硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「ストレイ・シープ」 第15話

2023-02-28 21:18:05 | 日記
福祉の現場で、仕事への想いとスキルの高い人物と出会うのは稀であり、「ナミ」の場合も精神疾患の知識が豊富で、興味深い知見を得る機会に出会えて楽しかったのであるが、「共感」を重きに置くことが主軸にある人たちにとっては、少し煙たい存在で、夢を実現させたいという宣言は「いつかは辞めてゆく」という事でもあるから、少し距離を置かれた存在であった。しかし、そんな状況でも、一切気にせず、自分の信じた道を修行僧のように突き進んでいた。

それから2年後、「ナミ」は「やっと準備ができたよ」と、宣言すると、嵐のごとくに手続きを済ませ、あっという間に退職してしまった。
他のスタッフは嫌味をこぼしていたが、目標に向かって突き進んでゆく姿は本当にかっこいいと思った。

そして、「ナミ」が去った後、なぜか僕への当たりが強くなり、それがあからさまであったので、何度か小さな抵抗を試み続けたのであるが、抵抗をすればするほど一層強固になっていった。
もし、それが、「よい介護をするにはどうしていけばよいか」という方向性であるのなら、いくらでも頑張れたのだが、どう考えても、「私たちの都合のいいように動ける人」を要求されているだけだと思った。
なぜ、こんな悲しい事になってしまうのかと、日々考え続けていたら、ある結論にたどり着いた。
それは、男性社会で女性が軽視されるように、女性が主体の社会では立場が逆転するのだと。
そして、この社会構造は、性差は関係なく、支配したいと強く欲望する者が多数を占める環境が構造を決めるのかもしれないと思った。

それを理解した僕は、精神的に耐えられなくなり、再び流転する事になった。


「ストレイ・シープ」 第14話

2023-02-27 21:36:05 | 小説
その考え方に疑問を感じた僕は、「できない事は出来ないのだから、そこをお手伝いするのが介護職員の仕事では」と反論したのであるが、「じゃあ、その人の家に行ってやってあげられるの」と、「私の正しさ」を押し付けようとしていて議論にならなかった。しかし、その考え方を利用者さんにも押し付けている事には違和感しかなかった。

ある日、疾患によって関節の可動域が狭くなってしまったおばあちゃんが靴下をはけずにいるので、手伝ってあげると、それを観ていたスタッフが「どうして、手伝うの? ○○さんも、甘えてないで自分でしなければだめでしょ!」と言って従わせようとした。
「なんだかなぁ」と思いながら、おばあちゃんに「ごめんね」と言うと、「あんたは優しいな。あの女はほんとにきつい」と溢すほどの冷たさであった。

そういう人ほど、オバサンと呼ばれるのを嫌い、アンチエイジングを崇拝する「年を取ることを否定する」人だから、「年を取った時の事を理解しようとする気はない」し、様々な例えを介して説明を試みようとしても、全く受け入れられない。
なぜこんな事になっているのかとしばらく考え込んでしまったが、介護現場の構造はどこでも同じであるから、老舗の施設においても、「自分にとって具合のいい」が最優先事項なのだと気づいた。

そんな中でも、「ナミ」は真剣に話せば分かる唯一の人であり、信仰に篤い人であったので、仏の教えを頼りにいろいろと話してみると、一方的に否定するのではなく、きちんと考えてくれる人であったので、時間がたてば何事もなかったように談笑できて、不思議な人だなと思っていたが、ある日、「ナミ」は、「あなたとはソウルメイトなの。そう告げられたの」とスピリチュアルな事を言うので、そういう事もあるんだろうなと納得した。
そして、さらに、驚いたのは、シングルマザーでありながらも、ゆくゆくは「小さな施設を立ち上げたい」という夢があり、今はそのために準備をしていると宣言した事だった。


