硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

ためらわない少年たち。

2015-02-26 19:56:26 | 日記
少年が殺害された事件が連日報道されている。もうニュース番組を観るのをやめようかと思うくらいに不快感を感じますが、冷静に考えてみて思ったのは、彼を取り巻く環境が彼を死に至らしめたように思う。

どうして、自身の力で生きてゆけない少年である彼がその環境に身を置かねばならなかったのでしょう。

また、少年の命を想像を絶する暴力で死に至らしめた少年達はどうして非道な暴行をためらいなく行えたのでしょう。

児童たちの心が荒んでゆく理由は何でしょうか。それも環境が原因でしょうか。

それとも学力の格差でしょうか。

学べる環境にもかかわらず、学びを放棄することが生み出した感情でしょうか。

恐怖という力で支配する事ができるという快感が、道理を忘れさせてしまうのでしょうか。

豊かさのおかげでメディア等から天才児と注目される子供たちも出現してきているけれども、その反面ためらわない児童も増加してきてるのだとしたら、それもまた、豊かさをためらわず享受し、消費してきた僕達の世代を観て育ったからなのだとも思うのです。





かぐや姫の物語

2015-02-23 23:53:15 | 日記
帰宅してニュースを見るとアカデミー賞の受賞作品が発表されていた。惜しくも受賞を逃した「かぐや姫の物語」。 悔しいのでジブリファンとして一言述べておきたいっ!

たしかに「ベイマックス」もいい作品。でも、アニメーションとしての芸術性は「かぐや姫の物語」の方が優れているように思う。と、いうか上田ッ!!(笑)

受賞できなかったのは、異文化には伝わりにくいテーマだったからかもしれないけれど、何となく感じるのは、村上春樹さんがノーベル文学賞を受賞できない理由と同質のような気がするのです。

sekaino owari < akb48 ?

2015-02-22 19:48:30 | 日記
車で移動中、妻が「何かドライブに向いているcdはないの? 」と、いうので、最近気になって聞き出したsekai no owari を再生した。最初のうちは何も言わなかった妻が、信号待ちで「この歌は毒だ。」「あなたはこの歌の影響を受けている。」「最近変な事を言うから何かおかしいと思っていたらこれが原因だ。」と、言いだした。

何を言っているんだろうと思いつつも相槌を打っていると、あまりにも的はずれな事を言うので、「別に歌詞までかみしめて聞いていないよ。」と、言うと「ちがう!聞き流していても聴き続けていれば影響を受けるんだよ。」と、力説する。「サブリミナル効果じゃあるまいし。」と反論すると、「これは(sekkai no owari)は10代や20代の若い人が聞き流すにはいいけれど、いろいろ経験した人が聴くと毒だから聴いてはいけない。」と、さらに念を押され、「明日、akbを借りてきてそれを聞きなさい。あれは元気が出るから。あなたはウキウキする音を聞かなければいけない。」とまで言われる始末。確かにアイドルグループの曲調はアップテンポでキャッチーなメロディであるからウキウキするのはわかるけれど、押し付けられて聴くものだろうかと思いながらも、翌日、akb48の「次の足跡」をレンタルし早速聞いてみた。確かに明るくて元気が出そうなんだけれど、アニソンと変わらないのではとか、リズムが単調すぎて身体に入ってこないとか、もうちょっと上手く歌ってくれたらなぁとか、理屈で考えてしまってどうにもいけない。

いつもより大きめの音量で通勤の間に聴いてみて、帰宅後妻に「どうだった。」と、聞かれ「う~ん。いいんだけれど、よくわからない。」と、答えると「一週間聴き続ければ、きっとよくなるはずだから。」と、精神科医のように言い放った。

ストレスの原因を「sekai no owari」に転嫁してしまう妻とは価値観が違いすぎてため息が出てしまう。(苦笑)

白熱する議会。

2015-02-19 23:17:18 | 日記
昼食時、休憩室には僕一人だったので、遠慮なくテレビのチャンネルを変えてみたものの、情報番組やドラマの再放送はどうもつまらなかったので、たまには衆議院予算委員会中継でも見てみるかとチャンネルを合わせると民主党の岸本周平衆議院議員が述べているところだった。それでもさして気にも留めずご飯を食べながら聴いていると、難しい話をわかりやすく、且つ、論理的に話を問題点へと持ってゆくその手法に次第に引き込まれてゆき、食事の手を止めじっくりと画面に見入った。首相をはじめとする与党の大臣の方々が守備に回り始めると、岸本さんの話がさらに熱を帯び、議会の流れをリードして行くように見えた。論じられている話は難しいけれども、僕が感じたのは、岸本さんはこれ以上社会的格差を広げない為に論じ、首相をはじめとする与党の大臣の皆さんは前向きな言葉だけを使って、多少の犠牲を払っても今の流れをさらに推し進めてゆくために論じたのではないかと思った。

