硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

はや我が汽車は離れたり・・・。

2022-05-20 21:13:28 | 日記
新聞の三重版に「関西線存続へ来月会議」という記事が載った。
JR西日本は、亀山―加茂間は赤字路線と公表。廃止も視野に入れているようである。

その路線の前身の関西鉄道は、伊藤博文が第3次内閣であったころ、官設鉄道(元東海道本線)と旅客、貨物を巡る競争を行うほどの勢いがあり、東海道で言う所の、関の山を超える区間の利便性は飛躍的に向上した。

その反面、関の山のふもとに構える関宿は、鉄道が敷かれた事により、人とモノの流動に関わる仕事は激減し衰退していった。

そして現在。沿線の町の多くは人口が減少し、道路が整備され、車社会へと移り変わって、再び大きく人とモノの流れが変わった。
鉄道自体の性能は進歩しているが、それでも、かつての賑わいを取り戻すことは不可能であろう。

たった、120年間の出来事である。

シン・ウルトラマン

2022-05-16 20:24:25 | 日記
エンドロールが終わり、場内が明るくなる。ため息が出る。体全体に余韻が残り、しばし呆然とする。
立ち上がり歩き出すも、空間が歪んでいるような気がして、一度目を閉じて、ゆっくり息を吐き歩き出す。
自分の状態を分析しようと試みるも、うまく言語化できない。椅子に座りもう一度目を閉じて深呼吸。僕が作品の感想を記すべきではないと強く思う。

「シン・ウルトラマン」がどういう作品であったのかは、いずれ岡田斗司夫さんが明確にやってくれるであろう。

「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンタロウ」までのシリーズはリアルタイムで観てきた。僕がまだ、まっさらだった頃に何の抵抗もなく入ってきた作品群は、いつしか僕の奥底でコアとなっていた。そのコアが大きく揺さぶられたようで、こうやってパソコンに向かっている今でもまだ余韻が消えない。

「背中にチャックがある」と笑いにしていた芸人さんの言葉に笑いながらも、心を痛め、いつまでも、特撮など見ていてはいけないと無理やり消化した「アオイホノオ」を庵野秀明さんや樋口真嗣さんはアオイホノオを絶やさず燃やし続けていた。
天才とはこういう人の事を指すのだと改めて思った。
そして、先人たちの作品の制作に予算や制約の縛りがなかったら、おそらく庵野さんは「シン」を作ろうという発想には至らなかったのではないかと思った。

この先、「仮面ライダー」や「ククルスドアンの島」も近いうちにスクリーンで観られるようである。しかし、嬉しいとか楽しみとかと言う感情がまったくわいてこない。
ただ、必ず大きなスクリーンで見届けようと思う。それは、自分の死を見届けるように。
僕のコアがまた大きく揺さぶられるであろうとも。

「親ガチャ」を考えてみる。

2022-05-07 20:26:16 | 日記
「親ガチャ」という文字が新聞の一面に載った。
その文字を見て、そういう表現を新聞でも取り上げる時代が来たのかと感心した。

僕が思う「親ガチャ」の定義は、「親の資質が、子供の生活環境を決定してしまう」で、あるように思う。そして、「ガチャ」と言う表現が発生した動機を考えると、「自分が不遇なのは運だから仕方のないことだ」で、あるように思う。

「トイガチャ」は、希望していたものが手に入らなかった場合、とてもがっかりして、その場で捨ててしまうという選択もあると思うが、「はずれ」だったとしても、手元に置いておいて、楽しもうと思えば楽しめるようになるかもしれないし、他者から見て「それはハズレじゃない? 」と、言われたとしても、本人が気に入っていて、「アタリである」と思うならば、「ハズレ」ではなくなる。
もし、そうだとしたならば、価値基準を他者にゆだねている間は、その本質はわからない。

幸福の尺度は千差万別である。裕福な家庭に生まれても勉強ができない子もいるし、貧しい家庭に生まれても、日本は階級社会ではないから、勉強が好きならチャンスは巡ってくる。

親の財力によって発生する格差は如何ともしがたいが、親の財力も永遠ではないし、貧しい環境に育ち、それをばねにして苦労の末に財を成す人がいる。
容姿端麗な人もいれば、そうでない人もいるし、オリンピックに出場できる運動能力のあるひともいれば、運動音痴の人もいるし、貧しいながらも、幸せな日々を送れる人もいれば、裕福なのに生きる事に絶望を感じてしまう人もいる。
それはいつの世も同じである。

そのような観点から考えると、格差は悪いことのように扱われている傾向があるけれど、格差を出さなければ、皆が「いい人生を送れるか」という問いに対しての解ではないのではないかと思うのです。