「ストレイ・シープ」 第13話

2023-02-26 20:30:15 | 日記
それから数年後、老舗なら技術や制度の蓄積があるであろうから、まだ成長できるかもしれないと考え、ハローワークに職を求めた。
すると、偶然にもこの地区では介護保険制度が施行される前からあった施設が求人募集を出していたので、「ここだ」と思い、応募したが、相談窓口で話を聞いてくれていた男性職員さんが、僕の履歴を見て「介護の仕事以外ではダメですか? 」と言われ、とても動揺した。
確かに、不器用そうな人が相談窓口で「介護の仕事はどうですか? 」と勧められていたり、仕事を探している人に向けて初任者研修を補助金で受けられる制度をハローワークで紹介されているのを見て「介護職」のステイタスは、求人の最後の砦へと変化していたのを肌で感じたので、止めておいた方がよいのかもと頭をよぎった。
しかし、まだ、知らない事もあるはずだと、心を入れ替えて「介護職を続けたいので、よろしくお願いします」と、返答した。


そして、面接にこぎ着け、無事、採用してもらえることになった僕は、配属先の部署で「ナミ」と言う女性と出会った。
彼女は不思議な人で、僕に会うなり「あなたが来ることは分かっていた」と言われ、少し後ずさりしたが、その分、打ち解けるのも早かったが、意見の違いで衝突する事も多かった。
それは、その頃から、厚労省が打ち出した「自立支援」は、解釈の仕方が幾通りも出来るほどの曖昧さを有していたからであった。

介護施設の役割は、様々な障害や疾患をもっている人が、介護保険を使って家族にはできないサービスを受けに来ている事が前提にあるのに、「自立支援」という錦の御旗を掲げた現場のスタッフたちは、二言目には、「甘やかしてはいけない」「家では(着替えや排せつ等)を一人でできるようにするのが施設の役割」と言う、偏った解釈のみで共有されていたからだった。


「ストレイ・シープ」 第12話

2023-02-24 21:31:20 | 日記
ご飯を食べながら、これまでの経緯を包み隠さず饒舌に語る「リノ」は、自身が抱えている問題をどう解決してゆくかよりも、話を聞いてもらえることがうれしいみたいだったが、余りにも家族を批判するので、「じゃあ、一度家を出てみれば? 」と言うと、「それは無理」と答えた。
何とかならないかと思いながら話を聞いている側としてはとても困惑したが、対話を続けていると、「リノ」は家族や他者に頼る事でしか存在できない依存体質の人である事が分かってきた。
だから好きな人からの拒絶は、依存体質の「リノ」にとって耐え難い出来事で、その辛さから逃れるには、就職してからずっと負荷と感じていた「仕事」を手放すことでしか精神を安定させられないのだろうなと思った。

しかし、担任が苦心して見つけてくれて、みんなに支えられたから働き続ける事が出来てきた職場を離れてしまったら、この先どうするつもりなのだろうか。
もし、退職してしまったらニートになってしまう可能性もある。
だから、その未来を示唆した上で、踏み留まるよう説得を試みたのであるが、彼女が相談を持ち込むときは、今の自分の気持ちに共感してほしいだけというのも分かっていたので、いつかのように、「まぁ若いんだし、いろいろとやってみるといいよ。そしたら、自分に合う仕事がわかるかもしれないから」と、後押しするしかなかった。

その相談から一か月後、「リノ」は本当に退職してしまい、0.5人分の働きであったとはいえ、介護現場において一人の存在は重要な事を誰も気付かない現場は、徐々に余裕をなくしてゆき、「リノ」の最後の相談窓口であった女性もスキルアップを理由に退職する事になってしまった。



「ストレイ・シープ」 第11話

2023-02-23 21:19:01 | 日記
不器用な「リノ」であったが、人間の持つ本能的な営みには、本能的に従えてしまえた事が、彼に大きな誤解を生じさせていた。
彼はそれに気づけない人であった。
そして、彼らは、自身の仕事を低く査定していたので、求人募集をかければ、「簡単に」補充できるものだと考えていた。

しかし、世間の思う介護のイメージは変化していて、その年の、「来週には梅雨入りするでしょう」と、気象予報士の女性がアナウンスし始めた頃、自腹で6年間行き続けていた「福祉研修会」において、それを体感する事となった。