そして、今まで予算委員会中継でここまで引き込まれる事がなかったので、このように弁じられる岸本さんという議員さんはどんな人なのか興味がわいたので、ググってみるとその経歴に納得した。

白熱した議論がいつの日か止揚にたどり着く日がくるといいなと思う。

時代の声を聴け。

2015-02-13 21:59:29 | 日記
いつも同じ話を繰り返す認知症のおばあちゃんが、何かの拍子で小学生時代に体験した話をし出した。これは新たな話が聞けるかなと注意深く傾聴してゆくと、その話に驚きとともに恐怖を感じた。

お婆ちゃんが小学生の頃、戦場に行く若者を見送りに多くの人が駅のプラットフォームに集まり、皆で日章旗を振りながら「勝ってくるぞと勇ましく~。」と歌ったそうであるが、その間、戦場に行く若者の母は下を向き、涙を流していた。
少女はその様子を見て可哀想にと思ったが、涙する母を見て「泣いているわ。」と、言って笑っている人が何人かいるのを見て、子供ながらにとても不快に思ったという。

美輪明宏さんが戦中に体験した若き兵士を見送った話も胸に突き刺さったが、生身の、しかも記憶がなくなりつつある人の口から聴く体験談は、それ以上に不気味さを感じた。

戦場に行ってしまえば、生きて帰ってこれぬかもしれない我が子を国の為に送り出すのであるから涙を流すのは普通であろう。それは他人ごとではないのだから悲しみも共有されるのが普通なように思う。
しかし、当時は人としての普通の感情を表に出してはならなかった。そして歪められていった。

統制されたイデオロギーは時として、人の心の感情さえ歪めてしまうほど危険なものであり、ナショナリズムは行き過ぎると人の命さえ自身の物でなくなる。
お婆ちゃんの体験談は体験を通して現実としてそれを示している。

今の時代をけん引している人たちは、お婆ちゃんの体験を次世代の子供たちに追体験させぬよう舵を取らなければならないし、それが義務であり、それこそ大儀であるように思うのです。

「なぜ人を殺してはいけないのか。」

2015-02-12 19:07:38 | 日記
昨晩録画した「相棒」を観終わる。とても面白かったのだけれど今回のテーマである「なぜ人を殺してはいけないのか? 」という問いかけが頭の中でぐるぐる回っている。

杉下右京の恩師の言うように「なぜ人を殺してはいけないのか? 」と、言う問いは、子供じみた愚問であるように思いますが、杉下右京が言うように「明確な理由がない。」とも言えます。
これは、一般的な道徳観から見れば矛盾している問いと答えであるけれど、逆説的に捉えれば、「世の中は矛盾しているものだ。」と言えます。

人を殺してはいけないというルールが法においてのみ適用される論理であるなら、世の中に法がなければ、人を殺してもよいということにもなります。また法を司る国が「人を殺してもよい。」と言えば、殺人は法の下に正当化されることになります。

それは、他国との戦争がその最たるものですが、戦争はどんな形であれ国家が認めた殺人行為と言えるでしょう。

しかし、不思議なもので、文字にしてしまえばこれだけの事であるけれど、攻めるのも守るのも、その現場にはたくさんの血が流れ、平凡な営みが誰かの手によって一瞬にして奪われて、悲しみや憎しみという感情が生まれ人々の心が荒んでゆくと、いずれ人々から倫理観や道徳観が離れてゆき、法は個人の手にゆだねられるようになると思います。

法が個人にゆだねられる。それは極論であるけれど、人が知性を働かせることを止め、欲望の赴くままに生き始めたらどうなるかという問いになります。

自然界では食物連鎖として、弱肉強食は自然の営みであるけれど、倫理観や道徳観という、知性を必要とする行為が必要でなくなれば、人もいずれ弱者が強者に捕食されるようになるのではないでしょうか。
人が人を捕食する。それはカニバリズムという少数派が一般的になるということではありませんが、不平等が横行することになるということは間違いありません。それは暴力が支配するといってもいいかもしれません。

