硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

2015-03-30 17:33:15 | 日記
テラスで猫が鳴いている。なんだろうと思い猫の様子を見ると、何かに向けて鳴いているようであった。窓から顔を出し猫と同じほうを向くと、妻が猫のブラッシングの為に用いている櫛の前に一匹の雀の姿が見えた。妻はその様子を観て、雀は俊敏に動くので自力で狩ることは困難であるから、主である妻に鳴いて「捕ってほしい。」とねだっているのだと断言しているが、真相はよくわからぬ。しかし、雀は何故猫の櫛をつついているのかと不思議に思ったのでじっと観察してみると、どうやら櫛に着いた猫の毛を回収しているようであった。
動かぬ妻にしびれを切らした猫は意を決し、雀に向かって身を低くしながら静かに歩み寄っていった。しかし、雀は早々に危険を察知し猫の毛を加え春色の空に飛び去って行った。猫は残念そうにくりくりした目でその軌跡を追っていた。
雀は本当に利口な鳥である。櫛に残された冬の猫の毛はふわふわして暖かい。きっと良い巣が作れるだろう。

消去。

2015-03-24 08:18:52 | 日記
学校の教諭が子猫を生き埋めにしてしまったというにニュースが流れている。嫌な気持になりつつも少し考えてみる。

目の前に自分に対して不都合な事がある。今後の事を考えると困りごとが増え不快に思うと感じる。その時、人はどのように考え不都合を乗り越えてゆくだろうか。

たとえば、不都合な事に対して真摯に向き合い粘り強く対峙してゆっくりと解決策を見出してゆく事が最善であるように思うけれど、正解とは言えないと思う所があります。なぜなら、人は様々な考え方を持つものだからその人が生きてきた環境の中で培ってきた感性が大きく左右するので、人によっては全く的を射ない考え方になるからです。

また、此処の処、行動を短絡的に決定してしまう事件が目につく機会が増えたような気がしますが、現在は情報社会であるから小さな事柄まで拡散されるので耳や目に留まる機会が増えたのかもしれないけれども、それでも、老若男女が短絡的に不都合で不快なものに対して消去という選択をとることに違和感を感じずにはいられません。

勿論そこに至るまでには葛藤があったのかもしれないけれど、消去という結論を導き出したその後の想像がどうしてできないのか疑問に感じるのです。不快感さえ取り除けば幸福になるという感覚はどうして生まれるのでしょうか。確かに不快感が取り除かれればその瞬間は気が晴れるかもしれないけれど、多くの場合、その後に起こる自身への反動の方が想像以上に重たいものである事が多いのに、どうして消去する事を選んでしまうのでしょう。

しかし、ある意味衝動とはそういう心理なのかもしれません。

それでも、行動を起こす前に、感情的になる前に、もう一度、自身の不快と思っている感情を取り除き、客観的に対処法を考えることが大切であるように思います。

そして、情報が溢れている環境にどっぷりと浸かっている以上、自身が起こした社会的問題も拡散される可能性が高く、ネットワークに上がれば「不快な他者を消去する以上に」消去することは困難になり、今後の人生が生きにくくなるというリスクがついて回るのに、消去を選択した人々はそのリスクについて希薄なような気がするのです。

人は迷い続ける。

2015-03-17 20:24:41 | 日記
お昼の休憩をとるため休憩室に入りテレビをつけると、オウム真理教の後継団体の施設に公安が捜査に入る映像が映った。これはデジャヴなのではと一瞬目を疑う。

オウム事件から20年という時を経てもその真理が受け継がれているのかと思い、大変驚き、いろいろ考えた。

世間から否定された新興宗教が再び少しづつ信者を増やしていると聞いて、何故そのような事が起こるのか不思議に感じた。今朝の朝刊にも関連の記事が載っていたのでよく読んでみると、その理由としいて勧誘方法が巧みであると記してあったが、それでも、入信に持ってゆくには入信する人がその団体の崇める神を信じることが前提になるはずである。