最初に参加した年は、キャパシティ300名位のホールに老若男女の福祉関係者が集い、基調講演を行った代表の女性が発する言葉もポジティブで、講習の内容も希望があってわくわくしたが、6年目には視聴覚室で行われていて、50脚の椅子も埋まらず、参加者の顔触れも50代以上の人ばかりになり、代表者の女性もどこかネガティブで、講演会の内容も、終始、研修会を主宰する組織の維持について語られていた。

時の流れや、流行と言ったものは儚く移ろうものであった。

重い足取りで帰路についた翌日、いつになく惰性で仕事をしていると、「リノ」から相談を受けていた入所施設の女子職員が「リノが辞めるって言ってるから、いっしょに相談に乗ってあげられないかな? 」と、相談を持ち掛けてきた。
福祉職に希望を失いかけている者が退職したいと言っている人に頑張れとは言えない。しかし、ほうっておく訳にもいかず、しばらく考え込んでしまったが、話を聞くなら職場以外の方が遠慮なく話せるだろうと、三人でご飯を食べに行くという体をとって、「リノ」の言い分を聞くことにした。



「ストレイ・シープ」 第10話

2023-02-22 20:20:45 | 小説
彼らは自分の思うように人を操作したい人であった。
そして、自身のスキルも怪しいものであるのに、指示は出すが、手は出さない事が指導なのだと疑わなかった。
その考え方が、現場の士気を下げている事を気付けない人達であった。

そんな環境では、「先生に勧められた」と言う動機で入社してきた女子たちにとって、頑張る意味はなく、その年の夏が終わる頃、ついに「ギャル」が退職を決意した。
「ギャル」も、入社してきたときから「リノ」と同じように気にかけてきて、基本的な事から応用的な事まで、丁寧に教え、大きなミスをした時には、悪びれず笑っていたので、本気で怒ったら子供のように泣いてしまったが、それでも、何故か、嫌われることなく、色々と吸収しようとしていたので、この子なりに頑張ってくれているのだと手ごたえを感じていた。
それなのに、なぜ、と思い、「ギャル」に話を聞きに行くと、素直な彼女は、「誰にも言わないで」という前置きをして、「ここの人間が嫌いだから」と、本音を打ち明けてくれた。
現場を知らない管理職の判断と人選から考えれば、職場の人を嫌いになるまでの過程は想像に難しくないが、それでも、退職するのはもったいないので、「もう少し頑張ってみては」と説得してみたけれど、彼女の決意は固まっていて、どうする事も出来ない不甲斐無さから「君が辞めてしまうのは本当に残念だよ」としか言えなかった。

純粋な気持ちが残っていただけに仕事と割り切れず、また、「口だけの上司」と「自分の事だけで精一杯」のスタッフでは彼女たちを助ける事が出来ず、精神的に追い込むことになってしまったのだが、「ギャル」が退職した事によって、再び「リノ」の不器用さが顕著になり、指示された事を指示された通りにできない「リノ」の「個性」を理解していない彼は、愛着のなくなった服を脱ぎ捨てるように、「もう、付き合えない」と、冷たく突き放した。

「ストレイ・シープ」 第9話

2023-02-21 20:59:50 | 小説
「リノ」にとっては、理屈よりも五感に訴えてくる快楽の方が現実であった。

そして、自分の想い通りに事が進んでいるので、泣くほど彼から叱られても、好きな人からの叱責は感情を揺さぶられるので、その場だけは辛くても、構ってもらっているという気持ちの方が上回っていて、それがミスを減らす原動力になっていた。