法が機能し平和が維持され、貨幣の運動によってぜいたくな生活ができている間は、知的労働によって大きな対価を得ることができ経済的な格差を生みますが、無法地帯となり、人が命に囚われているならば、知的労働で得られた貨幣は、暴力によって理不尽に搾取されるようになるでしょう。強奪や搾取が当たり前になってしまえば生産活動は弱体してゆき、人が住めなくなれば、暴力はやがて新たな宿主を求めて移動してゆくでしょう。

それは、どこに行っても常に暴力が付きまという事になります。勿論、他者からの暴力を自身の力で回避する力も備えられればよいのだけれど、皆がそこまで万能ではありません。武器を持てば逆転できると思う人もいるかもしれませんが、こういった状況では手練れも武器を保持しており、且つ、使い慣れ、殺人に対するスキルも高いと思います。ですから、どんな武器を保持していようと戦闘の場でも格差が生じているので、弱者である者の命は常に奪われる状況は変わりません。それが、どれほど絶望的な人生であるかを理解すれば、自ずと人を殺してはいけないという法が辛うじて機能している事の有難さを実感できるのではないかと思うのです。

また、なぜ人を殺してはいけないという問いかけがなされている間は本当に平和だと思うのです。大勢の人が理不尽な暴力によって命を奪われる危険がない日常では「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いかけよりも、大勢の人が「何としても生き延びねばならぬ。」という希望を持つからです。何としても生き延びようとする気持ちは何百里であろうと人を争いのない世界へと歩ませます。
大陸ならば多少の危険も顧みず幾国の国境を越えてゆくのです。こんな時、人々は「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いよりも「なぜ人は殺しあうのか。」と、問うのではないでしょうか。

したがって、「なぜ人を殺してはいけないのか」と、問う人は、頭でっかちになりすぎて、平和な世の中に甘えている人だと言えるかもしれません。
勿論、自らの力で生きようとしても、上手くゆかず生きることに絶望している人もいるでしょう。神などいるものかと悲観されている人もいるでしょう。しかし、世の中はいつの時代もある人にとっては楽園であり、ある人にとっては矛盾に満ち満ちていて苦汁を飲みつづける日々でもあるので、生きる希望を失い自死の欲望に駆られることもあるでしょう。

自殺も人を殺すということになりますが、自殺においては最終的に自身が法になるように思います。国や居住区を離れ個に戻る時、決定権は個人にゆだねられます。
しかし、個人という法が、自死を認めてしまうまでは、国が定める法がそこそこに守ってくれているのだと思います。

様々な表現を用いて問いに対する回答を試みたけれども、総括すると、様々な個性を持つ人々が、穏やかな日々を生きてゆくためには法は不可欠であり、その中で、「なぜ人を殺してはいけないのか。」と問う人も、法によってその発言と命が守られている事を自らの身体で証明していると言えるでしょう。

これでも、言葉が足りないとするなら、それは、「なぜ人を殺してはいけないのか。」という問いかけをしている人の「欲望」に沿った答えになっていないだけだからと思うのです。しかし、個人の欲望に沿う回答であるなら、普遍性に欠けており、答えにはならないのだと思うのです。

幸福とは。

2015-02-10 22:02:46 | 日記
職場でお昼ご飯を食べつつテレビを観ていると介護疲れで妻を殺めてしまったという事件が流れた。職場が職場だけに一瞬、しんとなったが「どうにかならなかったのかな。」などの言葉が誰からともなくこぼれた。でも僕は周りから聞こえてくる言葉とは違う事を考えていた。

確かに、社会資源に頼ればどうにかなったかもしれない。でも、夫である男性は病院にかかる前に妻を殺めてしまった。

おそらく、今までがんばって妻のお世話をしてきた男性は、妻を病院に行かせてしまったらもう今までの生活には戻れないであろうことと、いつ終わるかわからない妻の人生を金銭的に支えてゆくことの困難さを十分に理解していたうえで、それならばいっそのこと一緒に命を絶とうと行動に移したのではないかと思ったのです。

もし、仮に男性がボケてゆく妻に束縛されることなく残りの人生を謳歌したいという望みがあったなら、長男に頼ってでも早々に社会資源に頼ったであろうと思うのです。
でも、そうはしなかった。僕はここに男性と妻の絆の深さを考えたのです。

