松竹映画作品『陸軍』を観る機会を得ました。
映画人九条の会が主催した「反戦名作映画上映第3弾」です。別の会合をキャンセルして観させてもらいました。
この作品がつくられたのは1944年(昭和19年)。「大東亜戦争」(わたしたちはそのように呼ばされていた。アジア太平洋戦争のこと)3周年を記念して 陸軍省の依頼でつくったものです。したがって、当然、目的は「戦意高揚」のためということになります。木下恵介32歳のときの監督作品です。
舞台は九州・小倉。質屋を営む高木家の三代にわたる話です。
関門海峡に現れたイギリス艦隊の砲撃をうけて敵意を持つ祖父。日清・日露戦争に(身体が弱くて)参加できなかったが、「神風」を信じ、遼東半島の返還に怒る父。その息子の時代は「大東亜戦争」です。
母親は、「子どもは”天子様”(天皇)からの預かりもの。(召集されて)やっとお返しするときがきた」と・・・。
圧巻はラストシーンです。母親は、出征する息子を見送るつもりはなかったが、遠くから行軍するラッパの音が聞こえてきます、行進する兵士たちの軍靴のひびきが聞こえてきます。
母親は 思わず駆け出します。息子の姿を探し求める母親。行進する兵士。探す母親・・・。
やがて息子の姿を目にします。「さわやかな笑顔」で行進する息子。涙をうかべながら 息子を追いつづける母親・・。
カメラは その様子を横移動で延々と これでもかこれでもかと見せていきます。そのままエンドマークです。
思わず涙が出てきました。
大きな拍手が湧きました。
母親役の田中絹代の白熱のラストシーンは見逃せません。機会があれば ご覧になることをおすすめします。
この作品に陸軍側は激怒したそうです。憲兵がサーベルをじゃらつかせて撮影所に現れたといいます。「出征する兵士に涙をみせるなどとはけしからん」と。
木下恵介は、「涙を流すのはあたりまえだ。なにが悪い」と毅然と対応したというはなしが伝わっています。
昭和19年といえば、連合軍側の攻撃が激しさを増していた時期です。南太平洋では多くの日本軍が(兵士だけでなく民間人までも 何の支援もないまま)死んでいった時期です。この映画を鎌倉から観にきてくれたA女史が、「赤城丸の悲劇」の記録を送ってくれました。アジア太平洋戦争の末期には、さまざまな悲惨な出来事がつづきましたが、「赤城丸の悲劇」もその一つです。昭和19年2月17日のトラック島大空襲の直前、民間人800人を乗せて横須賀に向けて出航しましが、米軍の雨アラレ作戦で沈没します。船には兵士も乗っていました。「兵隊はこれからも戦わなければならない。闘争力のない女子どもから海に飛び込むように」という命令がでたといいます。赤城丸は一例です。知らない悲劇はたくさんあるのです。沖縄戦も同様です。
映画『陸軍』は、まさにその時期につくられたものなのです。反戦映画を撮った監督はいますが、戦時の真っ只中で、これだけの表現をした監督はいないのじゃないでしょうか。木下恵介という監督をあらためて見直すことができた一刻でした。
ことしは 木下恵介生誕100年だそうで、記念の上映会がつづくようです。映画人九条の会 頑張れ!です。
映画人九条の会が主催した「反戦名作映画上映第3弾」です。別の会合をキャンセルして観させてもらいました。
この作品がつくられたのは1944年(昭和19年)。「大東亜戦争」(わたしたちはそのように呼ばされていた。アジア太平洋戦争のこと)3周年を記念して 陸軍省の依頼でつくったものです。したがって、当然、目的は「戦意高揚」のためということになります。木下恵介32歳のときの監督作品です。
舞台は九州・小倉。質屋を営む高木家の三代にわたる話です。
関門海峡に現れたイギリス艦隊の砲撃をうけて敵意を持つ祖父。日清・日露戦争に(身体が弱くて)参加できなかったが、「神風」を信じ、遼東半島の返還に怒る父。その息子の時代は「大東亜戦争」です。
母親は、「子どもは”天子様”(天皇)からの預かりもの。(召集されて)やっとお返しするときがきた」と・・・。
圧巻はラストシーンです。母親は、出征する息子を見送るつもりはなかったが、遠くから行軍するラッパの音が聞こえてきます、行進する兵士たちの軍靴のひびきが聞こえてきます。
母親は 思わず駆け出します。息子の姿を探し求める母親。行進する兵士。探す母親・・・。
やがて息子の姿を目にします。「さわやかな笑顔」で行進する息子。涙をうかべながら 息子を追いつづける母親・・。
カメラは その様子を横移動で延々と これでもかこれでもかと見せていきます。そのままエンドマークです。
思わず涙が出てきました。
大きな拍手が湧きました。
母親役の田中絹代の白熱のラストシーンは見逃せません。機会があれば ご覧になることをおすすめします。
この作品に陸軍側は激怒したそうです。憲兵がサーベルをじゃらつかせて撮影所に現れたといいます。「出征する兵士に涙をみせるなどとはけしからん」と。
木下恵介は、「涙を流すのはあたりまえだ。なにが悪い」と毅然と対応したというはなしが伝わっています。
昭和19年といえば、連合軍側の攻撃が激しさを増していた時期です。南太平洋では多くの日本軍が(兵士だけでなく民間人までも 何の支援もないまま)死んでいった時期です。この映画を鎌倉から観にきてくれたA女史が、「赤城丸の悲劇」の記録を送ってくれました。アジア太平洋戦争の末期には、さまざまな悲惨な出来事がつづきましたが、「赤城丸の悲劇」もその一つです。昭和19年2月17日のトラック島大空襲の直前、民間人800人を乗せて横須賀に向けて出航しましが、米軍の雨アラレ作戦で沈没します。船には兵士も乗っていました。「兵隊はこれからも戦わなければならない。闘争力のない女子どもから海に飛び込むように」という命令がでたといいます。赤城丸は一例です。知らない悲劇はたくさんあるのです。沖縄戦も同様です。
映画『陸軍』は、まさにその時期につくられたものなのです。反戦映画を撮った監督はいますが、戦時の真っ只中で、これだけの表現をした監督はいないのじゃないでしょうか。木下恵介という監督をあらためて見直すことができた一刻でした。
ことしは 木下恵介生誕100年だそうで、記念の上映会がつづくようです。映画人九条の会 頑張れ!です。