しかし、事態は関係のない者の手によって急展する。

ある日突然、施設長から個人のスキルアップ図るため、通所施設と入所施設の職員を2名トレードするお達しが出た。
その方針に「なぜ、いまさら」と思ったが、現場を知らない上司は誤った判断を下していても気付かないものなのだなと改めて認識した。
しかし、雇われている身なのだから、決定された事には従わなければならないので、出しゃばらずに静観していようと思っていたが、他の職員は、口々に「レクリェーションが嫌」と主張していて、古株さんも、そんな「子ども達」を手元から放したくなさそうであった。
その様子を傍から見ていて、いずれ声が掛かるのだろうなと思い、「僕、前職が通所なので、移動してもいいですよ」と手を挙げると、その二日後、入所現場でレクリェーションをうまくやっていた男子と通所介護現場に、通所からは、口ばかりで動かない中年女性が移動する事になった。

そして、部署が移動になったことで、「リノ」の様子は次第に分からなくなっていき、トレードの結果といえば、通所ではいろいろな変化が生まれていったが、「動かない人」が入った入所施設は、動かない人の分が個々に回ったため、次第に淀んでいく事になった。
しかし、「動かない人」は、「上」の人にはへつらう人であったので、古株さんと彼の地位はいよいよ盤石になり、その翌年、再び移動が発令されると、古株さんと彼は、自分たちにとって使いにくそうな人を移動させ、入所部署の君臨者となった。

しかし、数か月経つと、僕が入社した以降に入社してきた人たちが次々に退職してゆく事態になった。


「ストレイ・シープ」 第8話

2023-02-20 22:04:37 | 小説
それは、初めて質問した時のように、全く淀みの無い返事だった。
「リノ」は、きっと相談を切り出す前から、どうしたいのかはわかっていて、誰かに気持ちを肯定してほしいだけだったのだ。

しかし、仕事の進度は三年経っても、さほど変わらず、「リノ」との夜勤はいつも大変であった。
30床の内の20床の離床ケアを僕が受け持つことが常であり、徘徊者がいる日は、「リノ」に見守りを託して、黙々と他の利用者さんのケアをする事もあった。
これは、僕なりに考えた、とにかく手の遅い「リノ」の気持ちを追い込まない為の禁じ手であったが、他のスタッフに言うべきことでもなかったので、何事もなく仕事を熟していたが、それに気づいたのか、シフトを作成する古株さんと彼は、僕と彼女のペアで夜勤を当たらせる機会を多くしていた。
こちらもそれに気付かない訳がなく、勤務表をもらうたびに心の底で「やりやがったな」と思ってはいたが、すぐに気持ちを切り替え、肯定的に捉え、それならば、少しずつ僕なりの仕事をやり方、考え方について教えていこうと思った。
しかし、「リノ」は彼との夜勤で、僕のやり方で仕事を進めると、「そんなやり方はダメだ」と言われたと言い、とてもがっかりしたが、仕事以外の話となると、とても嬉しそうに、彼と一線を越えた事、これまでの経験の中で一番の快楽を得られたことなどを話す様子を見ていてると、何も言えなくなって、「まぁ、仕事は後からついてくるか・・・。」と、自身をなだめた。

「ストレイ・シープ」 第7話

2023-02-19 21:39:50 | 小説
入社して3年が過ぎた頃、地域の「社会体験」として、施設を訪れていた中学3年生の女子が、2日間で「リノ」よりも上手く動いてくれているのを目の当たりにして愕然とした。
いつの間にか「リノ」や「ギャル」が若い子の「基準」となっていたので、「彼女たちとは違う価値観で能動的に動ける女子もいるのだ」と、自分の視野が狭くなっていることに気づかされた。
しかし、その事によって、「リノ」のような子にこそ、福祉職はセイフティーネットでなければならないし、他の仕事は難しいのだから、この仕事を続けてくれるようにサポートしなければという想いが浮かんでいたのであるが、鈍感力の高い「リノ」は、僕の気持ちなど気付くはずもなく、今度は、同じ部署の既婚の男性を好きになり、その気持ちを抑えられないと言い出したのだった。