第三者から見れば、悲しい事件であるかもしれません。でも、自分の事を忘れてゆく妻の存在に耐えられることができるでしょうか。僕は以前、夫を忘れてしまい夫に向かって「あんたは誰だ!」と言って叫ぶ妻を前になすすべもなく涙を流す夫の姿を見たことがあります。その前にその男性から妻とのなれそめを聞いていたのでやりきれない思いを抱きながら、興奮するおばあちゃんを慰めたことがありました。僕はこういう事件があるたびにその様子が頭の中で再生されいつも切なくなるのです。

死にきれなかった男性は残りの人生を罪を償う事で費やさなければなりませんが、好きだった妻が自分の事を忘れてしまう姿を見続けるよりも耐えられるような気がするのです。

確かに法の上では間違った行為です。しかし何が幸福であるかなど、法で定義することなどできませんし、それを第三者が深く理解することもできません。

超高齢化社会を間近に控え、私達は改めてこのような事件から何を学び得られることができるかを真剣に考えなければならないところに差し掛かっているのかもしれません。

類似。

2015-02-09 19:35:20 | 日記
今年も無事にスキーツアーが終了した。初日は何年かぶりの快晴でうれしかったが、滑走量は天候不順の日とほとんど変わらない。自堕落になったもんだと笑いつつも充実した時間を過ごすことができた。

スキー場で休憩する際にいつも訪れる山小屋でビールと共に今日の一品料理を頼むのであるが、今年はイナゴの佃煮であった。しかし、慣例になっていたので友人はためらうことなく注文し、しばらくすると小鉢に入ったイナゴの佃煮と野沢菜付けとビールがテーブルに届いた。僕たちはビールを注ぎあい、一年ぶりの再会に乾杯した。そして「イナゴだよぉ」と言いながらイナゴの足を掴み、恐る恐る口にすると意外といけることに気づいた。

「あれ、意外とうまいね。」と、口をそろえる。しかもビールと合うので食が進む。友人は変な格好をした状態で佃煮化されたイナゴを手に取り「これ変な格好してるなぁ」とまじまじと眺めながら口にほうり込むものだから、思わず笑ってしまう。

長野県ではイナゴを食すのは普通であると情報番組で見たことがあり、お土産屋さんでも瓶詰で売られているのを見かけていたので存在は知っていたが、その姿をみると食べる気にはなれずにいたが、大人になるとこういった機会に恵まれる。

何匹か食しているうちに、何かに似ている感じがしてきたので、味をかみしめながら思いを巡らせていると、ふと思い出した。そこで、「この味って、たつくりに似てない? 」と、言ってみると、友人は「そんなん佃煮やで、同じ味にきまっとるやろ。」と、一刀両断され、僕も「確かにそりゃそうだ。」と、納得した。

また、蕎麦屋で美味い蕎麦を頂いた時、だされたお茶が蕎麦茶というもので大変美味しいかったが、これもまたどこかで味わったことがある気がしてきたので思いを巡らせながらお茶を口に含んで味を確かめていると、遠い記憶の底からその味が蘇ってきた。そこで、「この味って、あられのお茶漬けのときの残ったお茶の味に似てない? 」と、口にしてみると今度は、「おおっ。確かに。こんな味やったな。」と、賛同される。

三重県では(地域限定的)田舎あられにお茶をかけて食す習慣があった。昔は今ほど食べ物の種類も、お店もなかったので、農業を営んでいる家庭は、お米と同時にもち米も生産し、内米として残しておいたもち米で年末にお餅とあられを作った。餅は一月ほどでカビが生えてしまうが、あられは一年を通しての保存食とお茶請けの役割もになっていて、食べ方のバリエーションの一つとしてあられのお茶漬けという食べ方があった。

お茶碗に入れた田舎あられにお茶を注ぎ、ふやける寸前のあられを一気に食べるのであるが、それでも、ふやけてしまったあられがお茶のなかで「だし」になり、緑茶の香りが香ばしい香に代わるのである。それが、蕎麦茶の味、香りによく似ていたのだった。

もやもやしていたものがスキッとしたおかげで、お蕎麦も大変美味しく戴けたのであった。




閉塞感が生み出す怪物

2015-02-05 23:26:31 | 日記
無差別殺人が今日も起こった。それは、命を奪われる側の想像ができない人が存在しているという事であり、予期できない行動です。

その衝動の起源が閉塞感がもたらすものであるとしたら、生きにくさを解消しないかぎり必ずどこかで暴発するように思います。しかし、その方法はないように思います。
なぜなら、個人が個人に向き合うことでしか個人が感じる閉塞感は解消されないからです。