そこで思うのが、長い歴史をかけて確立してきた様々な宗教ではどうしていけなかったのだろうかという事です。確かに判りにくいし、幸せを感じられるという意味でも体感できにくいとも思います。しかし、煩悩が多い私たちはそれが信仰なのだとわかるまでずいぶん時間が掛かるので途上で諦めてしまいますが、それでも、信仰に合う合わないという個人的な意思が介入している事に疑問を感じます。確かに思想ですから自身の考えにそぐわなければ身を投じる気にはならないというのもわかります。

だれも私の事をわかってはくれない。という気持ちを汲んでくれる他者が現れると確かに安心します。常に私を肯定してくれるのですから、たいへん心地よいと思います。

ようやく幸福が訪れた。心の支えができた。迷いがなくなった。と、思える瞬間も訪れるでしょう。

しかし、それは、ホストにはまる女性や、キャバ嬢にはまる男性に似ています。僕はホストやキャバ嬢に入れ込んでいる人の話を聴いて、それがこの人たちのロマンなのだと解釈したのですが、ドライに捉えるとその関係は利益が生じていてこそ初めて関係が保てているように思います。

しかし、逆説的に考えれば、金銭が必要なければ、人は何を信じてよいのか判らなくなってしまうのかもしれません。私を肯定してくれるものに対価を支払う。それが安心感につながるのならば、すべてを信仰する神に捧げる。その気持ちが信仰心を深めるのだと捉えられなくもありません。そして、肯定してくれない他者の言葉などに耳を傾けるはずがありません。

信じられるものがあるという安心感。それは何物にも代えがたい気持ちでしょう。誰もがその境地にたどり着きたいと思うでしょう。

でも、少しだけ考えてみてください。シッタールダは豊かな暮らしを捨て、真理を得るため苦行の旅に出ました。天使から神の言葉を授かったムハンマドは仲間と共に荒れ野であるアラビア半島を布教し巡りました。イエスは洗礼を受け、新しい神の言葉を布教する為、慕うもの達といばらの道を共に歩きました。

確かに、始まりは苦難の連続かもしれません。そこに新たな言葉があるかもしれません。しかし、彼らは誰も苦しめてはいないのです。自身が苦しんだのです。自身が苦しんだことで多くの人が救われたのです。

そこから考えると、本当に神や仏を信じ信仰するならば、自分が救われる事に欲するのではなく、誰かを救う事、他者に対して善を尽くすこと。つまり、生きている者の言葉ではなくて、祖の行いを真似ることが本来の信仰であるような気がするのです。

しかし、祖の真似をしていても、それでも人は迷い続けるのだとも思うのです。


生きるとは、幸福とは。

2015-03-12 19:45:05 | 日記
朝、布団の中からテレビのリモコンに手を伸ばしスイッチを入れると、女の子がなにやら話し始めたところであった。布団の中で耳を傾けているとその内容に愕然とし目が覚めた。画面を見つめて、女子高生が語る体験談を言葉と共に流れるテロップの文章を読み、そして、朝刊を開き改めて文章を読み返した。

彼女が語った実体験は、僕が語らずとも多くの人の心に何かを残したと思いますが、少しだけ思ったことを述べておこうと思います。

彼女が語った体験は生きるとはどういうことなのかを改めて考えさせられ、その短い文面の中には私達には想像できない苦しみや葛藤があったことを想像すると胸がいっぱいになりましたが、彼女が私たちに教えてくれたのは、やはり、「他者からのメッセージ」が、明日への勇気や希望となり活力になったのかなと感じたのです。