その予期せぬ告白に、驚いてしまったが、無下に拒絶すると絶望してしまうかもしれないと思い、とりあえず、話を聞きながら、どうすれば彼女にとって最善になるのかを探る事にした。
しかし、相手は女性慣れしていて、古株さんも手玉に取っている人だったので、どんなに思い詰めたとしても、ハッピーエンドにならないのは明白であった。
それでも、「自分の気持ちに素直なリノ」にとって、気持ちを秘めておく事は難しいだろうから、あえて気持を後押ししたとしても、相手の立場は、上司なのだから、冷たくはしないであろうし、仮に不倫関係になったとしても、望みが叶い、ハッピーになり、職場に通い続けるモチベーションにもなると考え、

「気持ちだけでも伝えてみればいいんじゃないかな。相手は既婚者なんだし、それをわかったうえで聞くだろうから、後は彼の良心の問題。それに、気持ちを口に出すことは、黙って苦しい思いをいるよりは、前向きになるんじゃないかな。ただ、どう転んでもハッピーエンドにはならないけれどな」

と、助言をすると、頬を赤らめ、はにかみながら、「うん。そうしてみる」とつぶやいた。



「ストレイ・シープ」 第6話

2023-02-18 17:22:06 | 日記
翌年、新しい春の訪れと共に、新しい職員が入社してきたことで、慢性的な人員不足もようやく解消され、皆の気持ちにも余裕が出来てきたのか、「リノ」の不器用さも「笑って」受け入れられるようになっていた。そして、その余裕が「リノ」も自身にも伝わってきたのか、いじられると笑顔も見せるようになり、仕事の方は牛歩の進歩であったが、精神的に安定したのか、次第に自分の事を話すようになってきた。

好きなアニメの事はもちろんであるが、高校時代は、とにかく勉強ができなくて、先生に助けられながらなんとか卒業できたことや、高校では、いじめられていた事、いじめていたのは一緒に入社してきたギャルであった事、時折自傷行為していた事、バイセクシャルで、マゾヒストで、sexに対してはオープンマインドである事、母親と新興宗教の教会に行っている事など、どこまでが真実なのかと思うほど包み隠すことなく話し、「それは話しても大丈夫なの? 」と、こちらが聞き返すほどであった。

もしかしたら、虚言癖があるのかもと思い、ギャルに、こっそり、「いじめてたの? 」と聞くと、少し顔を曇らせて「うん。あいつらキモかったから」と、答えた。

高校時代は違った意味で、アウトサイドにいたともいえる「リノ」だったが、自分に素直な人でもあった。自分の欲する事に忠実な人であった。
自分の興味のない事には関心を寄せず、好きではない人からは、何を言われても響かない人であった。
いじめていた人と同じ職場に入社したことをどう思っているのか聞いてみた時も、「別に、いいかなって」と言えてしまう、よい意味での「鈍感力」があり、そういった思考性をうらやましく思っていた。
その反面、彼女に抱く違和感は何なのだろうと思い始めてもいたが、当時は、ノーマライゼーションとは、差別とは、偏見とは、と言うワードが強く思考に働いていたので、その前にやるべきことがあるだろうと自分に言い聞かせていた。

「ストレイ・シープ」 第5話

2023-02-17 21:20:50 | 小説
その日は、シフトの関係で古株さんが「リノ」の指導係になり、終日、行動を共にする事となったが、それが事件発生の予兆であった。

その日の午後のおむつ交換を始める前に、古株さんは、ほんの少し難易度の高い利用者さんのおむつ交換を、「リノ」にたのんだのであるが、「リノ」は何を思ったのか、間髪を入れずに、「できません」と言ったのだった。

古株さんからしてみれば、何回も指導係といっしょにおむつ交換にあたっているのを知っていたので、「もう一人でも、できるだろう」と思って、ごく普通に指示を出したつもりであったが、なぜか、指示を拒絶し、古株さんも新人からそんな態度をとられる事は初めてだったらしく、イライラはついに臨界点を越え、いつも以上に強く「リノ」を咎めた。
そして、叱責を受けた「リノ」は、相当堪えたのか、その晩、泣きながら咎められた部分だけを吐き出すと、その話を真に受けた父親は、翌日「うちの娘が泣いて帰ってきた! どういうつもりなのか」と、施設に怒鳴り込んできたのであった。

