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元ワイドショープロデューサー仲築間 卓蔵(なかつくま・たくぞう)のブログ

気になって仕方がない 鎌倉市役所移転問題

2023-04-26 14:30:54 | Weblog
▽ 移転先とされている深沢について一言
地名には意味があります。「谷」とは低い場所のこと。一つの例が東京の渋谷です。大雨で地下街が大きな被害を受けましたね。
「沢」とは水辺、低地のこと。地震、水害に弱いほか湿気がたまりやすい場所のことです。2018年7月、西日本を襲った記録的な豪雨を記憶されている人もいるでしょう。死者200人を超えました。広島県では降り続いた大雨による土砂崩れや土石流が住宅部に流れ込み、被害が拡大しました。
とりわけ被害が大きかったのは安佐南区八木地区でした。この地は「蛇落地悪谷(あしや)」

という地名でした。蛇が降りるように水害がおきる悪い谷といわれていたところです。それが地名変更で安佐南区八木地区になりました。住宅地になったのです。
松尾という市長が市役所を移転しようとしている深沢という地区は、鎌倉の端っこ、藤沢に近い、ちょっと雨が降れば水浸しになる深沢という地区なのです。
▽わたしの今日の本題は、鎌倉市役所は現在地に「あるべき」論です。
 年金者組合の公平さんが寄せてくださったコメントを紹介しましょう。
 「鎌倉という都市の財産は“歴史の重み”。これだけは他市が真似できません。
  平安時代には鎌倉郡衙があり、頼朝が幕府を置き、近代では鎌倉駅開設。
鎌倉市役所はこの地にあってこそ名乗れるのです。歴史の重み無視した市庁舎移転は第二の鎌倉幕府滅亡です。松尾市長は未来の市民から“第二の北条高塒(最後の執権といわれている)と言われるでしょう。防災を言うのなら、現在地に腰を据えてこそ、深沢や大船、腰越をも含めたすべての市民の安全を図るべきです」
▽「古都鎌倉」の政治の中心は 若宮側と市役所側
鎌倉幕府の最初は頼朝の屋敷内に置かれた大倉(蔵)幕府でしたが、「頼朝の妻・政子が亡くなるとともに、北条泰時は将軍の御所(幕府)を宇津宮辻子(雪の下教会横の小道を入ったところにある宇都宮稲荷の周辺)に移し,約10年間政治が行われましたが、若宮大路側に再び御所を新造し、若宮幕府へ移りました。以後、幕府滅亡まで若宮幕府は続きました。
▽問注所
御成小学校前に建っている「問注所旧蹟碑」をご存知でしょう。「問注」とは訴訟等の当事者双方から審問対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味します。
ちなみに、由比ガ浜から問注所旧蹟碑へ向かう道筋に「裁許橋」があり、さらに、訴訟の結果 由比ガ浜で処刑された者の供養のための六地蔵などがあります。鎌倉の歴史は、少し調べただけでも興味深いではありませんか。
御成町という地名は、かつて鎌倉御用邸があり、皇族がお成り(滞在)になったことからつけられたのですね。
鎌倉市の全身。鎌倉町の町役場があったところは、若宮大路沿いの通称「おんめさま」と呼ばれる大巧寺右側にありました。
町から市になったのは1939年。この地を選んだのは、それなりの理由があったのではないでしょうか。
鎌倉市役所とその周辺は、まさしく、若宮大路を中心とした行政の地とともに、歴史的な地であることがわかります。その視点で見れば見るほど、鎌倉市役所は「古都鎌倉」「鎌倉らしさ」の中心にあり続けるべきだ と思いますが どうでしょうか。(仲)
 

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