そして、それと同時に浮かんだのは河合隼雄先生の言葉でした。

臨床心理学者であった河合隼雄先生は著書の「しあわせ眼鏡」で幸福についてこう述べていらっしゃいます。

「幸福というものも、たとえ他人にはそれだけにしか見えないにしても、それが厚みを持つためには悲しみによって支えていなければならない」

「幸福ということがどれほど素晴らしくあるいは輝かしく見えるとしても、それが深い悲しみによって支えられていない限り浮ついたものでしかないという事を強く強調したい」

人によって感じ方はさまざまであるけれども、彼女の体験とその後の人生は、河合先生のおっしゃられた言葉に深い所でつながっているのではと思ったのです。






祈り

2015-03-11 20:08:42 | 日記
夕方のニュース番組をみていると、東日本大震災の慰霊会場で献花をしたり、教会やモスクやお寺でお祈りをしている人々の姿が映し出されていた。

勿論、そこには作り手の意図があるのだけれど、本来宗教とは、目に見えない偉大な力に他者や死者への弔いの為に祈るものなのだと思った。

そして、どの宗教の主張が正しいかなどという論争は目に見えない偉大な力ではないので本当はあってはならないのだと思う。

誰かの無事の為に、死者が彷徨わぬように、静かに祈りたいと思います。

素晴らしき芸術の開花には・・・。

2015-03-07 09:14:11 | 日記
愛知県立美術館で開催されている「ロイヤル・アカデミー展」を観てきた。ロイヤル・アカデミーとはイギリスのロンドンに、1768年ジョージ国王3世の庇護の元、創設された芸術機関なのだそうです。

芸術に力を注ぎ多くの芸術家の才能を開花させ、後世の私達に感動を与えてくれる国王の働きは本当に素晴らしいと思う。が、です。

今の僕は素晴らしい絵画や彫刻を前に、素直に喜べないのでした。それは、書物を通してイギリスという国の背景を知ってしまったからです。

芸術を爆発的に開花させるには経済が豊かでなければなりません。これは、歴史的に振り返っても絶対条件なのです。

当時のイギリスはなぜ豊かになったのか。そこには様々な要因がありますが、その一つが「国家による貿易」によるものなのです。しかし、その「貿易」の中身は略奪と搾取によるものが大きいのです。

その手法とは、最初は、私的で行われていた海賊の海賊行為を国家が支援しました。それはハイリスクであるけれど利潤がハイリターンであったからです。そして、結果が伴うと次第にその腕を買われ組織として海軍として認められるようになり、新大陸やアジア圏からあらゆるものを搾取してゆき、スペイン艦隊までも撃破し制海権を確立させました。しかし、そうなると海賊が邪魔に感じた国家は海賊を正規の海軍から追放し、正規軍が主力となった国家は航海法を制定して他の貿易会社を貿易航路の独占を守る立場に回ったのです。そのことで大英帝国は資本主義国家として戦勝国となり、その資本が十八世紀の「産業革命」につながってゆきます。

話を戻しまして。

つまり、ロイヤル・アカデミーが創設された時期のイギリスというのは、多くの血と汗と涙と憎しみと命の犠牲の上に成り立っているのです。

芸術は芸術として割り切って鑑賞するべきとは思うのですが、困ったことにどうしてもそこに引っかかってしまうのです。

様々な事を知ることは良いことだと思うのですが、多くの事は知れば知るほど矛盾に苛まれてしまい、時として芸術を前にも心を曇らせてしまうのです。


もやもやした判決。

2015-03-05 20:06:16 | 日記
美濃加茂市長の無罪が決まった。この汚職事件は東海地域ではかなりの時間を割いて各局が報道していたので気になっていたけれど、判決が出たにもかかわらずもやもやが残ってしまった。

裁判で判決が出たのだから彼は無実の人である。法治国家の下では間違いではない。しかし、気になるのです。

決して市長を疑うわけではないのです。ただ、この事件の構造がどうにも腑に落ちないのです。

それは、裁判の争点がどちらが正しいかではなく、どちらが嘘をついているかに争点があったからです。

「うそをついているのは誰だ。」という事を大人たちが言い争うのです。これって、もやもやしませんか。

火のない所に煙は立たぬかもしれませんが、火のない所に無理やり煙を立たたせようとする人が存在していることも否めません。

しかし、何故でしょう ?