まったくの「寝耳に水」であった施設長は、早急に関係者を集め、詳細を確認後、丁寧に事の顛末を説明したのであるが、父親は釈然としないまま現場に不協和音だけを残して去っていった。
しかし、非は「リノ」にあり、それは誰にでも理解できたので、父親の言い分を人伝に聞いた職員達は、「あのおやじ、ちょっとおかしいぞ」という印象を持ってしまう事になった。
それでも、抗議が効いたのか、古株さんの指導の仕方にも不備があったのか、施設長からのお達しがあったのかは分からないが、現場における「リノ」への対応はさらにソフトになっていった。

「ストレイ・シープ」第4話

2023-02-16 21:33:25 | 小説
そして、古株さんと、「親子」かと思えるほどの距離間を保ちながら、「したたか」に働いている少年少女たちも、最初は、不器用な後輩とイライラする上司の間で、どうしていいのか分からないようであったが、いつからか、古株さんに寄っておいた方が「徳である」と判断したのか、仕事は教えていたが、態度は冷ややかなものになっていった。

その様子を見ていて、いじめこそないが、このままでは、いつか「リノ」を追いやってしまうのではないかと思い、意を決して古株さんに、

「就職した事がゴールではないでしょう。これからの人生の方が圧倒的に長いのだから、会社としては彼女の成長を促すように育てていかねばならないのでは? 」

と、進言し考え直してもらうように説得を試みたが、入社して半年も経たない者から意見をされる事は、プライドが許さないようであまりいい顔はしなかった。


「リノ」も「リノ」で、強く言いすぎれば「ベソ」をかき、弱く言えば「受け流す」と言う有様で、糠に釘と言うか、暖簾に腕押しといった諺通り、手ごたえがなく常にもどかしさはあったが、「リノ」の気持ちに沿った教え方を粘り強く続けていると、とてもゆっくりとではあったが、少年少女たちも、感覚的に、どう接していけばいいのかわかってきて、長い梅雨が明けた7月の終わり頃には、現場の空気も徐々に好転し始めて、「リノ」も、その変化を感じ取ったのか、少しずつ笑顔を見せるようになった。

そして、高校生の頃から通い続けていた自動車学校もようやく卒業し、自力で通勤できるようになったと、とても喜んでいて、気持ちも環境もようやく安定してきたかなと思っていたら、また、新たな問題が発生してしまったのだった。



「ストレイ・シープ」 第3話

2023-02-15 22:10:36 | 小説
それでも、「全てにおいて劣っている」訳ではなく、何かのきっかけでアニメの話をすると、スイッチを入れたおしゃべり人形のように、延々と好きなアニメの事を驚くほど饒舌に語りだした事があった。
その変貌に驚きつつも、「覚える事も、話を聞くことも、話しかけるのも苦手」という印象は、僕たちの思い込みに過ぎなくて、興味の持てる教え方をすれば伸びてゆくのではと思い直したのであるが、「リノ」の不器用さは、新たな問題を露呈させることになった。

介護保険が施行された年は、就職氷河期と呼ばれるほどに日本経済も落ち込んでいたが、社会保険が主な収入源の介護は、ビジネスチャンスとなり、施設も増加する事になった。
そして、窓口が広がったことにより、雇用年齢もぐんと下がり、ティーン・エイジャーが参入してくる事にはなったが、それによって古株のオバサン達が、「私達は上がった」と間違いを起こす事になった。

しかし、その間違いは必然であったともいえる。

それは、介護保険が施行されるまでの介護は、「家政婦」の延長線上の仕事と言う認識が強く、個人の感覚で行われていても、さして問題なかった事が大きな要因であるように思う。
しかし、介護保険と言う保険金が投入された事で、「専門職」になり、職業としての地位は爆上がりしたが、介護保険導入までの過程で、専門的な技術や知識の蓄積、新人の教育方法等が確立されていなかった為に、古株さんの感覚は、「自分の具合のいいように」という以前と変わらないものであり続けていた。
そのために、「自分の思い通りにならないリノ」事は、「何とかして育てよう」というベクトルには伸びず、イライラを募らせる事しかできないのかなと、側から見ていて思っていた。

