところで地球屋ってどうなっちゃうんでしょうか?」

すると彼女は「このお店?」と尋ね返してきた。私は「そう。このお店です。」と、答えると意外な答えが返ってきた。

「このお店は年末くらいにカフェとしてオープンする予定です。」

「えっ。カフェですか?」

「そうカフェ。」

「オーナーさんは? 」

「私です。」

「えぇっ。翠さんがオーナー!」

「ええ。」

クールに答えた彼女はとてもかっこよかった。そして、若いのにお店を持ってしまうなんて、すごいなぁと思うと同時に、どんないきさつでそうなったのかとても興味が湧いてきた。

「あのっ。少し込み入ったお話を聞かせてもらってもいいですか? 」

「どうぞ。」

「どんないきさつでこのお店のオーナになったのかが知りたいのです。」

そう尋ねると、彼女は包み隠さず素直に話してくれた。

「私、この住宅街に住んでいて、地球屋は小さいころから見ていたんです。その頃から素敵な家だなって思ってて、それがたまたまおじいちゃんの友人のお店だったんですね。」

「へぇ~。」

「それで、カフェを持ちたいという夢が出来た時、最初に浮かんだのがこの地球屋だったんです。そう思ったら、即実行と言う感じで、西さんにこの地球屋を使わなくなったら譲ってほしいって根気よく何度もお願いしたら、最後には、君の熱意には負けたよ。と言ってくれて、本当に譲ってもらうことになったんです・・・。まだ不動産とかの手続きは済んでないけれど、鍵は貰って、いつでも使えるように時々こうやって様子を見に来ては内装のデザインとかを考えているんです。」

彼女のバイタリティーには敬服してしまった。私なんかじゃ到底出来っこない話だ。
もう少し彼女の事が知りたいと思った。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  41

2013-08-18 21:15:26 | 日記
地球屋に向かって歩いてゆくと、わずかにお店の扉が開いているのが見えた。誰かいるのだろうかと思いながら扉の隙間から中を覗くと女性の姿が見えた。
地球屋の中はがらりとしていて、沢山あったアンティークはすべて無くなっていた。
どうやら女性はほうきと塵取りを持っていて掃除をしているようであった。危険な人じゃないと判断した私は勇気を振り絞って中にいる女性に声をかけた。

「あの~。すいませ~ん。」

その女性は振り返り、「はい?」と返事をした。少し細みで肩まで伸びた黒髪。綺麗と言うか可愛いという感じだろうか。クリーム色のダウンジャケットに白いタートルネックのセーター、スキニーのデニムにスニーカーというラフな格好の大学生くらいのお嬢さんだった。

「あの、此処のお店の関係者の方ですか?」と尋ねると、「う~ん。まぁ、そうかな。」と、答えた。

でも、それだけじゃあ誰だかわからないから、もう少し尋ねる事にした。

「えっと。西司朗さんのご関係の方ですか? 」と尋ねると、「いえ。」と、そっけない返事が返ってきた。どうしたものかなと考えあぐねていると、その女性が「あなたは?」と問いかけてきた。

「あっ。すいません。突然で失礼しました。私はこのお店のファンで西さんにとてもお世話になったもので、名前は杉村雫って言います。」そう言ってお辞儀をした。すると、彼女は固かった表情を柔和にして「私は北翠っていいます。」と言って挨拶をしてくれた。

「北?」どこかで聞いた名字だ。そうだ、アトリエで一緒に楽器を演奏していた人に北さんがいた。だから、「あの。北さんて此処のアトリエで西さんとよく演奏していらした方ですか。」と聴くと、「そうです。その北です。私は北の孫になります。」と、言った。

それで、ようやくどういう人なのかわかったけれど、北さんのお孫さんがどうしてこのお店にいるのかという疑問が残った。だから私はその辺りを知りたくなった。

「北さんのお孫さんだったんですね。私、北さんの演奏を何度も聴かせていただいたんですよ。本当に素敵でした・・・。それで・・・。北さんは今でもご健在なのですか?」

そう尋ねると彼女の表情は少し硬くなり「今、入院してる。」と、短く答えた。
これ以上、北さんの事を聞いてはいけないと感じた私は、慌てて話を変えようとしてみたけれど、上手く出来るわけがなく、おもわず口からこぼれたのは私の本音だった。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  40

2013-08-17 17:29:03 | 日記
緩やかな坂を下り、商店街を越えると向原駅が見える。駅周辺は通勤時間がひと段落した後だから人影もまばらだ。
一駅先の杉の宮駅まで切符を買い電車に乗る。椅子に腰かけ、車窓から流れる風景をぼんやりと眺めた。街は一見変わらないように見えたけれど、あの時の記憶をたどってみると、どこかしら少しずつ変化していた。

杉の宮駅で下車し、改札を出る。駅前の横断歩道を渡り、高架をくぐり、道沿いの歩道を歩いてゆくと橋が見えてきた。その先は急につづら折りの登り坂道になっていて、その道を登った中ほどに図書館がある。

景色を見ながらゆっくりと歩いているのにもかかわらず、坂の途中で息が切れた。本当に運動不足だなぁと思った。背を伸ばし一息ついてから再び歩きだす。程なく行くとようやく図書館が見えてきた。

階段を上り図書館の脇を抜け裏口の塀の前に立つ。あの時は「ムーン」を再び見つけてこの塀を懸命の乗り越えていった。

塀に手を掛け「どうしようかなぁ」と少しとまどった。大人だからあの頃のような振る舞いをするのはどうかなと思ったけれど、「此処まで来たのだから行ってみよう!」と決めた。

周りに人がいないことを確かめてから「えいっ」と登ると、意外にも簡単に超える事が出来た。もっと高いイメージがあったけれど、よく考えてみたら、私の身長もあのころに比べれば随分伸びているのだから低く感じて当たり前なんだと思った。

きりとおしを駆け下り、住宅と住宅の間を通るトンネルのような細い路地を行くと、あっさりと閑静な住宅街にでた。こんなものだったかなと思いながら左に折れると、緩やかな坂が続くその先に緑色の屋根の洋館「地球屋」が見えた。

何年振りだろうか。たしか最後に来たのは優一との結婚が決まった時だから、もう3年くらい前かもしれない。幾度となくかよった地球屋。今はもう主がいないのだと思うと少し淋しい気持ちになった。