もし、この判決が本当に正しいものであるなら地検のあり方が問われる事になります。そして、どうして無理やり煙を立たせたのかその理由を白日の下にさらさなければ地検は信用を失います。人の集まりであるのだから間違いもある。しかし、国家権力であるのだから、自浄力を働かさないと組織的に成り立たなくなるのではと思うのです。

人前で恥をかくことは自尊心を傷つけることになりますが、だからといって隠ぺいや偽装してしまったら悪習が慣習となってしまえば、真実はどこにもないことになります。

そして、このまま人工知能の開発が進んでゆけば、彼らの仕事の多くがマシンに取って代わられる事になると思います。

だから、もう一度丹念に調べ上げ、非があれば非を認め、市民からの支持を得る事が今の名古屋地検が取り組まなければならないことなのではないかと思うのです。

また、若き市長もガードを固め、市民のためにより一層の努力をして、このモヤモヤを払拭してほしいなと思うのです。



akb48 < sibajyun

2015-03-02 19:34:44 | 日記
車のエンジンを掛けると聞こえてくる「恋するフォーチュンクッキー」。最近ようやく耳になじんできてウキウキまでとは言わないけれど、たしかに気持ちも上昇してきたように思う。しかし、ここに達するまでに紆余曲折があったのは言うまでもなく、気持ちの整理もしておきたいのでその経過を吐露しておきたい。

akb48さんは悪くはないのだけれど、聴くことへの抵抗とボーカルの(キャラではなくて)魅力のなさが、気持ちのシフトを拒んだ。それならばと思い切って「でんぱ組 inc」を聴いてみたのだけれど、浅野尚志さんのキレキレのアップテンポにはキレキレすぎて気持ちがついてゆかない。そこで、きゃりーぱみゅぱみゅさんを聴いてみた。中田ヤスタカさんのテクノポップは天才的で加速を続けているのだけれど、聴けば聞くほど僕自身の取り残された感が否めなかった。
悩みに悩んでいるとき、深夜番組をぼんやり見ていたら、hkt48の指原莉乃さんがおすすめの人物を紹介するという趣旨の番組の中で登場した三人の中に一人の女性ボーカリストがいた。最初のうちは気にも留めずぼんやり見ていたのだけれど、指原さんのおすすめの曲がmv風に少し流れた時、身体に電気が流れるような衝撃に襲われた。

彼女の名前は柴田淳。

それ以来、柴田淳という名前が頭から離れずにいたのだけれど、指原さんも徳井さんも彼女の歌は「とにかく暗い」というので、聴いてはならないと思っていたのだが、ユーチューブで検索するとたくさんヒットするではないか!

暗い曲は避けるべしとカバー曲を選曲、柴田淳が歌う荒井由実さんの「ひこうき雲」。

柴田淳の情感を込めて歌う姿勢と、細くてしなやかな声と、癒しにも似たビブラートは次第に身体を侵食し、マウスを持つ手が停止を拒んだ。

その後、やはり持ち歌も気になったので頑張って聞いてみたのだが、聴き終わった後、開けてはならぬは箱を開けてしまったような気持ちになってしまった。そして、翌日仕事の帰りにしばじゅんのcdを探してみると結構出ている事を知った。そして、「暗い曲」は避けるべしとレンタルしたのが「cover 70s」

エントリーしたとしても引き返すことも容易であろうと聴いてみると、聞き覚えのある曲が次から次へと流れてくる。しかも、上手いじゃないか!!

すっかりはまり込んでしまった柴田淳。しかも、こともあろうに指原莉乃さんから知る事になるとは・・・。

「恋するフォーチュンクッキー」もいいんだけど・・・。ごめんね指原莉乃さん。