「ストレイ・シープ」 第2話

2023-02-14 21:29:45 | 小説
もし、この職場が古い体質の縦社会だったら、「お前、やる気あるのか」と叱責されてしまうと思われる「リノ」の答えは、イマドキと言えばイマドキと言えたが、どちらも違うと思い、自分なりの言葉を探した。
そして、会社に勤め始めた頃の僕も、上司からしてみれば、きっとこんな感じだったんだろうなと思い、「まぁ、最初はそんなもんだよね」と、柔らかく言うと、「リノ」はぎごちなく微笑み頷いた。
「リノ」の素直な感情表現は「まだ私は子供なので」と、アピールしているようにも見えたが、会社は学校と違い、労働を対価に変える場所であるから、「甘えてばかりいられない」と気付けば、心境の変化も起こってくるだろうと楽観的に考えていた。

介護の仕事の良い点は、基本、自分が、朝起きる。服を着替える。身だしなみを整える。トイレに行き用を足す。ご飯を食べる。歯を磨く、お風呂に入る。寝る。という動作ができていれば、それをできない人にしてあげるだけと言う所である。
その作業が7割であり、後の3割は、報告連絡相談、整理整頓清掃、記録をつけたり、ケアプランを作成したりできれば、問題ないのである。

しかし、「リノ」は2ヶ月経っても、「覚えられないのだったらメモを取るように」と再三注意されても、その場は頷くものの、メモを取ることをせず、しかも、基本的な事もおぼつかないままで、他の職員を困らせていた。
一方、彼女と一緒に入社してきたもう一人の「ギャル女子」は、小学生のような自由奔放さがあり、就職動機も「リノ」と同じであったが、指導係が教えてくれている事はメモに取り、ぎこちなくても利用者さんと会話をして彼女なりに頑張っていたので、進歩が見られない「リノ」の存在は一層浮いたものになっていた。

短編 「ストレイ・シープ」

2023-02-13 21:56:44 | 日記
「 これ以上、私の力ではどうすることも出来ません 」

「リノ」の未来の為に力を尽くしてきた、「ナミ」からのLINEは、自身の不甲斐なさと悔しさが滲み出ていた。
僕は、その文面を何度も読み返し、現実を理解しようとしたが、言葉では言い表せない感情を払拭できないまま、色褪せかけていた「リノ」との時間を思い出していた。

事の始まりは、15年位前である。

街路樹の桜が新緑に変わり始めた頃、新入職員として入社してきた「リノ」は、ぎこちない挨拶の後、ちょこんと頭を下げた。
その容姿と立ち振る舞いは、中学生かと思うほど幼く、終始うかない顔をしていた。
それは緊張していると言うよりも、希望を持ち合わせていないように感じた。

当時の介護職員と言う職業は、国主導で立ち上げられた事もあって、「準公務員」であると口にする人がいるほどのステイタスがあり、メディアの後押しもあって、広く認知され、高校や専門学校の卒業と共に就職する若者や、彼らの選択を応援する親もいたが、今思い返してみると、彼女たちの登場位から移ろい始め出したように思う。

ぎごちない挨拶の後、主任から簡単な説明を受け、指導係の職員の下で仕事に入ったが、指導係に任命されたふわふわした少年少女達は、自分達よりも年下で、自分達よりも、やる気なさげな彼女たちに、どう接していいのか分からない様子だった。
僕は、転職してきてまだ日が浅かったので、指導係に任命されなかったが、次第にもどかしさを抑えきれなくなり、作業を手伝いながら、少し手の空いた時を見計らい、さりげなく、「なぜこの仕事と施設を選んだの? 」と、尋ねてみた。
すると、「リノ」は、ためらう事なく、

「介護の仕事は嫌だったけど、先生に勧められたから・・・・・・。」

と、素直に答えた。