また、人は楽なほうへ流される傾向があります。したがって、後先考えずに一時だけでも衝動を解消しようと試みます。

とても危険な考え方ではありますが、衝動は他者に向けることで、解消できてしまえることがあります。これは多くの人にとって心当たりがある事ではないでしょうか。

もし、仮に、一昨日に発覚した殺人事件の加害者である女子大生のような感情を持つ人が、ネットを通してテロを依頼されたらどうなるでしょう。

指定の場所に爆弾を設置し、遠隔で起動スイッチを作動させる。もしくは、その指定場所で自爆を促される。というような働きを要求されたら、衝動の解消のため、後先考えず実行してしまうのではないでしょうか。

それは、予期できない行動であるのでかなりの確率でテロは成功するでしょう。まさか無宗教の自国の民がと思い込んでいるところにスキが生じているので大変厄介です。

格差が広がり、閉塞感が生じる。シンプルに生きることの難しさや快楽に溺れてしまいやすい環境が、現在の民主主義にはあるように思います。
それは、普通の生活に踏みとどまることができず零れ落ちる人々が出てくるという事でもあり、その中でも自己中心的な自己評価の高い人達は、個への益を求められる社会に対し牙をむくことは自然であるように思います。

インターネットの画像はリアルとフェイクで混沌としているので、不満や衝動を持て余している人々の中にはフェイクに傾倒してゆく人もいるでしょう。

そんな人達を上手く使う人が現れた時、最悪の事態が生じるように思うのです。

斜陽。

2015-02-02 23:32:01 | 日記
引き続き考えています。政府はどうして強い言葉を使い続けるのだろうか。それがどれほど危険であるのか理解しているのだろうか。テロは戦争ではなく、ある日突然たくさんの人が理不尽な暴力によって命を絶たれるのです。

主要都市の平日の朝や夜のラッシュ時の人でごった返している大きな駅の構内で、何の予告もなく突然爆弾が破裂するのです。それがテロです。
私たちには護衛もつかず防弾の車で通勤しているわけでもないので、巻き込まれるしかないのです。

もっと、違う言葉を用いることができなかったのだろうか。

また、情報番組でも取り上げられているようになぜ、「国」という表現を常用したのでしょうか。

なぜ、そのことで誤解を招き、間違った観念を植え付けられてしまう危険性に配慮しなかったのでしょう。

根拠のない噂だけで、感染症でもない疾患の人を、迫害し隔離してしまうという黒い感情が私たちの中にあるのです。それが、どんな弊害を生むかよく考えるべきではないでしょうか。

そして、戦争で一番の被害を受けるのは、そこで普通の生活を営んでいる人々であることは、先の戦争で先人が身をもって体験しているはずです。
他国の人々が戦争によって苦しんでいる事を伝えることは大切であるけれど、その前にどうして身近な体験者の口をつぐませてしまったのでしょうか。

ここまで考えてしまうと、誰かの都合のために、多くの人々が犠牲にならざるをえない状況に事が進んでいるのではとしか思えなくなるのです。




混迷する未来。

2015-02-01 19:16:12 | 日記
朝のニュースを観てその結果に悲しくなった。手段を択ばぬ非道な人達に憤りを覚える。その行為に神の恩寵があってなるものかと思いもしたが、彼らが戦闘員になった過程を考えると彼らのすべてが悪であるとはいいがたいように思う。

それは正義とか大儀とかいう言葉がどこにも当てはまらず、ただ、人の感情が黒い欲望に飲み込まれていってしまっていると感じる。

また、ニュースを観ていて、国の対応、というか、言葉が上っ面を滑っているように思った。

閣僚の悲痛な面持ちの裏には、第9条の改定を控え、国民に同意を得やすい状況になったとほくそ笑んでいるのではと思ってしまう。

もし、それが的を射ていたとしたら、この流れは誰かのシナリオ通りに事が進んでいるのだと思えてくる。9・11後の戦争のように・・・。誰かの益のためにまた多くの血が流れる・・・。

不毛な争いはいつまで続くのだろうか。戦うことは生きることなのであろうか。死と隣り合わせで生きるより、詩と共に生きたほうが幸せではなかろうか。

今回の結果は残念でなりませんが、軽率で安易な渡航や海外での行動は控え、報道は何を伝え、何を守るべきか熟慮し、政治の都合に巻き込まれぬよう距離を保たなければならないように思います。